7.鼓舞激励が身にしみて「……えぇと、何か、すごい怒っていた……?」寝台の上で、ユーディリアは呆然と呟いた。 『あったりまえでしょ? あー、でも、怒った顔も悪くないわよねー、リカッロ王子って』 ベリンダの感想を無視して、ユーディリアはのそのそと寝台から這い出た。 『どうするつもりじゃ?』 「―――とにかく、謝らないと」 廊下へと通じる扉をそぉっと開ける。 「うわぁっ! 姫様、いけませんよ」 「そうです。部屋から出すなと厳命が……!」 顔を覗かせた途端に慌てた様子の護衛に畳み掛けられて、小さく身を引いてしまったユーディリアだったが、目的を思い出し、深々と頭を下げた。 「わたしのせいで、リカッロ殿下から叱責を受けてしまったのでしょう。ご迷惑をおかけいたしました」 「い、いえ、そんな、謝っていただくことでは」 顔を上げたユーディリアが、「お願いがありますの」と前置くと、護衛は二人してぶるぶると首を横に振って「いけません」と断った。何か誤解されているようだと思いつつ、要求を口にする。 「以前、使っていた部屋から、持ってきていただきたいものがあるのだけど、それもできないのでしょうか?」 少しだけ哀しげに目を伏せ、首を傾げる。もちろん、意図的に。 「え?」 「二つ隣の部屋ですし、わざわざメイドを呼ぶのも悪い気がしたのですけれど……」 「は、まぁ、そのぐらい、でしたら」 「まぁ、本当ですの? でしたら鏡台の右下にある戸棚から、背表紙にタイトルのない、マラカイトグリーンのカバーの本を持って来ていただけません?」 「はぁ、鏡台の右下、ですね。分かりました」 一人がキビッと一礼し、ユーディリアに背を向け、小走りに歩き出す。 「姫様はどうぞ部屋の中でお待ちください」 「いいえ、ここで待ちますわ。すぐに戻って来ますでしょう?」 ユーディリアの言葉に、兵は何とも言えない顔を浮かべた。 「もちろん、部屋から一歩も外に出ませんわ。リカッロ殿下をあまり怒らせたくはありませんもの。……もう、外に出る理由もありませんし」 笑みを浮かべたユーディリアに、「はぁ」と曖昧な返事をした兵は、それでも疑いの姿勢を崩さない。 『やれやれ、まだ疑われておるのぉ』 『お嬢様、もしよければ、その、兵に――』 リッキーの提案を耳にしたユーディリアは、小さく頷いた。 「そういえば、ひとつ、聞きたいのですけど―――」 ユーディリアはじっと兵の目を見つめた。 「リカッロ殿下のお兄様方って、どんな方ですの?」 予想もしない質問に面食らった兵だったが、沈黙の中で相方を待つよりはいいと思ったのだろう。「自分の知っている範囲でしたら」と口を開いた。 「正妃様の産んだ第一王子アルフレッド様、第三王子アルフォンス様。二妃様の産んだ第二王子サイラス様。次期の王位はアルフレッド様と決まっております」 「リカッロ殿下は疎まれていたと聞きましたわ。王位継承権は低いでしょうに、どうしてかしら?」 「……自分が思うに、目障りなのでは? 特にアルフォンス様は、平民の血が混ざっているからと、ひどい仕打ちをなさったとか。あくまで噂ですが」 「それは、……リカッロ殿下が有能だから?」 「そう、なのだと思います。騎兵隊は元々サイラス様が取り仕切っていましたが、リカッロ殿下が我々を指揮し、少なからぬ軍功を上げていることを、妬ましく思っているふしがありますし」 「第一王子アルフレッド様は?」 「あぁ、それは、たぶん、眼中にないと思いますよ。王位を継ぐことは決定しているわけですから、有能な手駒になればいいと思っているのではないでしょうか。……あぁ、でも、違うのかな」 「何か、ありますの?」 ユーディリアにじっと見つめられ、困惑した兵は「あくまで根拠のない噂話です」と念を押してから、渋々口を開いた。 「リカッロ様がこの年になっても、一度も縁談を持ち込まれなかったのは、お三方がそれを妨害していたからだと」 『次の世代を考えて、か。やることが陰湿じゃのぅ』 『ということは、お嬢様との婚姻は、向こうにとっては大迷惑だったんですね。あ、すみません』 失礼なことを言うなとリッキーを視線で黙らせた時、ようやく二つ向こうの部屋から、もう一人の兵が出て来た。 「あ、戻ってきましたね」 「えぇ、そうですわね。教えてくださってどうもありがとう」 「いえ、こんな噂程度で良ければ、―――どうした?」 戻ってくる兵がしきりに首を傾げているのを見て、声をかける。 「えーと、その、ユーディリア姫様。この本は……」 言われて、あぁ、中身を確認されたか、と合点がいったユーディリアは、やましいことがないのだから、と自分から本の正体をばらすことにした。 「ハルベルト様の日記帳ですわ。以前、書斎で見つけましたの」 にっこりと微笑んだユーディリアは、右手を差し出した。 「……その、わざわざ取りに行かせた理由をお聞きしても?」 兵はひるみながらも、まだ本を彼女に渡そうとはしない。 「大変興味深い内容ですので、時間を潰すには最適だと思いましたの。何かを勘繰っていらっしゃるなら、どうぞ、リカッロ殿下に報告なさって?」 その言葉に顔を見合わせた兵は、無言でしばし見つめあう。やがて、どちらからともなく、こっくりと頷きあった。 「リカッロ殿下には報告させていただきます。ですが、本を取り上げろとの命令もありませんので」 「ありがとう。……それでは、警護よろしくお願いいたします」 本を受け取ったユーディリアは、できるだけ優雅に見えるよう振舞うと、ドアを閉めた。 『ねー、ちょっと、それヤバいよー』 ベリンダがちょろちょろまとわりついてくるので、ユーディリアは奥の寝室まで足を進め、ようやく声を出した。 「何がヤバいの?」 『だって、前のオトコの日記を、わざわざ取りに行かせたなんて聞いたら、絶対に怒るに決まってんじゃん』 「でも、マギーのことを説明するのに、証拠があった方がいいじゃない。それに、他人の日記を読むからって、そんなに怒るような人に見えないけど?」 ベリンダは信じられないものを見るかのように、ユーディリアをしげしげと見つめた。 『もしかして、ユーリ。さっき、どーしてあんなに怒られたか、分かってない?』 「護衛もつけずにふらふらしてたからでしょ?」 パラパラと日記をめくり、目当てのページを探すユーディリアは、当たり前じゃない、と答えた。 『んもーっ! しんっじられないっ! どーしてそんなに鈍いのっ?』 よく分からないことで、ぎゃーぎゃーと騒ぐベリンダをいつものことと捨て置いて、ユーディリアはペラペラと本をめくる。 「……あった」 探していたのはマギーとの逢い引きを記した箇所だ。 「『夜』は日没後二回目の巡回の兵が中庭を過ぎた後。『中庭の休息所』は……西の一番端、ハシバミの木の近く、ね」 ちゃんと意図を理解してくれるといいんだけど、と本を閉じたユーディリアは、ナイトテーブルに本を置いた。 『どーして、こう、疎い子になっちゃったのー? アタシだって、色々興味を向けようと頑張って来たのにーっ!』 ぎゃんすか騒いでいるベリンダを指差し、何の話?と将軍とリカッロに尋ねるが、二人とも微妙な顔をして首を横に振った。分かっているけど自分の口から言いたくない、といったところか。 『ねぇ、ユーリ! もっかい勉強しなおそう! うん、そーだ。それがいいと思う!』 いつものたれ目を吊り上げ、迫って来るその迫力に、ユーディリアは一歩後ずさった。 「え、えぇと、落ち着いてベリンダ。何を勉強するの?」 『常々思っていたけど、ユーリは恋愛ゴトをなめてるわ! 他人と上手くやっていくためには、その機微を理解する必要があると思うの!』 どういう理由でそんな結論になったか分かっていないユーディリアは「はぁ」と気のない返事をする。 『幸いに、ここは王妃様の使ってた部屋! 甘ったるい恋愛小説の一冊や二冊、探せばあるはずよ! さぁ、ユーリ! どーせ時間はたっぷりあるんだから、きりきり探すの!』 やたらと張り切る恋多き歌姫ベリンダに、ユーディリアは助けを求めて他二人の相談役を探したが、将軍もリッキーも姿を消していた。 (逃げたわね……) げんなりとしたユーディリアは、渋々ベリンダに付き合うこととなった。 ガチャリ ドアを開ける音に、ユーディリアは手にした本から顔を上げた。 「あー、なんだ、まだ起きてたのか」 「はい、リカッロ殿下にお伝えしたいことがありましたので」 パタン、と本を閉じ、目の前のテーブルに置くと、両手を膝の上に揃え、やって来た彼を見上げた。 「おー……、珍しいな。あれ以後は閉じこもっていたはずだが、また抜け出して何かあったか?」 そう言ってユーディリアの座るカウチに上着を放り投げたリカッロに、どこか違和感を感じて眉をひそめた。 「いいえ、あの後は、一歩も部屋の外に出ておりません。言いつけ通りに。―――あの、リカッロ殿下? その、なんだかお疲れでいらっしゃいます?」 「んー? ……なんだ、そんなにオレの着替える所が見たいのか?」 いつもだったら目を背けているはずの視線に、リカッロが意地の悪い笑みを浮かべる。 「や、ち、違います。……でも、何か」 古傷だらけの上半身を露にしたリカッロは、そのまま、どかっとユーディリアの隣に座る。ユーディリアは慌てて目を逸らした。 「あー……。まぁ、疲れてるかもな。今日も色々あったしなぁ。オレの嫁が他の男と逢い引きしてたり、―――刺客を差し向けたヤツが判明したり」 「えっ?」 驚いて振り返ったユーディリアは、隣の夫が上半身裸なのを思い出し、慌てて自分の手で視界を下半分隠した。 「オレの身体は、そんなに見たくないものか?」 「違いますっ! わたしの心の平穏のために必要なものなので気にしないでくださいっ! ……それよりも、刺客を放った方が見つかったっていうのは」 「おー……。まぁ、オレの部下の一人が、クソ兄貴と繋がってたってだけだ。一通りの尋問を終えて、地下牢にぶち込んである」 ユーディリアは、リカッロの表情をじっと見つめる。どんな欠片も見逃さないように。じっと。 「あー……、毒やネズミについては自供はねぇが、アレはもしかしたら―――なんだ?」 いきなり立ち上がったユーディリアに、リカッロは僅かに眉根を寄せた。 ユーディリアは座るリカッロの足の間に立つと、じっと見下ろす。自分を見上げる目に覇気が薄れているのを見てとって、小さくため息をついた。 「おい、……っ?」 両腕で、リカッロの頭を抱きしめた。 「つらいのに、平気なフリをしないでください」 それは、いつかユーディリアがリカッロに言われた言葉だった。 「ご自分がため息と一緒に話しているのを、気付いていらっしゃいますか? どんな表情を浮かべているのか、分かっていらっしゃいますか?」 今ならユーディリアにも分かる。つらいのを隠して平気なフリをされるのが、どんなにイヤなことか。 「ここにはわたし以外おりません。年下のわたしが偉そうなことは言えませんが、それでも愚痴を聞くことぐらい、それを心に秘めておくぐらいはできます」 すると、ユーディリアの腕の中、鉄錆色の髪の毛が小刻みに揺れた。 「くっ、まさか、お前にそんなことを言われるとはな」 リカッロの腕が、まるで縋るようにユーディリアの背中に回される。 「別にいつものことなんだ。あの馬鹿兄どもが、オレの邪魔をするのも、オレの部下に裏切り者がいるのも……」 ユーディリアは、固く短い髪の毛を、指で優しく梳いた。 「今回も同じだ。金に目が眩んで裏切ったのが、オレが王子になる前からの知り合いだったことを除けば、な」 とりあえず、全部吐き出すまでは、とユーディリアは沈黙を保つ。できることは、頭を撫でることぐらいしかない。後は、そのついでに日頃は見られない、つむじを観察することだけ。 「オレは知ってたんだ。そいつが、どんな理由で金が欲しかったか。だが、そいつばかりを優遇するわけにもいかない。この国を落としても夢のように金が湧き出るわけじゃない。結局、オレは何もしてやれなかったんだ」 リカッロの腕に、ぐっと力が込められた。 「それでも、裏切り者を放置するわけにはいかない。オレはまだ死ぬわけにはいかないし、お前を殺すわけにもいかない。……あいつに、誰にでも分かるような制裁を加えなければならない」 言葉が途切れる。 ユーディリアは、何も言わず、ただ優しく頭を撫でる。―――そうすることしかできなかった。 | |
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