惰眠3.惰眠の代償2.煮込まれる姫君―――小鈴の説明をまとめると、次の通りだった。 ・朝、小鈴が目を覚ました時には、紅雪はとんでもない熱を出していた。 ・それこそ寝台が焦げるぐらいの熱で手拭を濡らしてどうこうなるものではなかった。 ・小鈴が幼い頃にも似たようなことがあり、その教訓があって家の裏手に自動で水を汲む仕組みを作ってあった。 ・その仕組みが歯車がイカれているのか、故障して動かなかった。 ・仕方なく、仕組みの風呂桶だけを使い、小鈴自らが川の水を汲んでは注いでいた。 「……とりあえず、話は分かりました」 何度目かの水汲み作業をしながら、翡翠は頭の角度を変え、目に流れ落ちようとしていた汗の軌道を変える。 「小鈴、とりあえず鉱家へ行って瑠璃を呼んできなさい。アレでもいないよりはマシです。瑠璃が来たら、その仕組みが直せないかどうか確認しましょう」 「いいえ、翡翠さんが行ってください。わたしはここにいます」 目の前の翡翠に水桶を奪われた小鈴は、めげずに別の水桶を持って来て水汲み作業を続けていた。二人がかりでやっているため、紅雪の安置されている風呂桶には僅かながら水がたまっている。 翡翠としては、どうにかして暑さと重労働に疲れきっている様子の小鈴を休ませたかったのだが、『雪ねえさま』のことになると、彼女はかなり頑固者になる。 どうやって説得しようかと思案し――― 「兄ちゃん、ここにいる~? うわっと、すごいね、この湯気」 能天気な弟の声に、小さく安堵のため息を洩らした。 「丁度いい所に来ましたね、瑠璃。私の代わりに水汲みをお願いします」 「水汲みって、うわ、紅雪ちゃん、どうしたのコレ?」 「説明は後です」 有無を言わさず水桶を渡すと、翡翠は風呂桶頭上に設置された樋を辿って問題の仕組みの方へと足を進める。背中から「すみません」と小鈴が恐縮する声が届いた。 「これ、直接川に紅雪ちゃん放り込んだらまずいの?」 「……そんなことをしてしまうと、下流の人や川魚に迷惑がかかってしまいます」 「あーそれマズいねー」 どこか楽天的な弟の声を聞きながら、翡翠は川の水を水車を使って汲み上げ、樋から風呂桶に流す簡単な装置と見抜く。水車が回らないところを見ると心棒あたりに何か問題があるのだろう。ただ、年季の入った様子から察するに上手く水車が回っても途中で水漏れしてしまう可能性もある。差し当たって心棒を確認するとして、徹底的に見なければ想定通りの効果が出るとは思えなかった。 「ちょ、これ、キッツイよー。よくこんなこと続けてるね、小鈴っちー」 元々体力がないからか、早々に音を上げる弟の声に、翡翠は(どちらにしても、もう少し人手が欲しいですね)と考え込んだ。 「大体、こういう仕事ってばさー、どっちかって言うと琥珀の得意分野じゃんよー」 「琥珀さん……そうだわ。瑠璃さん、雪ねえさまが言うには、琥珀さんをすぐに呼び出すことができる符を預かっているんです。その、琥珀さんも都で色々とお仕事があるのは分かっているんですが、呼び出しても」 「それ早く言おうよ小鈴っち! 呼び出しちゃいなよ!」 許可を求めようとした矢先に、勧められてしまった小鈴は小さく頷くと勝手口から室に入っていった。 「まったく、小鈴っちも、もうちょっと紅雪ちゃん見習って図々しくなったっていいのにさ、ね、兄ちゃん? 特に琥珀に対してなんかさ」 「紅雪ほどにはならなくてもいいですけど、頼ってあげれば琥珀も喜ぶでしょうしね」 淡々と答えながら戻ってきた翡翠は、小鈴の置いていった桶を持ち上げると、水汲み作業に参加した。 (兄ちゃん、琥珀の気持ち知ってるからなぁ……) 瑠璃は、ふぃーと額を流れる汗を拭きつつ、隣の兄をちらりと見た。 (小鈴っちの気持ちには気付いてるんかな?) 直接聞いてみたい気もするが、何となくはぐらかされて終わりそうだ。商売においてもだが、この兄に交渉事で勝てる気はしない。ましてや、小鈴が聞いているかもしれない場所で聞くべきことではない。 「琥珀さん? 聞こえますか、琥珀さん?」 『おわっ、その声、小鈴か?』 瑠璃は突然聞こえた末弟の声に水を汲む手を止めた。 「瑠璃、手を止めるな」 「あ、うん」 おそらく紅雪の手による怪しげな符の効果なのだろう。向こうが部下を従えての仕事中なら、さぞやびっくりしたことだろうな、と考えて瑠璃はニヤニヤと笑った。 「その、雪ねえさまが大変なことになっていて、もし琥珀さんが良ければ手を貸して欲しいんです。お仕事中にご迷惑かもしれないんですけど」 『紅雪が? あいつが大変なことに、って、あ……、いや、―――お前達はこのまま巡回を続けろ。オレは夏少将に報告に行く』 遠くで、「了解」という生真面目な返事と、「隊長、女から呼び出しっすかー?」という冷やかしが混じる。 「ごめんなさい、琥珀さん。迷惑をかけてしまって」 『気にするな! とりあえずオレは上司に報告してからそっちに行く。事情は後で説明してくれ。陛下じきじきに紅雪のことは頼まれているから、許可はもぎ取れる。そっちに行くための符もあいつから預かってるから大丈夫だ!』 どこか弾んだ声は、おそらく走りながら語りかけているからだろう。それでも息を乱す様子ではないことから、相変わらず無駄に元気なのが分かって長兄・次兄ともにホッとする。三兄弟では頼れる力持ちが末弟なのだ。 「翡翠さん、瑠璃さん。琥珀さんは来られそうです」 「うん、聞こえたよ、小鈴っち。琥珀が来てくれるなら、もう一頑張りできるね」 「はい、すみません、瑠璃さん。代わりますね、桶を―――」 請われるままに手にした桶を渡そうとして、はたと隣の兄の視線に気付いた。 「だいじょーぶ。僕だって男だしね。それより、ずっと小鈴っち一人で頑張ってたんだよね? だったら休んでてよ。紅雪ちゃんが起きた時に小鈴っちが疲れきってたら、僕ヒドい目に遭いそうだしー?」 本音を言えば、今すぐ兄にヒドい目に遭わされそうなのだが、そこはぐっと堪える。 「そうですよ、小鈴。紅雪が起きた後、私達では手の回らない事もあるかもしれません。その時のためにも、今は休んでいなさい」 「……はい、翡翠さん」 どこか肩を落とすような、それでも気に掛けてもらえて嬉しそうな小鈴は湯気の立ち込める中から少し離れたようだ。視界が湯気で白く埋め尽くされているので、足音でしか推し量れないが。 ヒヒーン! 突然、馬のいななきが聞こえた。 「きゃぁっ!」 「おわっ!」 ただ事ではない悲鳴に、ひたすら水汲みに励んでいた兄弟の動きが止まる。 「なんだ、この湯気! っていうか、こんな場所に出るのか、この符!」 予想以上に早い末弟の登場に、翡翠と瑠璃は思わず顔を見合わせ、小さく笑った。 ―――とりあえず、この単純肉体労働からは解放されそうだ。 ![]() 「……あぁ、これだね」 奥に入って心棒のあたりを覗き込んでいた瑠璃は、ほっと安堵した。思っていた以上に単純な装置だ。 水車が回るのを止めていた竹の棒を、えいやっと引っこ抜いた。 「瑠璃、まだ樋の方を確認していませんが……」 「いちいち確認するより、やってみた方がいいって。その方が早く装置の問題箇所見つかるし、琥珀も楽になるよね?」 「琥珀はまだまだ元気そうですよ」 先ほどから両手に桶を持って川と水槽を往復している彼に視線を移し、翡翠は羨ましそうに眺めた。 そうこうしている間に、ギシギシと動き始めた水車は、川の流れに急かされるように水を汲み上げ、頂点の辺りに設置された樋に水を流し込む。その水は留まることなく樋を流れ――― 「うぉわっ!」 突然どぼどぼと水が落ちて来て、琥珀が驚いた声を上げた。 「ちょ、これ汚ぇぞ、瑠璃兄!」 「だいじょーぶだいじょーぶ。どうせ、枯れ葉とか土っしょ? 気になるなら掬ってあげればいいじゃんよー」 その声に、少し離れた所で(強制的に)休まされていた小鈴が「直ったんですか?」と近づいてきた。 「小鈴、まだ休んでいろって」 琥珀の制止の声もきかず、小走りで近づいて来た小鈴は、流れ始めた水を見てほぅっとため息をついた。そして、未だぐつぐつ煮えたぎる湯の上でくるくると対流に乗って踊っている枯れ葉をひょいひょいと摘む。 「お、おい、熱いだろ」 「いいえ、日頃の食事の支度で慣れているので、大丈夫です」 蒸発するより多い水の量が流れて来ているのだろう。湯気は相変わらずだが増えた水かさに安心した小鈴は、水槽の底で微動だにしない紅雪を見つめる。 豊かな黒髪を水の流れにまかせたままの彼女は、いつもより神秘的に見えた。 「……ねぇ、これって、息とか大丈夫なの?」 小鈴の隣に来ていた瑠璃が当然の疑問を口にする。 「大丈夫です。以前もこの場所で丸一日浸かってましたから」 「そう言えば、前に聞いたことがありましたね。惰眠を貪っている間は、たまに呼吸をするのも面倒になると」 事もなげに言う小鈴に、さらに情報を付け加える翡翠。 「ほんっと、紅雪ちゃんらしいね。そういうところはさ」 「まったくだ」 ぐつぐつと当人が煮込まれる桶の周囲で、小さな笑いが漏れる。 「翡翠さん、瑠璃さん、琥珀さん。本当にありがとうございました。何とお礼を……」 改まって礼を述べる小鈴の身体がぐらり、と傾いだ。 「……すみません、何とお礼を言ったら良いか分かりません。私一人では―――」 「お礼は結構ですよ。お騒がせな紅雪が悪いのですから。それよりも小鈴、もう大丈夫ですから休みなさい」 「でも―――」 「琥珀」 翡翠はちらりと末弟に視線を投げる。それだけで十分だった。 「いいから、休めよ小鈴」 琥珀は、まだどこかふらついている様子の小鈴の身体を事もなく持ち上げた。 「じゃ、僕らは家に帰ってるから」 室内に運ばれていく小鈴に、瑠璃が明るく声をかける。 二人が家の中に消えるのを確認して、翡翠と瑠璃の兄弟はゆっくりと家路に向かう。朝食もすっ飛ばして来たために、空腹も限界だった。 「なー、兄ちゃん」 「なんです?」 「琥珀がオオカミになるとか考えないわけ?」 問われた翡翠は、小さく眉を上げ、淡々と答えた。 「弱っている女性を襲うような人間に育てたつもりはありません。逆に、そこまでの強引さがあれば、あの二人の関係もあんな煮え切らないままにはなっていないでしょう」 強引に迫ってフラレるにせよ、うまくいくにせよ。 「ま、それもそーか」 | |
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