TOPページへ    小説トップへ    赤雪姫の惰眠な日常

惰眠2.村一番の惰眠好き

 5.∵惰眠愛ゆえに


「お兄ちゃん……」
 香琳が呆然と呟く。
「何いい子ぶってんだよ! うぜェんだよ! あのクソジジイに早いとこくたばって欲しいに決まってんじゃねぇか! あのジジイ、一昨日、オレに何て言ったと思う?」
 堤防が決壊したかのように、英修は立て板に水のごとく、淀みなく口を動かす。
「このままだとお前に婿を取って家を継がせるだって? 冗談じゃねぇ、普通に考えたら、長男のオレが家を継ぐに決まってるじゃねぇか! それを人のことをダメ人間扱いしやがって……!」
 ぶちまけられる『ご高説』を聞きながら、「いや、ダメ人間だよねぇ?」と瑠璃が誰ともなく呟いた。
「オレは! 言ってみりゃ羽化する前の蝶みてぇなもんなんだ! 蛹だってことも理解しようともしないクソジジイが、オレのことを色々と言ってきやがって!」
 英修は握り締めた拳で、思い切り卓を叩いた。ドン、という振動に、父親の守永が首をすくめ、妹の香琳が身体を震わせる。
「だから痛い目を見せてやるんだ! オレが蝶になるのを待つことすらできねぇバカな老害ジジイに!」
(あーあ、どうすんのこれ、紅雪ちゃん)
 瑠璃はちらり、と隣の美女に視線を動かし、瞬間、ヒヤリと首筋に冷たいものが走るのを感じた。
 英修の自論を聞いているのかいないのか、彼女の血のような赤い唇が小さく笑みの形を作っている。だが、その瞳は笑っていない。決して笑ってなどいないのだ。
 目の前の赤雪姫の様子に気付いたのだろう、守永と香琳の顔がサァと青冷めた。
「オレはこんなところで終わる男じゃない! あと数年後には都に出てデカいことやらかすんだ! 今はそのために力を蓄えているんだ!」
 一人気付かない英修は、日頃の消極的な引きこもりようとはまるで別人になったかのように、延々と夢見るのも愚かしい将来のビジョンを語り続ける。
「え、英修、黙りなさい!」
 勇気を振り絞って守永が注意するも、「うるせぇ、オヤジ!」と一蹴される。
 瑠璃は、自分は知らないとばかりに、隣の美女から半歩離れた。

「言いたいことは、それだけか?」

 瑠璃の耳には「言い残したことは、それだけか?」と聞こえた。
 そう聞き違いをするほど、殺気に似た冷酷な雰囲気がそのセリフに込められていた。
 先ほどまで、いい気になって自説を披露していた英修が、いつの間にか口をつぐんでいる。
「のぅ、英修。……言いたいことは全て吐き出したか、と聞いておるのじゃ」
 紅雪の顔に浮かんでいるのは、「自分勝手な理論で周囲に迷惑をかける人間への怒り」か、もしくは「思うまま実験をしても問題ない素材を見つけた愉悦」か。
 その迫力に、香琳がへたり、と床に座り込んだ。
 まともに視線を浴びている英修は、口をわななかせるだけで、その喉からは不自然な呼吸の音しか出ない。
「そんなに蝶になりたいのであれば、わしが力を貸してやろう。……残念ながら、蝶は寿命が短くてのぅ、一年ともたぬであろうが」
 白く細い指先が、ゆっくりと英修を指差す。赤雪姫ならば、人間を蝶に変えることなど造作もないと、その場にいる誰もが知っていた。
「蝶になれば、人間の言葉を発することもないであろう。まだ言いたいことはあるか?」
 紅雪が、艶やかな笑顔を浮かべる。平時ならば、誰もを魅了するような笑みだが、それは死刑宣告に他ならなかった。
「う、うそだろ……?」
 英修が口を開くものの紅雪の笑顔は変わらず、父親の守永も真っ青になってぶるぶると震えるだけだ。
「……だ、だめですっ!」
 制止の声を上げたのは、へたりこんだままの香琳だった。
「お兄ちゃんに、ひどいこと、しないでっ!」
 うつむいてボロボロと涙を流す香琳は、ぐっと顔を上げると、すぐ隣に立ち尽くしていた兄の足にしがみついた。
「そりゃ、お兄ちゃんは、怠けてたかもしれないけど、でも、私の、お兄ちゃんなのっ!」
 兄の体を支えにして立ち上がった香琳は、その涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、紅雪と兄の間に立ちふさがるように手を広げた。
「香琳、兄の代わりに蝶になりたいのかえ?」
「い、いやだけど、でも、お兄ちゃんが蝶々になっちゃうとこなんて、見たくないもん!」
 紅雪の目が、まるでいとし子を見つめるように細められた。
「お前は本当に良い子じゃのぅ。……では、望む通りにしてやろうかの」
 さすがにそれは、と瑠璃が止めるべきか迷った瞬間、香琳の体が横によろけた。
「ほぅ?」
 紅雪が面白いものを見た、と表情を和らげた。
「うるせぇ、香琳には関係ねぇだろ」
 自分を庇うように立っていた妹を押しのけたのは、ほかならぬ元凶の英修だった。とはいえ、英修の肌は青白く、唇も震えている。
「よい心がけじゃ」
 紅雪は指差していた右手を拳に変えると、まるで踊るようなゆるりとした仕草で英修の鳩尾にめり込ませた。
(えーーーーっ!)
 瑠璃が心の中で絶叫するのをよそに、「ぐえ」と呻き声を上げてたまらず前かがみになった英修の額を左手で掴んだ紅雪は、右手で手招きして守永の斜め後ろに控えていたのっぺらぼうのムキムキマッチョを呼び寄せる。
 マッチョが英修の隣に立ったことを確かめると、えいやっと左手に力を込める。すると英修の上体が傾き、まるで土下座をするように紅雪の前に膝を付いた。
「其の主は是。良く助け、良く仕えよ」
 左の指が英修の首の後ろに何かを描き、右手がマッチョの額に紋を埋め込む。一瞬、紅雪の両手から眩い光が放たれ、その場の全員の視界が真っ白く染まった。

「―――さて、香琳。泣いているところをすまぬが、茶を入れてくれぬか?」


「まったく、僕もヒヤヒヤしたよ。紅雪ちゃんてば、マジなんだもんよー」
 小鈴の入れてくれたお茶をすすりながら、ボヤいたのは瑠璃だ。
「何が、ヒヤヒヤしたよ、じゃ。厚かましくも小鈴の手料理を食らいおってからに」
 だってさー、と食後に出された小さな饅頭に、がぶり、と噛み付く瑠璃はもぐもぐとひとしきり咀嚼してから飲み込んだ。
「僕、村長に何て報告したらいいのさ? そりゃ、元凶は潰したよ? あの怪しげな道具一式も紅雪ちゃんが文字通り灰にしたしさ? でも、さすがに英修のことは言えないっしょー」
 瑠璃のボヤきを聞いて、うっすらと真相を知りつつある小鈴は、何も言わずに饅頭を瑠璃の前の小皿に取り置いた。
「簡単なことではないか。わしが元凶を破壊した。それとは別に、わし以上の惰眠を貪っておった阿呆の性根を叩きなおした。その代わりに香琳に細君達が来る日に家事手伝いをするよう言いつけた。たったそれだけじゃ」
「まぁ、香琳ちゃんが、手伝いに?」
 傍観を決め込んでいた小鈴が、ぽむっと両手を打った。
「あぁ、小鈴にばかり面倒をかけてはいかぬからのぅ。あの働き者が手伝いに来れば、小鈴も助かるであろう」
「えぇ、ありがとう、雪ねえさま」
 にこにこと微笑む妹に、紅雪の機嫌も良い。
「何げに、小鈴っち最強だよねー……」
 瑠璃は、仲の良い姉妹を眺めながらお茶をすすった。
―――英修に課された試練は、瑠璃からすれば生ぬるいもののように思えた。
 マッチョの人形は、この先1年間、英修を「助け」ることになる。
 英修がきちんと朝に起き、父親と同じように畑仕事にせいを出し、香琳の家事を手伝うように「助け」るのだ。
 言い換えれば、英修は毎朝あのマッチョに叩き起こされ、怠けきった身体が悲鳴を上げても畑仕事をさせられ、雑事を手伝わされるのだ。
 悲惨な状況といえなくもないが、瑠璃は自業自得だと思っている。むしろ、蝶にされなかったのが不思議なくらいだ。
「ねぇ、紅雪ちゃん。……もしかして、本気で虫に変化させようと思ってた?」
 瑠璃の問いに、もぐもぐもぐと口を動かしていた紅雪は、たっぷり十数秒咀嚼し、嚥下したのち「当たり前ではないか」と答えた。
「あの場で香琳を庇わなければ、叩き直す価値なしと見ておったが。……まぁ、仕方あるまい。それでは妹が不憫だからのぅ」
 小鈴に勧められたお茶を愛おしそうにすする彼女にとっては、英修など虫にするもしないもどうでも良いことだった。
「……さて、これで一通りの始末はついたのぅ。瑠璃、報告はぬかりなくな。小鈴、わしはまた寝るとするよ」
 また木の上にするか、いやいや屋根の上でもいいかもしれぬ、と呟きながら紅雪は卓から立ち上がった。
「おやすみなさい、雪ねえさま」
 ひらひらと手だけを振って応える背中を、瑠璃は小さくため息をついて見つめてから、口を開いた。
「―――おやすみ、紅雪ちゃん」


 後に、赤雪姫の労働の対価として妻や母親(の心?)を独占された男達が、ため息の絶えない日々を過ごすことになるが、それはまた別の話である。

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