Ⅱ.歌2.強制される獣はあたしの目の前まで来た。 さぁ、その爪か、その牙か。どちらが先に来るのだろう。恐怖に凍った思考のまま、ぼんやりと、そんなことを思う。 「オンナ、これからは、オレのためだけに歌え」 ―――一瞬、何を言われたのか分からなかった。 獣がゆっくりと伸ばしてきた手(……前足?)を、あたしは一歩下がって避けた。どうやら混乱が恐怖を上回り、足を動かしたらしい。 「どういう意味、ですか?」 いつの間にか口の中はカラカラに乾いていたが、声を出すには支障がなかった。 「そのままの意味だ。オレと共に暮らし、オレの望む時に歌え。それさえ守れば、お前に贅沢な暮らしをさせてやろう」 (贅沢な暮らし……?) 何を言っているのか分からない。家族と離れてまで、何が贅沢な暮らしだ。贅沢になるなら、みんな一緒でないと、意味がない。 (それに――) 歌は、強制されて歌うものじゃない。歌いたいときに歌うものだ。強制されて歌っても、全然気持ちよくない。歌い手が気持ち良くないのに、聞いてて心地よい歌なんて歌えるはずもない。 だが、この獣の前で、それを口にするのは、さすがに怖かった。 「なんだ? 高価な絹の衣装、贅沢な食事、ふわふわの布団、それさえあれば、人間のオンナは十分なのだろう?」 獣が言い募る言葉を、どこか遠くで聞きながら、あたしは考えていた。 「はい」と答えた場合、あたしはこの獣と暮らし、獣の言うがままに歌わされる日々を過ごすことになるだろう。 では、「いいえ」と答えた場合はどうなる? 相手は引き下がるだろうか、それとも、あたしを殺すだろうか。 そこまで考えて、あたしは、あることに気付いてひやりとした。このまま押し問答を続けていたら、そのうち弟が戻って来てしまう。弟を危険な目に合わせるわけにはいかない。大事な家の跡取りなんだから。 あたしは、大きく息を吸って、そして体の力を抜くように、息を吐いた。何とかして緊張をほぐしたかったのだが、うまくいかなかった。でも、弟が戻って来る前に、何とかしなきゃいけない。 「いいえ、と答えたら、どうしますか?」 あたしの言葉に、獣は尻尾を大きくびたん、と地面に叩きつけた。その時になって、初めて、この獣にはふさふさした尻尾があるのだと知った。 「オレの招きを断るか、オンナ」 ぎろりと睨まれ、あたしの心臓がばくんばくんと早鐘を打つ。 「ぜ、贅沢な暮らしより、家族で暮らす方が、大事ですから」 「ならば無理にでも連れ帰り、歌うのを待つことにしよう」 一歩、前に踏み出してきた獣の言葉に、あたしはつい、反射的にこう答えてしまった。 「――それなら、あたしは意地でも歌わないことにします」 言った直後、しまった、と思った。失言だったと痛感した。 目の前の獣の瞳が、藍色だった瞳が、みるみるうちに色を変え、赤く染まったのだ。尻尾も不機嫌そうにばったんばったんと地面を叩いている。 殺されるだろうか。あたしの歌に執着を持っているなら、また別の脅しをかけてくるんだろう。言葉を数回交わしただけで、そんな風に考えられるだけの冷静さは取り戻せていた。交渉次第では、何とかなるかもしれないとさえ、思えた。 「―――るか?」 「え?」 獣の言葉が上手く聞き取れず、あたしは間の抜けた声を出してしまった。 「家族と言ったな。……お前に弟はいるか?」 その言葉の意味を理解した時には遅かった。獣の瞳はあたしを通り過ぎ、ずっと離れたところを見ているのだ。 「いるようだな」 その言葉を最後に、あたしの目の前から獣が消えた。 次いで聞こえてきたのは悲鳴。 あたしは、手にしていた小さな籠を放り出し、駆け出していた。 悲鳴の聞こえた方へ、弟が向かった小川の方へ。 五歩も駆けないうちに、獣の巨躯が見え、その腕に捕らわれているものが見えた。 「お、ねえちゃ……」 怖いのだろう、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった弟の顔が見えた。 「その子を放して」 「違う。オレはそんな言葉を聞きたいんじゃない」 先ほどと同じように、何とか交渉してみる? いや、そんなことはできない。自分の命は天秤にかけられても、弟の命を天秤にかけるわけにはいかない。そんなことできるわけもない。 「それとも、こいつを見殺しにするか? それならそれでいい。今度は、この近くにある人間の集落を全て滅ぼすまでだ。そこまですれば、お前の大事な『家族』はいなくなるだろう?」 赤い瞳が、それはそれで楽しそうだ、と獰猛に輝いた。 「……そんなことをしたら、あたしは二度とあなたの前で歌わなくなるわ」 「もちろん、お前が強情に歌わなければ、の話だ」 鋭利な声に、あたしの声は喉で詰まる。この、明らかな脅しに屈しなければ、家族のみならず、町の人々まで殺されてしまう。 (……悔しい) 屈するしか選択肢を持たない自分が、ひどくみじめで悲しい。 でも、自分ひとりのために、関係ない色々な人が殺されてしまうなんて、あっちゃいけない。何より、家族を守りたい。 (でないと、死んじゃったお母さんに申し訳がたたない) 二年前に病気で逝ってしまった母親は、あたしに、くれぐれも弟妹、そしてお父さんを頼むと、あたしがいれば、安心できるから、と言ってくれたのだ。 怖いけど、お母さんとの約束を守れないことの方が怖い。 あたしは大きく息を吐いた。 「分かりました。あなたと共に参ります。……けど、身辺整理をする時間をもらえませんか?」 「身辺整理だと? そんなもの必要ない」 あっさり切り捨てられ、あたしは言葉に詰まった。 「それとも、身辺整理と一緒に、こいつも始末するか?」 煮えきらないあたしの態度にじれたのだろう、獣が腕に抱え込んだ弟に、鋭い爪を突きつけた。 「やめて!」 「そんな言葉はいらない。――オンナ、お前が口にできるのは一つだけだ」 要求を飲め、さもなくば弟の命はない。 あたしは獣の言わんとすることを理解し、両腕で自分を抱きしめた。分かってる、たぶん従うしかない。それでも、何か…… 「あなたはあたしに歌わせたい、んですよね」 あたしは恐怖に怯える心を叱咤し、弟を捕らえたままの獣に一歩近づいた。 「憂いがあれば気持ちよく歌うのは難しいです。せめて手紙でもいい、家族にちゃんと別れを告げたいんです」 がくがくと震えそうになる足に力を込め、さらに獣に近づく。 「……お願いします」 あたしは、そっと手を伸ばすと、弟を捕らえている腕に手を触れた。怖くて顔を見ることはできない。くしゃくしゃになった弟に向けて、大丈夫だから、と微笑もうとしたが、失敗して、変な顔になった。 すると、弟に突きつけられていた鉤爪が、ゆっくりとあたしの方へ向かって来た。毛で覆われた前足があたしの首筋に触れるのを感じて、あたしの身体がびくん、と震えた。 ごつごつした肉球があたしの頸動脈を押さえ、その爪は首筋にちくり、と刺さった。 | |
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