Ⅲ.立派なお邸3.尊重されない案内された部屋には、見知らぬ青年が座っていた。 「あなた、……誰?」 「この姿は気にするな。オレの姿に怯え、歌えないと言われても意味がない」 その口調、その言葉に、その青年がどういう形であれ、あの獣なのだと分かった。 「どうして、そこまでして歌わせようとするの?」 「質問は後だ。歌え。話はその後だ」 有無を言わせぬその声に、あたしはショールの裾をぎゅっと握った。 「……どんな歌を、歌えば?」 「好きにしろ。くだらん恋の歌でも、ガキに聞かせる子守歌でも、何でもいい」 あたしはティーカップに手を伸ばし、紅茶を口に含んだ。歌うなら、ちゃんと喉は湿らせておかないと。 何を歌おう。 考えながらイスを引き、席を立つ。 目の前には獣の青年が軽く腕組みをして、こちらを凝視している。視線を交わしたくなかったあたしは、その向こうにある大きな衝立を見つめた。 (確か、屏風とか言ったっけ) 東の国で使われている衝立で、美術商のお隣さんが扱っていたのを一度だけ見たことがあった。その時に描かれていたのは、東の国の町並みだったが、この部屋のは、とても大きな猫っぽい動物が描かれていた。黄色と黒のまだら模様の毛皮がとてもきれいだ。 そうだ、これにしよう。 あたしは歌う曲を決め、大きく息を吸い込んだ。 「暗い路地を駆け抜けてく 四つ足の仲間たち ピンと立ったしっぽ それがボクの自慢だった 一度 目が合っただけなんだ あの子と きらきらした瞳が 心に焼き付いた けづくろいの回数が ぐっと増えた 恋してるって気づいたのは ずいぶん後だった」 これは、「にゃんこいうた」という歌。妹がかわいい歌だから、とよく口ずさんでいたっけ。 「モノクロームな現実に 生きてきた僕に 窓の向こうの あの子だけが カラフルに見えた 仲間たちは言うけれど 錯覚だと 陶器の置物なんて どこにもあるだろう ガラス越しに見つめては 声をかける 君は答えてはくれない つれない人」 この歌の主人公は猫だ。とある家の窓辺に飾られた陶器の置物に恋をして、夜毎、恋歌を歌い続ける。ほかの猫に何と言われようとも気にしない。ただ、ひたすらに歌い続けるんだ。 そして、歌はこう終わる。 「雨の日も 風の日も 歌い続けるよ 君が応えてくれたら 死んでもいいのに」 あたしは、「い」の形にしていた口を閉じ、そして、大きく息をついた。 青年が拍手する音が、カンカンと響く。 「すばらしい。やはり見込んだ通りだ」 手振りで「座れ」と言われ、あたしは大人しくイスに座った。 「その姿は、そこのカラクリ人形と同じ仕組みなの?」 「カラクリ? あぁ、それらのことか。そうだ、原理は同じだ」 拍手の音が、まるで堅いもの同士を叩くような音で、激しい違和感を覚えたのは、正しかったらしい。とすると、なめらかに見える肌も、やっぱり木なのだろうか。 「ヒトの肌に見えるようコーティングしてあるからな、見た目には分からないだろう。――それで、聞きたいことは他にあるだろう?」 あたしは、少し冷めた紅茶を、ごくり、と飲み下した。 「どうして、そこまでして歌わせようとするの?」 歌う前と全く同じ質問を投げつける。目の前の青年があの獣だと思うと足がすくむが、少し態度のでかい兄ちゃんぐらいに思えば、なんてことない。 「これがオレの食事だからな」 「……え?」 「食いたいと思うのに、理由はない」 「歌、が……食事? 歌を聞くことが?」 「誰が歌ってもいいわけじゃない。食うに足りる歌を歌うやつは少ない」 淡々とした答えに、あたしはホッと胸をなで下ろした。とりあえず、頭からガブリ、ということはなくなったようだ。 「そ、それなら別に、ここまで連れて来なくても――」 「おかしなことを聞くな、オンナ。ヒトがヤギやニワトリを飼うのと同じことだろう」 心臓がどくん、と大きく脈を打った。 「ヤギのミルクを絞るのに、わざわざ野生のものを探しに行くか? 手元で飼い慣らした方がいいに決まっている」 淡々とした青年の声に、全身から血の気が引いていくのを感じた。 「少し、気分が悪いから、部屋に戻るわ」 震える口元を手で覆い隠し、あたしは席を立った。 「いいだろう。次は夕食後に歌え。時間になったら呼びに行かせる」 背中から覆い被さってくる声に、あたしは了解の意志を短く告げ、その部屋を出た。 扉を閉めると、目の端でこぼれそうになっていた涙を乱暴に拭った。 悔しいのか、悲しいのか、怖いのか。 自分でも分からなかった。 | |
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