Ⅱ.歌3.書かされる「逃げないのか」 「……逃げる意味がありません、から」 あたしが無事に帰ることができないのは、もう動かしようのない現実だ。だけど、弟や町のみんなが無事でいられるかどうか、あたしにかかっている。 ――本当は、獣の要求をそのまま飲むのが一番確実で安全だと思っていた。でも、少しぐらいワガママを通したっていいじゃない。もう帰れないならメッセージぐらい残しても。 心臓は相変わらず大きく跳ねるように鼓動を重ねている。前足に押さえられた頸動脈だって、ドクドクと脈打っている。イヤな汗で冷えきったあたしの身体の中で、獣に触れられている箇所だけが、少しだけ温かかった。 「……いいだろう」 その言葉と共に、弟の身体がどさり、と地面に落とされた。一瞬、何が起きたのか分からなかったが、弟が抱きついてきたことで、ようやく鈍い頭でも理解ができた。 「手紙だけなら許可してやる」 その言葉に、力が抜けてヘナヘナと座り込んでしまったあたしは、腰に巻いたエプロンに顔を埋めて泣きじゃくる弟の頭をそっと撫でた。 恐怖をこらえて、獣の方を見上げれば、こちらの視線に気がついたのか、ぎろり、と睨まれたような気がした。 「待ってろ、もうすぐ届く」 何が、と尋ね返す前に、ガサガサという物音、せわしない足音が近づいてきた。地面に積もった小枝や枯れ葉を踏みしめる音の中に、どこかギシギシと軋むような音が混ざる。 疑問をぶつける前に、それは姿を現した。 「な、に……?」 身長は座り込んだあたしと同じぐらいの高さ、二本の腕、二本の足、そして頭部。明らかに人間を模しているそれは、全て木でできていた。角材が何本も組合わさって関節を作り、胸や肩の奥には歯車が垣間見えた。 そのカラクリ人形は、薄っぺらい木の板と、紙をあたしに突き出した。 「取れ」 獣に促され、恐る恐る手を伸ばして受け取ると、今度はどこから取り出したのか、インクとペンをその手に乗せた。 「とっとと書け」 ようやく、それが手紙を書くための道具なのだと気づいたあたしは、膝の上の弟を獣から庇うように背中へ移動させると、木の板を下敷きにして紙を敷き、ペンを取った。 何を書けばいいんだろう、何から書けば―― (とりあえず、現在の状況から、かな?) 事の発端である獣の視線を感じていたが、とりあえず気にしないよう努め、ペンを滑らせる。 森で『獣の王』に遭遇してしまったこと、歌を気に入られてしまったこと、許しを得て手紙を書いていること、……おそらく二度と会えないこと。 あたしは震えそうになる指を、こぼれそうになる涙を、ぐっと堪えた。 (まず、お父さんに伝えておきたいのは――) この間の縁談の話を断ること、安易に妹にその縁談を勧めないこと、月締めの決算で気をつけないといけないポイント。 (お父さん、いつも決算でどこか抜け落ちるのよね) カラクリ人形から二枚目の紙を受け取り、あたしは苦笑いを浮かべた。 今度は妹への伝言だ。あたしの代わりに家事をこなすようになって一年とちょっと。とりあえず気になるのは時候の挨拶の品物と送り先についてだ。今年からいつものリストにない2、3の商店へ送る必要が出てきている。 (――あとは、前から欲しいって言ってた若草色のドレスをあげる、と) 手紙はいつしか三枚目に突入していた。後は、後ろで震えている弟へ、今回のことを気に病まないこと、跡継ぎとして頑張るようにと励ましの言葉を書き連ね…… (あれ?) そこでペンが止まった。 そもそも、町の人に、あたしのことをどう話すんだろう。 この山は麓も含めて立ち入り禁止の禁足地になっている。そのまま話してしまうと、町の人に敬遠され、商売に差し障りが出る、というか、これ以上利益が減ると、それこそうちは干上がってしまう。 それに、さっき町も滅ぼすと言った脅し文句は―― (たぶん、本気だった……) 獣の王の話は、町の人ならだいたい知っているが、本当にいると思っている人なんていないだろう。本当にこの獣の王がいると分かった場合、討伐するという話に成りかねない。 そこまで考えたところで、あたしの背中を悪寒が這いずりあがった。 だめだ、おそらく、返り討ちにあってしまうだけだ。下手に刺激をすれば、それこそ町を滅ぼされかねない。 「――まだか?」 苛ついた声に、あたしは現実に引き戻された。 「すみません、もう少しだけ時間をください」 怖いので獣の方は見ないまま、あたしはペンを走らせた。 (これしかない、かな?) ――この山の隣に、高価な薬草が生えている山がある。その薬草は切り立った崖の壁面に自生しているので、採りに行くのは命を危険に晒すことに繋がる。一度、その薬草が生えている場所へ見に行ってみたことがあったが、当時のあたしは、とても採れるものじゃないと、早々に諦めた。 (うちの商売があんまり上手くいってないことは、たぶん知られているだろうから……) あたしは家の経済状況が悪化していくのに耐えられず、その薬草を採って売ろうと思い詰めた。そこで、足を滑らせてしまったことにしてしまえばいい。 崖の下は急流になっていて、これまでにもその薬草を採りに行った人の亡骸が下流で上がったり、上がらなかったりといった感じになる。死体がなくても、何とかごまかせるだろうし、近所の同情も稼げる。 そこまで書ききったところで、あたしは大きく息を吐いた。 『町の人にも説明するように、あたしはもう死んだものと思ってください。 このような別れ方となってしまうのは非常に悲しいことだけど』 どうせ、最後なんだから、日頃はとても口に出せないことを書いておこう。 『みんなの家族の一員として産まれて来て良かったと、それだけは言えます。ありがとう』 結びの言葉が「ありがとう」というのは、どうにも照れくさい。というか、ちょっと締まりがない気がする。 ただ、さっきから尻尾をびたんびたんと地面に叩きつけている所を見ると、書き直している時間はない。 「終わりました」 三つ折りにした手紙を、弟の上着のポケットに押し込んだ。 「さ、町へ帰りなさい。途中、あたしがいないことを聞かれても、何も答えないで。まっすぐ家に帰って、お父さんに手紙を渡すのよ」 いやいやと首を振る弟に、あたしは籠を渡して、もう一度「帰りなさい」と、今度は厳しい口調で告げた。それでも弟は躊躇を見せる。 「のろのろしてると、殺すぞ、ガキ」 獣の王の一声で、弟は震え上がり、泣きながら駆け去って行った。それを見送って、あたしは獣に振り返ることなく、口を開いた。 「大変お待たせしました。……どこへなりとも」 連れて行ってください、と言う前に、あたしは軽々と獣に抱え上げられていた。 太い右腕に腰掛け、あたしは持ち上げられた勢いのまま、獣の肩に半分顔をうずめるような形になった。すぐ近くに獣の顔が見えるのがすごく怖い。 「行くぞ、舌を噛むなよ」 返事も待たずに、獣はものすごい勢いで駆けだした! びゅうびゅうと風が吹き付け、目に映る景色がものすごい速さで流れていく。あたしは努めて獣の顔、特に口元を見ないように、前を向いていた。獣が後ろ足と、左前足を器用に使って、木々の中を駆けて行く中で、あたしは痛いぐらいに右腕と胸板に挟まれ、上下左右の振動に耐えるようにぎゅっと身体に力を込め、歯を食いしばっていた。 | |
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