TOPページへ    小説トップへ    ひとつの空にあるように

1.出会いの冬

 1.売られる少女


 世の中は、きっと不公平にできている。

 少女は、今にも震えてしまいそうな手を気力だけで(こら)えて、自分の「出番」をひたすらに待っていた。
 右の手を繋いだ先には、少女と同じように顔を強張らせた弟が座っている。そして、左隣には、彼女と同じく「出番」を待つ女の子がしゃがみこんでいた。
 少し離れた舞台からは、絶え間なく喧騒が聞こえてくるものの、早鐘を打つ心臓の音にかき消されてしまっていた。ただ、何故か、舞台上に立って、紙束を丸めただけの拡声器を持った男のダミ声だけが、イヤでも少女の耳に入ってくる。

「さぁ、もうないかい? もうないかい? そこのチョビヒゲのおじさんでいいかい?」

 一瞬、ざわめきが止まり、嘘のように静まり返った。

「……はい! じゃぁ、決まりだ! こいつは銅貨7枚でお買い上げ! 商品は裏口から受け取ってな! はいよ、番号札がこれだ!」

 一層大きく響いたダミ声に、わっと会場が沸いた。その熱気は、外が冬であることすら忘れてしまったかのようだ。

「おい、次出せ、次!」

 騒然とする会場の中、妙に通りのよいその声に、少女の隣にいた女の子がびくん、と体を震わせた。

「あれ……、お父さん、だ」

 呟いた声は、ざわめきに掻き消されそうなほどにか弱いものだった。だが、すっくと立ち上がった女の子は、もじゃもじゃの髪の毛を手で精一杯整えて、薄汚れたスカートの(しわ)を伸ばし始めた。その手が、足が、カタカタと震えているのは、決して寒さだけのせいではないだろう。それは、隣で同じように出番を待つ少女が、痛いぐらいに分かっていた。

「おい! 次だ。行け! ぐずぐずするな!」

 舞台の方から、いかにも力自慢だとアピールするように筋骨隆々な上半身を露わにした男がやってきて、女の子の腕をむんずと掴んで舞台へと引きずり上げていく。
 舞台を取り囲む人にも見えたのだろう、わっと声が上がった。

「おねぇちゃん……」

 残された少女と手を繋ぐ弟が、悲しそうな声を上げた。

「分かってる。銅貨7枚じゃ足りないもんね。何とかしなきゃ」

 自分の1つ前の出番を迎えた女の子を、彼女はじっと観察した。
 舞台に上がった女の子は、沸き立った群衆に脅えながら、ただ値がつけられるのを立ちすくんで待っていた。
 そんな彼女を見ながら、弟の頭を撫でながらも、少女はじっと考え事をしていた。


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 ゲインチェニーク王国、という王と貴族が政治を執っている国がある。
 上流貴族は、中央で権謀術数をめぐらせ、下級貴族は地方の領地にしがみついて私腹を肥やす。中流層の市民は、国や貴族が吸い上げる税金に嘆きの声を洩らすものの、それでも生きていくには事欠かない。
 ただ、下流の人々は違う。
 生活のために、ときに子どもを売ってしのぐような暮らしを強いられていた。売られた子どもは、奴隷という非合法の商品となる。主人の慰み者になる者、ひたすらに肉体を酷使させられる者、その命をただ奪われるためだけに買われる者も少なくないという。
 だが、それを不公平だと嘆いたところで、何も変わりはしない。
 下流の人々は、ただそれを「仕方のないこと」と受け止める。嘆くこともあるけれど、すべては親や兄弟姉妹のため、家族のためだと割り切って。割り切ることを強要されて。


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 奴隷の競りはテントで行われる。
 国の『手入れ』を避けるために、テントで移動しながら市を立てていくのが常道だ。ただ、上流階級向けの上玉しか扱わない者はその限りではない。それはあくまで例外だ。
 奴隷商のテントが立てば、周囲に奴隷向け商品の露店が開く。彼らはまるでコバンザメのように奴隷商人についていくのだ。

 そして、今、市の中央にある仮設テントの中、また一人の少女が売られていこうとしていた。
 彼女は自分の出番を待つ間、じっと舞台を見つめていた。なかなか上がらない値段。好奇の視線に晒されて顔を青くする女の子。声を張り上げる買い手たち。
 その前に舞台に上がった男の子も震えていた。
 さらにその前に出た女の子は、もっと幼かった。競りにかけられている間中、ずっと泣いていたのだ。もちろん、同情はする。だが、それだけだ。彼女にはどうすることもできない。

(銅貨7枚じゃ、ぜんぜん足りない)

 ぎゅっと弟の手を強く握り、考える。足りないならどうするか。どうやって値を上げればいいのか。
 考え付いたアイデアはある。でも、それは、大きな賭けだった。だが、ここで売られる少女の人生こそ、賭けみたいなものだ。売られた先で、どう扱われるかなんて分からない。ならばなおさら―――

(値を、吊り上げないと……)

 そして、彼女の前の商品が、とうとう銅貨6枚で落札された。何度も見た流れによって、買い手は番号札を受け取り、落札された『商品』は舞台の反対側の袖へと降りていく。

「おい、次だ。来い!」

 あの筋肉自慢の男が、少女を怒鳴りつけた。彼女の隣で座っていた弟がビクッとしたが、少女はそんな弟の肩をそっと叩く。

「いい? ちゃんとお金を受け取ってから帰るのよ」

 まるで、男を無視するように、弟に優しく言い聞かせた。

「おい、早くしやがれ!」

 弟の手を放すと、少女は男の顔を伺いながら、この人にも手伝ってもらおうと決めた。
 たった一つの賭け。自分の体を少しでも高く売るために。
―――誰もやらないことをしよう。
―――誰もできないことをしよう。

「とっとと動かねぇか!」

 男の声は、きっと次の『商品』を待つ『客』にも聞こえている。いや、聞こえていて欲しいと少女は思う。

「言われなくても、自分で行くわよ!」

 できる限りの声を張り上げ、少女は男の手を振り払って自分の足で舞台上に向かって歩き出した。

「さーて、次の商品は、何だか勇ましい声が聞こえましたねぇ……っと、おい!」

 司会役の男の手から粗末な拡声器を奪い取った少女は、そこで初めて舞台下にひしめく客たちを見た。
 自分を値踏みする無数の目は予想以上で、その遠慮のない視線に足がガクガクと震えそうになる。その中には、女だと分かるや興味をなくす者や、テントの入り口から中を覗く者もいた。

(落ち着け、落ち着け、落ち着け……)

 すぅ、と大きく息を吸い込む。深呼吸には程遠いそれは、とてもリラックスできるようなものではなかった。

「銅貨6枚とか、7枚とか、ケチケチ買ってるみたいだけどさぁ! あたしを買いたい人は、せめて12枚ぐらい出してもらわらないと困るんだけど! 誰か、じゃじゃ馬馴らしをやりたい人はいないの?」

 一息でそこまで声を張り上げたところで、拡声器を司会に奪われる。屈強な男に、ぐいっと腕を掴まれて引っ張られながらも、少女はほっと胸を撫で下ろした。

(セリフ、ここまでしか考えてなかったんだよね。助かった)

 それに、彼女の勇気もここが限界だった。あとはもう、競りを見守るしかない。

「いやいや、とんでもないじゃじゃ馬もいたもんですが、こんな馬でも買いたい方は、銅貨3枚からどうぞ!」

 少女をギロリと睨んだ司会役だったが、すぐに自分の仕事に戻った。さすがにアクシデントには慣れているのか、その舌も滑らかに動く。

 少女は、ぎゅっと全身に力を込めて立ったまま、舞台の下の反応を待った。

(お願い……!)

 恐ろしいほどの視線が自分に集中しているのを感じたが、それよりも、こんな行動に出た自分の賭けの結果が早く知りたくて焦れる。

「おもしれぇじゃねぇか、銅貨4枚!」

 気風(きっぷ)のいい声がテント内に響き渡った。

「そうだ、それでこそ調教のしがいがあるってぇもんだ! 銅貨6枚!」

 続けて声を張り上げた男の声に、そうだそうだ、と同意の声が上がる。

「7枚!」
「8枚だ!」
「おいおい、誰か言ってやれよ、12枚ってよ」

 競りの声と、ざわめく客の声に耳を向けながら、少女は負けん気の強い商品らしく見えるように、値を上げた人間に視線を向けていく。

「10枚だ!」

 どよめきと溜め息が洩れた。
 大人でもない女の奴隷としては、既に十分な金額に達している。気の強さ以外、取り立てて旨みのない少女の奴隷としては、破格と言っていい。だが、それでは足りないのだ。

 舞台の上の少女は、居並ぶ客をぐるりと見回す。誰もこれ以上の金額を口にしなければ、10枚で決まってしまうだろう。
 少女の目が、ちょうどテントを覗いた男に止まった。恰幅のよい腹は裕福の証だ。毛皮のコートを着て、隣には用心棒らしき男も控えている。

「ちょっと、そこの新しく入って来た人!」

 思い切って声をかけた少女に、会場の視線がテントの入り口に集まる。

「聞いてよ。あたしは12枚出して欲しいって言ったのに、みんなして10枚で止めちまったんだ。あんたは『調教しがいのある』奴隷は欲しくないかい?」

 調教なんて言葉は、家畜に対するものだと思っていた。
 だけど、客席からは「調教しがいのある」という言葉が聞こえてきた。もちろん、それがどんな意味かは知らないし、想像もしたくない。でも、それが自分の強みになるのなら、それで少しでも値が上がるなら―――

「おぉっと、すいませんね、お客さん。この商品はとびっきりのじゃじゃ馬なもんで」

 へこへこと謝罪する司会だが、その目は油断なくその客を見つめている。

「銅貨12枚ねぇ……」

 その恰幅のよい客が、目の前に垂らされた釣り針に食いつく。

「そうだよ。みんなケチだと思わないかい? あんたならいくらで買ってくれる?」

 舞台上の少女のダメ押しに、その客は、にちゃり、といやらしく笑った。

「銅貨20枚出してやる。客に食いつく奴隷なんぞ、初めてみたわい」

 その言葉に、わっとテントが揺れた。

「おぉーっと、きました銅貨20枚! 他はありませんか? ありませんよねぇ、じゃ、決まり!」

 銅貨20枚でお買い上げー!
 司会者の後半のセリフは、歓声でかき消された。

「や……った」

 少女の口から、詰めていた息が洩れた。
 今度は従順に指示に従って反対側の舞台袖に引っ込むと、弟が笑みを浮かべて駆け寄って来た。

「セイル、ちゃんとお金は受け取った?」
「うん、すごいや、おねえちゃん!」

 自分に銅貨を見せる弟の頭を撫でると、少しだけ表情を歪ませた少女は、そっと耳打ちした。

「銅貨2枚をお尻の穴に隠して。他も、できるだけ服の下に入れておくの」
「え、ねぇちゃん?」
「早く。手伝ってあげるから」

 硬貨2枚を口の中に入れて湿らせた少女は、びくびくと脅える弟のズボンをずり下げると、それをためらいなく、つぷりと入れる。

「ね、ねぇちゃん……」
「くれぐれも、誰かに取られないように、気をつけて」

 心なしか内股気味になった弟の頭を軽く撫でると、少女はテントの外で待つ「買い手」の所へ向かった。


―――そこから、少女の記憶は曖昧になる。
 冷たい地面を裸足で歩き、身を刺すような寒さに体を縮めた。
 テントの外に並んだ露店で、首輪と鎖を買われて、その場で付けられた。笑いながら引っ張られ、3回は転んだ。
 目が生意気だと、馬車に到着するまでに少なくとも5回、頬を叩かれた。

 買い手の邸に着いてからは、悪夢としか言いようのない日々が続いて行った。

 世の中に地獄というものがあるとすれば、それは、今いる場所。
 世の中に天国というものがあるとすれば、それは、ここでない場所。

 奴隷になったその日から、少女は一つずつ、人間としての尊厳を剥ぎ取られていった。

 一番覚えているのは、自分『たち』に与えられた小さな家のことだった。本来は犬のためのものだというその家の中で、少女は丸くなって寝た。同じように奴隷に身を落とした少年少女は、彼女の他に何人もいた。
 もちろん、反抗的な態度を見せれば、痛い目に遭う。だが、少女は『調教しがいのある』奴隷として買われたのだ。もし、その価値がないと知られれば……その末路の方がずっと恐ろしいものだった。絶対に飽きられてはならなかったのだ。

 適度に反抗する少女をある程度気に入っていたのか、少女がその邸に連れて来られてから、1度だけ、その場へと伴われたことがあった。もしかしたら、他の奴隷も見せられた光景だったのかもしれない。けれど、とても周囲の『同類』に確認する気にはなれなかった。

 少女の『ご主人様』は、決して少女の体を求めようとはしなかった。同じように買い集めた少年少女を、まるで犬や猫にそうするかのように可愛がり、飽きれば近くに控える人間に下げ渡していた。
 そして、下げ渡された奴隷は、いいように扱われ、さらに別の人間へと譲られていく。

「そうやって、最終的に貰い手のつかなかった奴隷がどうなるか、気になったことはないか?」

 そう『ご主人様』に言われて、少女は初めて自分達の家がある部屋と『ご主人様』の部屋以外の場所へと足を踏み入れた。

 そこは、薄暗い地下室だった。湿った空気に、蝋燭の燃える匂いが沁みていた。
 部屋の中央に、少年がへたりこんでいるのがよく見えた。少女は『ご主人様』の隣の特等席に立つことを許されていたから。

「―――始めろ」

 少年を取り囲んでいた男の一人が、やせ細った少年の肩を掴んで無理やり立たせる。か細い悲鳴を上げた少年だったが、その直後、絶叫を響かせた。
 少女の視界に赤が飛び散った。
 少年は四方八方を刃物を手にした男達に取り囲まれ、浅く、浅く切り付けられた。一つ一つは、それほど大したことのない痛みに違いない。だが、それも十や二十ではない、五十も切り付けられれば、それは十分に致命傷たりえる。
 いやだ、やめてください、死にたくない。少年の懇願にも、男達は薄い笑いを浮かべて、切りつけ続けた。

「おたすけください、ごしゅじんさま!」

 一段高くなった場所で、少年の様子を眺める『ご主人様』に向けられたのは、助命を請う言葉だ。恐怖に髪を振り乱し、その細い喉から、よくもここまでという大きな叫び声をあげて、少年は必死に助けを求めた。
 少女は、『ご主人様』に頭を押さえつけられ、目を逸らすことを許されずに、その光景を目に焼き付けることになった。
 随分と長く感じた時間が過ぎ、少年はようやく死という安楽を手に入れた。真っ赤な体を横たえて、手足には指もなく、髪もすべて引き抜かれ、まるで本当に家畜になったかのように、よつんばいで這い回った挙句の死。
 少女は震えながら、こんな死に方はしたくない、と思った。

 それからは、適度に反抗を繰り返しては、『ご主人様』に飽きられないようにと努める日々の繰り返しだった。乗馬用のムチで叩かれようと、髪を引き掴まれようと、あんな――――あんな、自分の死を命じた人間に救いを請うような真似はしたくないと、それだけを思っていた。
 他の奴隷たちが、どんどん『お下がり』になっていくのを、ただ見送っていた。……少女は、まだ、『ご主人様』のお気に入りであり続けた。

 反射的に承諾の返事をすることを刷り込まれ、それでも、考える余力のある時に反抗し、ときにひどく折檻されては眠れない夜を過ごす。
 ただ、あんな死に方だけはしたくない、と、『生きる』ことよりも『死なないようにする』ことを考え続けた。

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