2.杯中蛇影に悩まされ「残念ながら、お前の青い花は枯れてしまった」昼食を終えたユーディリアは自室でカウチに体を預け、何度も読み返したその一文を呟いた。 青い花は、レ・セゾンの王族の持つ異能の隠語。枯れてしまった、というのは、異能を明らかにしろという符丁だった。 「お父様はどうして……」 いや、違う、とユーディリアは頭を振った。父親ではない、国王として、何らかの政治的意図があってのことだ。 (教えた後のリカッロ殿下の対応を試そうとしていらっしゃる?) 条約締結の時に、そろそろ周辺国へ異能の存在を再認識させておきたいと告げた国王。手始めにユーディリアという生き証人のいるセクリアでそれを周知させようとしているのだろうか。 (あるいは……、試されているのはわたし自身?) リカッロに素直に伝えるかどうかで、ユーリの彼に対する信頼度を量ろうとでも言うのだろうか。 「実際に言うかはともかく、リカッロ殿下から使者に、了解したとでも伝えてもえばいいのかしら」 使者に「青い花の件は了解した」とでも言ってもらえば、暴露したと父親は理解するだろう。だが、リカッロが素直にそれに従うとも思えない。 『ねぇ、あれ、いいの? 読まないの?』 目の前で心配そうなベリンダが覗き込んでいた。少し弱ったような顔を見せる彼女の泣きぼくろが、ベリンダを余計に悲しそうに見せている。 「別に、あなた達の生前にそれほど興味はないもの。今、目の前にいるあなた達で十分だわ」 国王が送ってきた調書は、ユーリの三人の相談役を調べたものだった。異能の判定の際に、彼らがユーリの作り上げた妄想ではないと証明するために調査を頼んでいたものだったが、とっくに調べはついていたらしい。 「……あ、でも、将軍の名前を知ることができたのは収穫かもしれないわね。教えてくれないんだもの」 『名前を呼ばれるのが好きではないからのぅ』 将軍の声だけが聞こえる。生前の名前を知られたことで、恥ずかしがってでもいるのだろうか。 コン、コン 「はい」 「お茶をお持ちいたしました」 入って来たのはかつて自分を世話してくれたマギーの後、ユーディリア付きになった年かさのメイド、ハンナだった。 「失礼いたします」 慣れた手つきで紅茶をカップに注ぎいれ、お茶菓子を添える。お茶菓子は毎日あるわけではなく、二、三日に一度ぐらいの頻度で、余った食材を使って料理長が作ってくれるものだった。今日は手のひらサイズのくるみのタルトだった。 「まぁ、今日はくるみなのね。それに、随分と手が込んでいるみたい」 「今日は料理長のお手製ではございません。ユーディリア様にぜひにと、献上されたものでございます」 「献上? どなたから?」 「ユーディリア様の救貧院からですわ」 救貧院と言われ、ユーディリアはそういえば、と思い出した。 王妃から「国民の人気取りも必要よ」と唆され、ハルベルトに建ててもらったのだ。定期的に顔を出してアピールしなさいと王妃からは言われていたが、この政変の後は一度も顔を出していない。 「もっと数があれば、わたくしどももご相伴にあずかれたのですけどね、……あらいけない」 「もしかしたら、リカッロ殿下が救貧院の運営費を削っておられるのかしら。ひとつだけ、というのは、そういう困窮している状況を伝えようと思ってのことかもしれませんわね」 うっかり本音を口にしたハンナの言葉を責めることなく、ユーディリアは優しい気遣いを見せた。 「ありがとう。下がっていいわ」 失礼いたします、と頭を下げて出て行ったハンナの足音が遠ざかっても、ユーディリアは紅茶にもタルトにも手を出さなかった。紅茶は温かな湯気をたてており、ユーディリアの鼻孔を焼き菓子の甘い香りがくすぐっている。 「……」 『同じことを考えているのかのぅ』 「……そのようね。将軍も同じ考えなら心強いわ」 さて、それならどうしようか、とユーディリアはタルトに手を伸ばした。 お茶の時間から一刻後、ユーディリアは釣り糸を垂らしていた。鉄紺のズボンの上に、縹色の男物の大きめのシャツを羽織り、腰を浅葱色のサッシュで巻いている、という一風かわった出で立ちである。少し離れた場所にある丸太を切り出したベンチに、小さな巾着と一緒に若草色のドレスがたたまれて置かれていた。 「ちなみに将軍、釣りは得意かしら?」 『得意というほどではないが、必要にせまられて釣ったことは山ほどあるわい』 「そうなの? じゃぁ、最初から頼めば良かったかしら」 ここはセクリアの城を囲む小さな山の中腹にある、王族がピクニックなどに使う施設だ。川から水を引いて小川を作り、その周囲にベンチや東屋が設けられている。 小川から少し離れた場所に建てられた納屋から、釣竿と桶を探し出したユーリは、つい先ほど、エサを釣り針に付ける際に小さな悲鳴を上げたばかりだ。納屋の中にエサらしきものもなかったため、小川の石をひっくり返して出てきた白い芋虫のようなものを使う羽目になってしまった上に、つまむのさえ躊躇するその虫を何とか釣り針に刺したところ、白い液体が出てきて思わず叫んでしまった。 だが、そんな目にあっても、魚を釣りたかったユーディリアは釣竿を小川に垂らした。釣りなんて幼い頃に兄と一緒にやったきり、随分ご無沙汰だったが、何とか手順は覚えていた。 『ねぇ、……あれで本当に大丈夫なの?』 釣り糸を垂らし、動かないユーディリアに、ようやく手が空いたと思ったのだろう。ベリンダが心配そうな声をあげた。 「何かあったときのために、書き置きは残しておいたじゃない。大丈夫よ」 ここへは誰にも見られず、誰にも告げずにやってきたのだ。本当は書き置きすら残す気もなかったのだが、何かアクシデントが起きないとも限らない、と将軍に諭されて「釣りに行ってきます。夕食までには戻ります」と書いた紙を鏡台の上に残しておいた。 どうやって誰にも見られずに城の外へ脱出できたのか。それはリッキーのお手柄だった。王族専用の書斎にあった、背表紙にタイトルのない本を見つけたのは、ほんの一週間前のことだ。そこには城からの脱出用通路、いわゆる隠し通路が詳細に記載されていた。 『自分も、こんなに通路があるとは思ってませんでした』 そういうリッキーはどこか得意顔だったのが印象的だった。始終おどおどしている彼が自信を持った顔付きになることは滅多にない。 ちなみに、そのリッキーは地面に這いつくばるようにして岸辺の植物や昆虫、果てはきのこまで調べている。どの程度、人工的に植生されたのかを確かめたいのだそうだ。 『おい、引いておるぞ』 「あ、本当。……将軍、お願いしてもいいかしら?」 『承知した』 将軍に身体の主導権を渡すと、手慣れた様子で釣竿をぐいっと引き上げた。釣果は手のひらサイズの小さな川魚で、ユーディリアと違って怖気づくことなくそれを掴んで針を外すと、隣に置いた桶にちゃぽん、と魚を入れた。 『うぅ、ぬるっとして気持ち悪い……』 主導権を渡しても五感はユーディリアに伝わる。こういう時は遮断できないかな、と思ってしまうのだった。 「ありがとう、将軍」 主導権を取り戻したユーディリアは立ち上がり、服と一緒に置いた巾着袋から、刺繍のほどこされた絹のハンカチを取り出した。 「杞憂だといいんだけどね」 誰にともなく呟くと、ハンカチに包まれていたくるみのタルトを取り出す。それを小さく割って生地の部分とくるみの実それぞれを桶にぽちゃりと落とした。 魚は警戒しているのか、桶の底の方でぐるぐると泳いでいる。だが、ほどなくして生地と実の両方をついばんだ。 「本当に、気のせいとか、心配のし過ぎとかが一番いいんだけど……」 『くどいのぅ。そんなに悩むぐらいなら、捨ててしまえば良かったろうに』 「杞憂ならそれはそれでいいの。ちゃんと確かめたいじゃない」 魚は再び底の方に戻って、ぐるぐると泳いでいる。 『まぁ、儂も同感じゃが。……残念ながら、迎えが来たようじゃのぅ』 ユーディリアが将軍の言葉を理解するより早く、「そんなところで何してやがる」と棘のある言葉が響いた。 とても聞き覚えのある声に、ユーディリアは恐る恐る後ろを振り向く。そこには、黒い軍馬に跨ったリカッロの姿がある。 ユーディリアは何と答えようかと考える。奇遇ですね? いやいや、どうせ怒られるならもっと別の…… 「お一人でいらっしゃったのですか?」 口を突いて出たのは、そんな問いかけだった。リカッロの後ろに副官がいないことに、少し違和感があったのだ。 「阿呆。こんな忙しい時に、部下使ってられるか」 「夕食までに戻ると書いておきましたのに。それに、部下よりもお忙しいあなたが、わざわざいらっしゃる必要もないでしょう?」 すると、リカッロは馬を下りて、ユーディリアに詰め寄った。 「オレの部下に知られようもんなら、次の日からオレは嫁に逃げられた男扱いだ」 戻るぞ、と手を伸ばされたちょうどその時、ユーディリアの足元に置いてあった桶から水音が立つ。中に居た魚が暴れているのだ。 「なんだ……?」 『どうやら当たりだったようじゃのぅ』 ユーディリアとリカッロ、ついでに将軍の視線を集める中、やがて魚の動きは止まり、ぷかりと水面に浮いた。 ユーディリアは大きくため息をついた。 幸いに人の目も耳もない。ユーディリアが死ぬことはリカッロのデメリットにも繋がる。―――情報を共有した方がいいのは明白だった。 ユーディリアが一通り説明した後、リカッロの第一声は「オレのもんに手ぇ出しやがって、どこのどいつだ」という非常に彼らしいものだった。 「これはオレが調査する。―――それにしても」 奪い取ったタルトを見つめていたリカッロは、視線をユーディリアに向けた。 「なんで気付いた?」 桶に張ってあった水を、死んだ魚ごと小川に戻していたユーディリアは、違和感のモトを話す。 「わたし、くるみが大好きなんです」 そんなこと聞いてねぇ、とリカッロの視線が非難の色を帯びる。 「ここセクリアや、あなたの本国ミレイスではどうかは存じ上げませんが、レ・セゾンではくるみは庶民が好むもの、という印象があるんです。ですから、人前で好物について聞かれた時は、ベリーのたくさん乗ったケーキ、と答えるようにしていますの」 ユーディリアは放りっぱなしだった釣竿を拾って、糸が絡まないようにくるくると巻いた。 「自分もその存在を忘れていた救貧院から、わざわざ季節外れのくるみを使ったお菓子が、しかも一つだけ贈られるというのは、……ちょっと、出来すぎかなぁ、と」 片付けて来ますね、と納屋を指差して、ユーディリアは桶と釣竿を持って歩き出した。薄暗い納屋の中で目を凝らしながら、桶と釣竿を元あった場所へと戻す。 『救貧院の運営費について確認せんで良かったのか?』 「それって、必要?」 『可能性はできるだけ潰した方が良かろう。まぁ、故意ではなく偶然……とは考えにくいがの』 「それもそうね」 将軍の言うことも最もだ、とユーディリアは頷いた。 納屋を出たユーディリアはきょろきょろと辺りを見回した。 「ねぇ、ベリンダ。リッキーはどこ?」 『さっき、あっちの方に行くのが見えたけど』 「呼んできてくれないかしら? もう用事は終わったし、迎えも来たからすぐに帰ると思うの」 『もう、仕方ないわね』 仕方ないと言いつつ、ベリンダはちゃんとリッキーが消えたという方角へ向かって行った。 (ほんと、優しいお姉さんなんだから) リカッロの方に視線をやれば、タルトを見下ろし、何かを考え込んでいる様子だったので、ユーディリアは着替えることにした。着替えると言っても、今の服装の上に、若草色のドレスを着るだけだ。このドレスは、寸法のミスがあったのか、他のドレスに比べて上半身がゆったりとしていた。だからこそ、上に着る、という芸当ができるのである。 ドレスの胸元のリボンをきゅっと留めたユーディリアは、裾から覗いている鉄紺のズボンの裾を二回三回と折り曲げた。 「お待たせいたしました」 「……あぁ、とりあえず戻るぞ。お前、馬に乗れるか?」 リカッロの質問に、ユーディリアは首を傾げた。 「一人で馬を操れるかという質問であれば、女性用の鞍でしたら、とお答えします。上にあがれるか、という意味であれば、そうですね、あちらのベンチを踏み台にすれば、何とかなる、でしょうか?」 ユーディリアが乗っていたような馬に比べて、軍馬であるリカッロの馬は、体格ががっしりとしていて一回り大きい。同じように上に乗れるかは分からなかった。 (まぁ、将軍に頼めば何とかなるかもしれないけど、いや、だめか) 以前、将軍に断られたのを思い出した。貴婦人のする横座りでの乗馬などできるかと、すごい剣幕で怒鳴られたのだ。 「よし分かった。上から引き上げる」 リカッロは馬にひょい、っと跨ると、見上げるユーディリアに手を伸ばした。 「早くしろ」 「え? あ、はい」 待たせるのも悪いかと思ったユーディリアは、深く考えずに慌ててその手を掴み、示された鐙に足をかける。途端に、ぐいっと強い力で腕が引かれ、腰をさらうように持ち上げられた。 すとん、と馬上に腰かけてから、リカッロの腕の中にいる、という自分の状況に目を丸くする。 「少し近道する。落ちねぇようにしっかり掴まってろよ?」 「え?」 いきなり歩き出した馬の揺れに、ユーディリアは小さく悲鳴を上げた。 「ほら、こっちに手ぇ回せ」 命令されるまま、ユーディリアはリカッロの背中に手を回した。抱き合うような体勢が恥ずかしくて仕方ないのだが、落馬するわけにもいかない。 「……なんだ?」 顔を赤くしているのを気付かれたのだろう。からかうような笑みを向けられ、ユーディリアはギッと強い視線で睨みつけた。 「別になんでもありません! こんなところで落馬するわけにはいかないのは承知しています!」 恥ずかしいのは自分だけなのかと思うと、なんだか悔しい。ニヤニヤと笑うリカッロに、何とか話題を逸らそうと考えたユーディリアは、舌を噛まないように気をつけながら、言葉を紡ぐ。 「救貧院の運営費を、削ったりしていますの?」 「救貧院? いや、そっちは手を入れてねぇはずだ。まぁ、混乱の中で滞った時期はあったかもしれねぇが」 「……そう、ですか。それでは、偶然の可能性は低くなりましたね」 「オレからも確認したいんだが、お前の好物を知ってるヤツはセクリアにいるか?」 「それは、わたしも考えていましたけど……、一度だけ、王妃様にお話ししたぐらいだと、思います」 「後でまた同じことを聞く。きっちり思い出しとけ」 歯切れの悪い答え方に気付いたリカッロに言われ、ユーディリアは「はい」と頷いた。 | |
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