8.天真爛漫で空気は和む色々と遠慮しているのか、彼女の相談役達は姿を見せない。だから、誰かのアドバイスを受けたわけでもなく、自分の意思でユーディリアはリカッロを慰めているのだ。(こういうとき、ベリンダみたいに歌えたらいいのだけど) 実は、ユーディリアは自分で歌うことはしない。ベリンダのおかげで喉は鍛えられているのだろうが、彼女自身が歌う必要がまったくないのだ。歌を請われた時は、ベリンダに代わっていたから、歌い方も忘れてしまった。 そんなことを考えていたユーディリアの背中に回されていた手が、微かに緩む。 (もう、大丈夫なのかしら?) 言いたいことを全部口にして、少しは楽になれたのならいいんだけど、と、ユーディリアが思った瞬間、むに、と尻を揉まれた。 「ひゃんっ!」 情けない声をあげ、身体を震わせた彼女の耳に、リカッロの忍び笑いが届く。 身体を離して抗議しようとしたユーディリアだったが、腰に手を回され、身体をくるりと180度回転させられる。 「リカッロ、殿下?」 困惑したユーディリアは、膝裏に軽い衝撃を受け、かくっと座った。……座ったのは、リカッロの膝の上だ。 「すみません、重いですよね、すぐにどきますから……!」 慌てるユーディリアの腰に太い腕が巻きつき、立ち上がるのを阻む。 「重くねぇよ。むしろ軽過ぎる」 リカッロはユーディリアの金色の髪に顔を埋めた。表情こそ見えないが、ユーディリアは抱きしめられるというよりは、抱きつかれているようだ、と感じていた。 「……」 「……」 何かをしゃべるわけでもなく、しばらく沈黙が横たわる。 「……何を、読んでいたんだ?」 ユーディリアは、机の上のライラック色に装丁された本を見た。何となく、こういう本を読んでいたことを知られるのは恥ずかしい。だが、このまま沈黙を続けるよりは、と恥を捨てて口を開く。 「その、この部屋に置いてあった本です。上流の女性が好む恋愛物語です」 「……意外だな。そういう本も読むのか」 「いいえ、逆に苦手なんです、こういうのは。ただ―――」 「ただ?」 ユーディリアは、はぁ、とため息をついた。互いに表情が見えないし、多少の恥は忘れることにしよう。 「以前、親しい友人に言われたことがありました。恋愛感情の機微を理解してないと、人付き合いでいつか問題を起こす、と」 以前と言っても、今日のことなのだけど。 「その方は、恋愛小説を読んで、感想を伝えるように、と何度も言って下さったのですが、その、わたしの感想は怒られてばかりだったんです」 ヒロインに共感できるまで読み返せと言われたのは、昼食後のことだった。それから何度も読んでみたが、やっぱり感想は変わらない。 「……それで、その本の感想は?」 問われたユーディリアは、ぐ、と黙り込んだ。果たして、ベリンダにダメ出しをくらいまくった感想を口にしても良いのか。 (でも、もしかしたら、何かヒントをくれるかもしれない) ベリンダが言うところの、女の扱いに慣れている人だし。 「貴族のお嬢様と、他家に仕える騎士の恋愛物語だったのですけど、正直、腑に落ちないことばかりなんですの。お嬢様のピンチに颯爽と現れて助けてくれるのは良いのですが、どうして都合良く近くにいるのでしょう? 他家に仕えている以上、まさかずっと後をつけているとも考えにくいですし。どちらにしても、粘着気質な騎士ですよね」 「……」 「あ、それとも、町のゴロツキにお金を渡して、悪漢役をやらせているのでしょうか? あぁ、それなら納得できますわ。自分の評価を上げるために、わざとトラブルを起こして、それを自分で解決する。そういうことなのでしょうか? ……あの、笑っていらっしゃいますの?」 上に腰掛けているため、リカッロの身体が揺れれば、もちろん、ユーディリアの身体も揺れる。 「……ぶっ!」 困惑するユーディリアを押し出すと、リカッロは身体をくの字に折って容赦なく腹を抱えて笑い出した。 「あの、そんなに変な感想でしたの……?」 膝の上から追い出されたユーディリアは、困惑しながら爆笑するリカッロを見つめる。ここまで笑っている彼を見るのは初めてだった。 「ひー、くそ、腹痛ぇ」 目尻に浮かんだ涙を拭い、リカッロは自分を見つめる相手を見上げる。 「お前の親しい友人も苦労するな」 立ち上がったリカッロは、ユーディリアの頭をぽん、と優しく叩き、放り出していた上着を拾った。 「さて、オレはいい加減に着替えるが―――」 「あ、あの、わたし、リカッロ殿下にお話が……」 「あぁ、聞いてやるよ。……なんだ? やっぱりオレの着替えが見たいのか?」 にやり、といつものからかうような笑みを浮かべたリカッロに、「違いますっ!」と慌ててユーディリアは背を向けた。 (いつもの、顔に戻った?) 自分の行動の何が効いたのか分からないが、とりあえずはいつもの調子に戻ったとホッと胸を撫で下ろす。 「あの、話というのは、今日のペトルーキオ様のことなのですけど」 「アイツの話はするな。あと、名前で呼ぶんじゃねぇ」 何故か棘のある声に、ユーディリアはびくり、と身体を固くした。 「……あぁ、そうですわね。もうアームズ公爵なのですもの、きちんとお呼びしないと失礼にあたりますわ」 リカッロの怒った理由に思い当たり、気をつけなければ、と呟くユーディリアの背中で、着替え中のリカッロが「そうじゃねぇ」と小さく呻いた。 「それでですね、くるみタルトの送り主がマギーだと分かったんですの。マギーならば、わたしを憎む理由が十分にありますし―――」 「マギー? 誰だ?」 紺のゆったりした上下に着替えたリカッロは、背中を向けていたユーディリアの肩を掴み、くるりと自分の方へ向けさせる。 「マギーは、王妃様がわたしに付けて下さった侍女ですわ。……親衛隊の反乱が未遂に終わってしまったことで、いなくなってしまいましたけど」 「―――あぁ、アレか。だが、侍女ごときが、たったそれだけで、一歩間違えれば斬首の罪を犯すか?」 いまいち納得していないリカッロの言葉に、ユーディリアはきょとん、と首を傾げた。使用人の間であれほど噂になっていたのに、知らないのだろうか。 (それとも、特に知る必要のないことだから、誰も何も言わなかったのかしら?) 「マギーは、ハルベルト様の愛人でしたの。ですから、ハルベルト様を裏切ったわたしを憎むのは、仕方のないことでしょう。一途に恋する女性は何をするかも分からない、と言いますし」 すると、ハルベルトはまるで珍獣でも見るように、じろじろとユーディリアを見つめた。 「お前、そういう一般論は知ってるんだな」 「何の話ですか?」 「いや、何でもねぇ。……まぁ、そういう話なら、確かに有り得るな」 ようやく理解してもらえたリカッロに、ユーディリアの頬が緩む。 「マギーは、ペトル、いえ、アームズ公爵家にいるとのことでしたので、今日、伝言をお願いしましたの。『明日の夜、中庭の休息所で待ってる』と。―――あ、そうでした。あのカフスボタンもマギーに返さないといけませんわ」 大事なことを思い出した、とユーディリアぽむっと両手を合わせた。 「ちょっと待て、……いくつか確認させろ」 「はい」 どうぞ、と真っ直ぐにユーディリアの海の瞳が、渋い顔をしたリカッロを見上げる。 「まず、お前はどうしてその侍女が、あのバカ王子の愛人だと知ってる?」 「噂になっておりましたもの。おそらくここで働いていた人間の大半が知っていたのではないでしょうか? わたしが聞いたのも、王妃様がマギーをわたし付きにして下さった、すぐ後でしたし」 「お前、それは何とも思わないのか?」 「えぇ。政略結婚の嫁ぎ先に、愛人がいたりするのは、よく聞く話ですから」 この質問は、本筋に関係ありますの? とユーディリアは首を傾げる。 「いや、いい。変なことを聞いた。次、カフスボタンがそのメイドのものだと、どうして分かる?」 「正しくはハルベルト様のものです。何度目かの逢い引きの時に、渡したようですわ。日記に書いてありましたもの」 ハルベルトの日記。そういえばそんな報告があった、とリカッロは首の後ろをポリポリと掻いた。 「最後に、伝言だが、そんな曖昧な内容で伝わるのか?」 「ペトル……アームズ公爵も同じことをおっしゃいましたわ」 ユーディリアは、奥の寝室へぽてぽてと向かい、ナイトテーブルに置いてあった緑の装丁の本を手に取った。昼間、しおりを挟んでおいたページを苦もなく開くと、後ろに付いて来ていたリカッロに差し出す。 「満月に照らされるその姿は女神のごとく……って、詩集かと思えば、これが日記か」 顔をしかめたリカッロは、ユーディリアの指す行を一読した。 「なるほど、『夜』は日没後二回目の巡回の兵が中庭を過ぎた後。『中庭の休息所』は西の一番端、ハシバミの木の近く、か。変に手が混んでいる割には、バレバレなのが、あのバカ王子らしいな」 どうやら、納得してもらえたらしい、とユーディリアは本題を切り出した。 「それで、リカッロ殿下にお願いがあるのですけど」 「なんだ?」 ユーディリアは元婚約者の日記を受け取ると、それを再びナイトテーブルの上に戻した。心の中では、他のページをめくられなくてよかった、と安堵していた。でなければ、城の抜け道をここから知ったとバレてしまう。 (国の機密事項まで書き記すハルベルトを愚かだとしか思えないけれど) 少し、思考が脇道に逸れてしまったと気付いたユーディリアは、リカッロに向き直った。 「その、マギーと話をしている時は、出て来ないで欲しいのですけど、ついて来ていただけませんか?」 「お前、オレを何だと……、いや、違うか、理由を話せ」 「アームズ公爵に伝言をお願いしたのですけど、交換条件に、マギーとの話の後に、付き合って欲しいと言われまして……」 ちゃんとマギーに伝言してくれるかどうかは、たぶん大丈夫だという確信があった。でなければ、わざわざ去り際に耳元で「確かに伝えるッス」などと囁かないだろうし。 「……」 「今日のように、助けていただけると、ありがたいのですが……、やっぱり、ダメですか?」 不機嫌な表情で黙り込んだリカッロに、ユーディリアは小首を傾げて見上げる。相手からしてみれば、これ以上ないおねだりポーズだが、こういう時に限って、ユーディリアは意図的には行っていない。 「お前は、その誘いに何て答えたんだ?」 「え? あ、はい、わたしはそういう冗談が好きではありませんし、そういう発言は時と場所と立場を考えるべきだと、……お断りしたつもりだったのですけど」 「お前なら、もっとキッパリと断ることもできるだろう? ――なぜ、そんなに気を遣う?」 リカッロは、ユーディリアの顎に手をかけ、視線を逸らされないよう固定した。 「えぇ、アームズ公爵が、どのような立ち位置か分かりませんでしたので、無闇に怒らせてしまうと、リカッロ殿下にご迷惑がかかると思ったのです。……その、考え過ぎでしょうか?」 その答えに、リカッロは脱力して肩を落とした。 (……まぁ、仕方ねぇか。恋愛の駆け引きの何たるかを教えても、理解するのに時間がかかるだろ) その断り方は、まるで駆け引きを楽しもうとしていると誤解されてもおかしくない。 「まぁ、仕方ねぇな。他のヤツには公爵相手じゃ荷が重い。後ろから付いて行ってやるよ」 どちらにしろ、アームズ公爵にはキッチリと分をわきまえさせる必要がある。 リカッロはニヤリ、と口の端を持ち上げた。 | |
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