TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 51.それは、熱血だったのです。


「あ、もうこんな時間なのです」

 リビングの壁掛け時計を見た私は、立ち上がりました。

「ミオおねえちゃん、もう帰っちゃうの?」

 う、そんな捨てられた子犬のような目で見られるとつらいのですよ、レイくん。

「もうそろそろ行かないと、バイトに遅れてしまうのです。ごめんなさい」
「でも、でも、もうすぐきっと、ママとパパが帰ってくるよ?」
「はい、もうすぐなので、レイくんもお留守番を頑張れますよね?」

 あらら、うなだれてしまいました。誘導の仕方が間違っていたのでしょうか。

「……パパとママ、昨日、ケンカしてたの」
「うーん、夫婦ゲンカぐらい、きっとどのおうちでも」
「ちがうの! 昨日はすっごく怖かったの! ボク、寝たフリしてたけど、聞いてたんだよ。ママが言ってることは、小さい声でよく聞こえなかったけど、パパが『絶対許さない』って言うのは聞こえたの。パパの、すごく、怖い声だった」

 ぞくり、と肌が粟立ちました。鳥肌なんてものじゃありません。
 あのとんでもない蛇が『絶対許さない』なんて、穏やかではないのです。いったいお母さん、何を言ったのですか?

「その、話題は何を。……何について話していたのか分かりますか?」

 私の問いかけに、レイくんは、ふるふると首を横に振りました。

「でも、今日のお出かけも、そのことだったみたいなんだ。ママ、ちょっと具合悪そうにしてたし」

 具合が悪そう? もしかして、体調が悪いのでしょうか。
 いや、そういえば、お母さんは妊婦だったのです。普通に悪阻ということも考えられますよね?

「もしかして、病院、ですか?」
「わからない。……パパ、言ってたんだ。『リコより大事なものなんてない』って。いつもと違って、すっごく怖い声で」

 悪い予感がします。
 すっごく悪い予感なのです。

ててれー てーてーてーてーー

 突然響いたその音に、私はびくっと体を大きく震わせてしまいました。単なるスマホの着信音なのです。白馬に乗った徳川八代将軍が出てくるオープニングなので、むしろ馴染み深い音なのですよ。
 まぁ、ちょっとタイミングが悪かっただけです。

「……はい、もしもし」
『アンタ、まだそこにいやがるのか』

 うひぃ、トキくんの仕事が終わったのですね。思っていたよりも早かったのです。しかも、場所は当たり前のように把握されているのですね。そういえば、追跡アプリが入っていたのでした。

「えと、ちょっと、その―――」
『車回すから、帰る準備しとけ』
「ま、待って欲しいのです」
『あぁ?』

 うぅ、機嫌が悪いのです。まぁ、当たり前ですよね。自分から蛇の巣窟に来てしまっているのですから、怒られても仕方ありません。

「ちょっと、その、母が心配なので、もう少し時間が欲しいのですよ」
『何があった』
「それが、詳しくわからないんです。本人が戻って来てから確かめようと思うのですけど」
『……やべぇことか?』
「ちょっと、まだ、レイくんから聞いただけなので、具体的なことはわかりません」
『仕方ねぇな。オレがそっちに行く』
「いやいやいや、大丈夫なのですよ。お仕事でお疲れのところを申し訳ないのです」
『そう思うんだったら、早くアニマルセラピーさせろ。じゃ、到着したらまた連絡するから、ドア開けろよ』
「え、あの……」

 ぶつっという音とともに、通話が終わってしまいました。

「おねえちゃん?」
「……トキくんが迎えに来てくれるそうなので、もし来たら下の玄関を開けてもらってもいいですか?」

 このマンション、鍵を使うか、ここで操作するかしないと、下のエントランスに入ることすらできないのです。最近のマンションってすごいのですよね。

「うん。それじゃ、お迎えが来るまで、一緒にいられるんだよね」
「そう、ですね」

 まぁ、とりあえずはレイくんが笑顔を見せてくれたので良しとしましょう。きっと後で説教が待っているのでしょうけど。

「最近のお母さん、食欲なかったりしますか?」
「……うん、パパも心配してた。でも、お腹に子供いるとそうなるって、ママは言ってたよ?」

 はい、悪阻は確定ですね。

「レイくん、クリームシチューにしようと思っていましたが、味付けを変えてもよいですか? もう少しあっさりした味の方が、お母さんも食べやすいと思うのです」
「ママも食べられるの? うん、そうしよう!」

 二人で買い物をしていた時は、クリームシチューにはしゃいでいたのに、お母さんのために賛成してくれるなんて、本当にレイくんは優しいのです。
 私は再びエプロンを借りると、塩と胡椒で味付けすることにしました。隠し味に少量入れていたコンソメを、さらに追加してスープの完成です。

「この味でどうでしょう?」
「うん、美味しいよ?」

 クリームシチューのルーは保存のきくものですし、別にストックしていても困らないでしょう。

「このままサラダも盛りつけてしまいましょう。レイくん、手伝ってくれますか?」
「うん!」

 レイくんがサラダボウルに盛ったレタスの上に、ベビーリーフを散らしてくれるのを眺めながら、私はタマネギのみじん切り、サラダ油、お酢、醤油、塩、胡椒をぐわーっとかき混ぜます。

「その上に、こちらのプチトマトをお願いしますね」
「うん、分かったー」

 レイくんは詳しく説明されずとも、等間隔にトマトを並べてくれています。うんうん、日頃ちゃんとお手伝いしている証拠でしょうか。お母さんもちゃんと盛りつけに気を配っているようで何よりです。一緒に暮らしていたときには、「どんなに失敗しても、盛りつけで挽回できるのよ」なんてことを言っていたのを思い出します。まぁ、失敗した時点で、不味くなってしまっているのですけど。

「足りないようなら、こっちの鶏肉を焼けばいいですからね」

 私はしっかり日付を記したタッパーをレイくんに見せます。唐揚げ用の鶏もも肉をちょっと薄味の調味液に漬け込んでいるのです。もし今日食べなくても、明日以降のおかずにしてもらえれば、と作ってみたのですが、母の悪阻がひどいのなら、ミオさんはいい仕事したのですよ。

ガチャ

「ただいま、レイ。いい子で留守番できたかな?」
「パパぁ!」

 ……まずいです。声を聞いただけで寒気がしてきました。いや、考え直すのです。別に悪いことをしたわけではありませんし、きっと大丈夫なのですよ。

「誰か、お友達でも来ているのかい?」

 えぇい、勇気を見せるのです!

「えっと、おかえりなさい。ドゥームさん。おじゃましています」

 母のエプロンを借りたまま、レイくんを追って玄関に向かった私は、そこで立ち尽くしてしまいました。

「お母さん……?」

 真っ青な顔のお母さんが、ドゥームさんに支えられて立っていたのです。

「ミオちゃん? ―――あぁ、ごめんね。リコを運ぶから、そこの寝室のドアを開けてもらえるかな」
「あ、はい」

 ドゥームさんは、お母さんに優しい声をかけながら、ゆっくりとした足取りで夫婦の寝室へと歩いていきました。

「? ミオちゃぁん?」
「私のことはよいですから、とにかく寝てください!」

 私に気付いて手を伸ばそうとしたお母さんを叱りつけ、私は寝室に向かう二人を見送りました。
 ……なんて呆けている場合ではないのです。

 台所のウォーターサーバーから水を汲み、心配そうに眉をハの字に曲げているレイくんの頭を撫でながら寝室へと後を追います。

「お母さん、水、飲みますか?」
「ふふ、ありがとう、ミオちゃん」

 ベッドに腰掛けたお母さんが、青い顔のままながらコップを受け取ります。
 ……気付いてしまいました。
 顔色が悪いのはもちろんなのですが、お母さんの目元が赤いのです。ちょっと腫れたような感じに見えて、それこそ泣いていたのかと思うぐらいに。

「……吐き気、あるのですか?」
「そうなのよ。参っちゃうわぁ」

 空っぽになったコップを渡すと、お母さんはこてん、と横になりました。

「お腹は空いてますか? 食べられそうですか?」
「うーん、どうかしらぁ? 食べないといけないのは分かっているんだけど」
「スープとサラダぐらいならどうでしょう? コンソメ風味のスープと、サラダはいつものオニオンドレッシングを作ったのですよ」
「ほんと? それなら食べられるかしら? でも、ちょっと休んでからね」

 ちらり、とベッドサイドに立ったままのドゥームさんを見ると、ちょっとホッとしたようにも見えます。

「レイくん、お風呂場から洗面器を持ってきてもらえますか? あと、台所からキッチンペーパーも」
「う、うん!」

 レイくんがパタパタと寝室を出ていきます。

「ミオちゃん。レイがキミを呼んだのかい?」
「はい、ちょっと心細かったみたいです。と言っても、一緒に夕食を作って、お勉強をするぐらいしか、私にはできませんでしたけど」
「それだけやってもらえると、十分なんだけどね。ありがとう。ミオちゃん」

 うわ、ドゥームさんに頭を撫でられてしまったのです。振り払いたいのをぐっと我慢して、そのまま受け入れるしかないのが、本当につらいのです。

「おねえちゃん、持ってきた!」
「ありがとうございます、レイくん」

 駆け込んで来たレイくんのおかげで、ドゥームさんの手が私の頭から離れてくれたのです。二重の意味で感謝なのですよ。

 私は洗面器にキッチンペーパーを三重ぐらいに敷くと、それをお母さんの枕元に起きました。

「気持ち悪かったら、遠慮なくここにどうぞ」
「ミオちゃん。……気遣いは嬉しいんだけど、別に病人じゃないんだから、トイレに駆け込むぐらいはできるわよぉ?」
「万が一ということもありますから。体調が良くないときに、吐いたものの始末とか、本当につらいのですよ?」

 自分の吐いたものの始末をしていてもらいゲロとか、それエンドレスなフラグですから。

「私がお母さんを見ていますから、ドゥームさんとレイくんは先に夕食を食べてきてください。―――レイくん、手順は大丈夫ですか?」
「うん、バゲット切って、チンして、スープを盛って……」

 指折り数えるレイくんに頷くと、私は目線でドゥームさんを促しました。レイくんが声に出して確認している手順は、もちろんレイくんにもできるものですが、やはり監督してくれる大人が必要だと思うのです。

「リコ、いいかな?」
「うん、先に食べてて? ママも落ち着いたらリビングに行くわ」

 ドゥームさんはお母さんの額にキスをすると、レイくんと一緒に台所の方へと行きました。

「……ミオちゃぁん?」
「はい、なんでしょう。また水でも―――」
「あたしね、……たいの」

 滅多に弱音を吐かないお母さんの、その弱々しい言葉に、私は全部を悟りました。怒りで目の前が真っ赤に染まります。激おこぷんぷん丸どころの話ではありません。桜島が噴火するほどの勢いです。流れ出した溶岩で鳥居だって7割は埋めてしまいますからね。私の手を握るお母さんの手が少し冷たいのだって、私の中の溶岩を冷やすどころか逆い沸騰させる焚き付けになってしまいます。
 とにもかくにも、全てつながりました。

「今日、病院に行っていたのですか?」
「……そうなの」
「経過はどうなのです?」
「順調、て、言われたのよ。でもダーリンが……」

 ぼそぼそと話すお母さんの声を耳に入れながら、再び私のマグマがふつふつとボコボコと煮えたぎってきたのです。今ならマモル少年の笛に呼ばれなくっても帝王ゴアと戦っちゃいますよ。相手は蜘蛛でも怪獣でもなく蛇ですけどね。

「ミオちゃん、キミは夕食はどうするんだい?」

 ふふふ、そんなことを考えていたら、蛇が再び寝室に姿を見せました。

「トキくんが迎えに来てくれるそうなので、帰宅してから食べます」
「それならいいんだけど―――」
「それよりも、ドゥームさん、ちょっとお話よいですか?」

 お母さんを泣かせた(予想)責任について追究させて欲しいのですよ?

「ん? 急ぎの話かい?」
「……お母さんが子供を産むのに反対なのですか?」

 あ、ドゥームさんの纏う雰囲気が変わりました。ビンゴですね。はい、蛇に睨まれてます。
 ですが、今は怒りを鎧にしている私です。(祖父母はもちろんいましたが)母一人子一人でやって来たミオさんをナメてもらっちゃ困ります。

「リコがそう言ったのかい?」
「いいえ。状況から推測しただけなのです。昨日ケンカをしていたようだと、レイくんからも聞きましたし」

 お母さんの手が、ぎゅっと私の手を握ってきました。これは励ましているのですか。それとも止めようとしているのですか。分からないので前向きにとってしまいますよ?

「新しい家族が増えて、お母さんの手がそちらにかかりきりになってしまうのがイヤ、という理由なら―――」
「違う」

 ドゥームさんの声が、とてつもなく固いものに変わっていました。もしやこれが噂に聞く仕事モードの声なのでしょうか。

「ミオちゃん。リコの年齢を分かっている? ワタシはリコを亡くすなんて考えられない。リコが何より大事なんだ。それこそ、そのお腹の中の子どもよりも」
「……」
「ワタシの姉はね、出産直前に儚くなってしまったんだよ。お腹の子ともども、ね。ワタシは、リコをそんなふうにしたくない」
「……」
「リコは、ワタシの太陽なんだ。それに、レイにとっても、キミにとってもたった一人の母親だろう?」
「……言いたいことは、それだけですか」
「え?」

 私はお母さんの手を放して立ち上がると、ドゥームさんの前で大きく振りかぶりました。

「こーの、バカチンがぁっ!」

 今だけ、どこぞの金○先生が乗り移ってしまったみたいです。

<< >>


TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。