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Film06.小さな天使は私の元に ―KOTARO’S EYE―


 俺は早々に放課後のホームルームを切り上げ、ゆーちゃんの手紙にあった『体育館の裏手にあるイチョウの木』へ向かった。
 けしからんことに、他のクラスではこのホームルームは行っていない。以前にこのことについて、職員朝会で改善を求めたのだが、他の先生方は一向に動く気配はなかった。
(だいたい、この学校自体がたるんでいるんだ)
 教員も生徒も俺と同様、いやそれ以上に真面目で勧善懲悪の精神を持っていなければならない。
 俺はたるみきった日本の学校に憤慨しながら、それでも指定されたイチョウにほど近い木陰に身を隠した。
(いったいどんな奴が……)
 俺は自分の怒りの方向を手紙の送り主にすり替え、ゆったりと流れる時間を感じながら、ひたすらに待った。
 時計を見ると、実際は五分程度だった。さくさくと近づいて来る足音がするまでは。
 息をひそめて待つ俺の視界に入ってきたのは、黄色いリボンをゆらして歩く女生徒だった。あんなにスカートを規定以上に短くして、注意をしなければという使命感が頭をよぎる。髪は茶色っぽく、明らかに脱色していた。親の金をこんなことに使うなど言語道断だ。
(黄色いリボン……一年生でこのような格好とは)
 通りすがりかどうかを確かめるために待っていた俺に気づかずに、その女生徒は問題のイチョウの木の下まで来ると、その場にとどまった。そして、手持ちぶさたに胸のリボンを結び直し始めたのを見て、俺は確信した。
 ―――こいつが犯人か。
 俺は犯人がリボンを結び終わるのを待って、木陰から姿を現した。
「! 九十九先生……?」
 犯人は驚いて俺を見た。当然だろう。来る筈だったのは二年の女生徒だったのだから。
 俺はスーツの内ポケットに入れていた手紙を取り出し、確認をする。
「これはお前が書いたものか?」
 犯人は手紙を一瞥するなり、小さく身を引いた。そして、手をぶんぶんと振って「違います」と答える。そのような怪しい素振りでシラなどきれるものか。
「では、何故ここにいる?」
 俺は相手に言い訳を考えさせる隙を与えずに、ずばりと核心を突いた。
「先生、……ここって、人目がありませんよね?」
 その女生徒はゆっくりと同意を求めるように、俺を上目遣いで見た。時間を稼ぐつもりだろうか。だが、それにしては目が潤んでいるような……
「そうだ、な。来なければならない所でもないしな」
 俺は曖昧に答えた。
(何てことだ、俺の方から時間稼ぎをしているじゃないか!)
 そう思ったものの、どうしようもなかった。どうも昔からこういう会話は苦手だ。
「学校は騒がしいけど、ここは静かです」
 俺は「あぁ」とだけ頷いて、次に続く言葉を待った。
「人がめったに来ないので、いろいろなことを考えられるんです」
(いろいろなこと? それはいったい……)
 訝しんだ俺の脳裏に閃くものがあった。……そうだ、それに違いない。今日の職員朝会でも言われたことじゃないか。
『近頃、中高生の衝動的な自殺が増えています。先日も隣町の羽生学園でも……』
「悩み事があるなら、誰かに相談した方がいいぞ」
 俺は慌ててそう言った。慌ててもそう聞こえないのは生まれつきだ。
「……ここだと、考えがまとまるんです」
『一人でよく考え込むような生徒だったそうだ……』
 俺は教頭の言葉を思い出し、さらに慌てた。一人で考え込むということは、すなわち相談できる人間がいないということだ、と。
「一年生か、クラスは?」
 念のため、再びリボンの色を確認した後、俺は尋ねた。
「……はい、Aです」
「来栖先生のクラスか。何か困ったことがあったら担任に相談するんだぞ」
 そう言って、俺はその女生徒にくるりと背を向けた。
『あまり先生側から悩みを詰問してはいけません』
 教頭のセリフが再びよみがえって、これでいいのだ、と俺の行動を後押しする。
 だが、そのまま去ることはできなかった。
「そう言えば……」
 そう言って振り向くと、その女生徒はぎょっとしたような表情を見せた。何だと言うのだろう?
「名前を聞いておくのを忘れた」
「……増山、みのりです」
 俺はあとでこの名前を来栖先生に言っておかねば、と思いながらそこを後にした。


 俺はかねてからの約束通り、ゆーちゃんのうちに夕食を御馳走になりに来た。
 一人暮らしの俺に、おばさん(これはゆーちゃんの母親のことだ)が何くれと世話をやいてくれるのだ。その一環として、月に一度、こうして夕食に招待してくれる。
「あ、晃兄ちゃん、こんばんわ」
「あぁ、半日ぶり」
 玄関でゆーちゃんと軽い冗談交じりの挨拶を交わす。いつものことだ。学校のゆーちゃんとは違って、屈託のない笑顔を俺に向けてくれる。たとえ、いつもと同じように肩まで伸びたサラサラの髪を自然に流しているだけの髪型でも、俺にはすべてが姫君のように……
「おかーさーん、晃兄ちゃんが来たよーっ!」
 客用のスリッパを俺の前に揃えた後、ゆーちゃんはぱたぱたと奥へ入って行く。俺はその手を掴んで引き止めた。
「ん、なぁに?」
「放課後に行ってみたけど、誰も来なかったぞ」
「……うん、そっか。ありがとう」
「代わりに、気をつけるべき生徒に会ったが」
「え?」
 聞き返すゆーちゃんに答えるべく口を開けた俺だったが、「晃太郎くーん、さゆりー? 用意できてるわよー?」との邪魔が入って中断した。
「食事の時に話すよ」
「うん、今日は鶏の薬味揚げだよ」
「俺、あれ好きなんだ」
「私も。今日のは私が頑張って作ったんだ」
 俺は「じゃぁ、食べるのよそう」とふざけて言う。それを聞いたゆーちゃんが顔をふくらませて、「もー!」と怒る。いつもの幸せな空間がここにある。
 リビングに入ると、途端にいい匂いが鼻腔をくすぐった。
「晃太郎くん。はい、どうぞ」
 おばさんが俺のグラスになみなみとビールを注いだ。
「お父さんは遅くなるから先に食べてましょうね」
 そう言っておばさんが「乾杯!」と杯を差し上げてビールを飲み始める。ゆーちゃんも、オレンジジュース「てりり」をついで飲む。俺も何に乾杯しているのかは知らないが、とりあえず飲んだ。
「それで、さっきの話の続きは?」
 俺の好物を自分の皿に取りながら、ゆーちゃんが促す。
「あ、あぁ。あんな人気のない場所で思い詰めていた女生徒がいたんだ」
「あら、自殺するかもって?」
 おばさんが再び俺のグラスにビールを注ぎながら、話に加わってきた。
「そう、人があまり来ないから考えがまとまる、とか話してた」
 俺は再びビールをあおって答えた。さすがに今日は疲れたのか、ビールがいやに胃にしみる。
「へぇ、やっぱりそういう人もいるんだ。何て人?」
 あまりに無邪気な問いに、俺はついつい答えそうになってしまった。これは個人のプライバシーに大きく関わることだ。軽々しく話してはいけない。
――――そう思っていたのに、俺の口はつるりとすべってしまった。きっと空きっ腹にビールを飲んだせいだ。そうに違いない。
「1-Aの増山、とかいったかな?」
「えっ! もしかして、増山……みのり?」
 ゆーちゃんが信じられないといった口振りでフルネームを口にした。
「知っているのか?」
 俺もつられて慌てる。この際、知っていることは聞いておいたほうがいい。生徒のことは同じ生徒の視点からが一番良く理解できるものだろう。
「うん。……でも、そんな人には見えないよ。いつも明るいっていうか、ハイテンションだし」
「さゆり、そういう人の方が繊細だったりするのよ」
 おばさんが薬味揚げを口にしながら、割り込む。俺は慌ててその好物を皿に二つほどとっておいた。危うくなくなるところだった。
 そんな俺の行動を悟ってか、おばさんが「まだ台所の方にあるわよ」と親切にも教えてくれる。
「うちのクラスによく来るんだ、あの人」
「上級生のクラスにか? 何か、何もされていないのか?」
 真剣に聞いた俺を、ゆーちゃんが「まっさかー」と笑い飛ばす。
「何かされてるのは、その上級生の方だって」
「は?」
 俺はあまりの驚きに、間抜けな顔をしてしまった。
「うちのクラスの誰か……ということか?」
「ほら、転入して来たなお……三沢くんにアタックしてるんだよ」
 俺は、心に浮かんだ疑問を打ち消した。三沢の名前を呼んだときのゆーちゃんの口ごもりが気になった。
(三沢の名前は確か……直人。――――まさか、な)
 が、今はそんなことよりも、増山のことだ。
「……恋の悩み」
 口にして、俺はさらにげんなりした。一番苦手な分野だ。俺は恋など通り越した愛をゆーちゃんと育んでいるから……
「いつも断られてるんだけど、やっぱりメゲずに来るんだ。基本的に前向きな人だと思うよ」
 俺はゆーちゃんの彼女に対する印象を聞いて、今日中に増山の担任の来栖先生に告げておかなくて良かったと思った。
「……まぁ、一応、気をつけておいてくれないか?」
「うん、いいよ」
 承諾したゆーちゃんはにっこりと笑う。そうだ、この笑顔を守るためだったら何をしてもいい……
「ねぇ、さゆり。三沢って、直くんでしょ?」
「うん、そうだよ。直くんねぇ、昔と全然変わってないの」
 俺の知らない所で話題がとんでいくのを感じて、俺は慌てて口を挟む。
「直くんって、三沢のことなのか?」
「以前にウチのお隣さんだったのよ。さゆりもよく遊んでもらったわよね?」
 おばさんがゆーちゃんに同意を促したが、どうも歯切れの悪い顔で口をもごもごとさせてから、ようやく「うん」と頷いた。
(あまり三沢とはしっくりいってないらしいな)
 少し、俺はホッとした。
「よく、泣いたさゆりをおぶって帰って来てね。……さゆりに対して怒ってるのに、絶対に置き去りにはしなくて。基本的にいい子なのよ」
「今はピアスで赤髪の奴のつるんでいるけどね」
 俺は白石のことを思い出して、ちょっとムカムカとした。何度注意しても、決して元に戻そうとしないのだ。あいつのおかげで、他のクラスの奴らにもしめしがつかないではないか!
「晃太郎くん、今時それは普通よォ。厳しいのもいいけれど、そんなに堅いと彼女ができないわよ」
 おばさんが軽く窘めるように言った。俺は少しばかりチャンスが来たと思い、ちらりとゆーちゃんを見てこう言った。
「いいですよ。本当に誰もいなかったら、ゆーちゃんをもらいますから」
 そして、ゆーちゃんの反応を待つ。
「その時に、私も独りだったらね」
 俺の方を慌てて振り向いたゆーちゃんはにっこりと、いや、そんなありふれた形容では表現しきれないような、たとえば全てを魅了し、安堵させるような天使の微笑みで答えた。俺はそれこそ天にも昇るような気持ちだった。
 
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