TOPページへ    小説トップへ    ひとつの空にあるように

1.出会いの冬

 5.歩み寄り


「どうして、ですか?」

 アンジェラはきょとん、として、シビントン夫人を見下ろした。

「謝ることもさせないのは、さすがによくないわ。……あぁ、そこの上は気をつけて」

 イスの上で爪先立ちになっている少女に注意を呼びかけた彼女は、少女の腰を支えた。

「だんな様は、使用人に謝るなんてこと、する必要がないって思ったんです。……前にいたところはそうでしたし」

 せっせと棚の天板を拭きながら、アンジェラは前のお邸を思い出して少しだけ目を曇らせる。

「あの、だんな様は、変です。―――どうして、ムチも火掻き棒も持たないで」

 呟くように吐いた言葉は、痛みを伴う思い出を少女に跳ね返す。

「それは……前のところが厳しすぎたのよ。ここでは、そういうことはないわ。そうね、アンジェラは、前の主人のことを早く忘れてしまった方がいいのかもしれないわね」

 アンジェラの呟きを拾った夫人は、慌てて彼女の背中を撫でた。と、そこでようやく、雑巾を絞るためにまくりあげた少女の腕が、無数の傷で埋められていることに気づく。

「―――気づかなかったわ。腕の傷、しみない?」
「いいえ、大丈夫です」

 決して「しみない」とは口にしない少女に、小さくため息で返した夫人は傷をじっと観察する。古いものも混ざっているようだが、大半が新しい傷だ。しみないわけがない。

「そうね、今、拭いてもらっているところと、そこと、あそこ、拭いておいてちょうだいね。それが終わったら休憩にしましょう?」

 場所をいくつか指定すると、夫人はキッチンへ向かう。慣れた手つきでお茶の用意を済ませると、一式をトレイに乗せて2階にある書斎へ向かう。

コン、コン

「はい、何でしょう?」
「失礼します。お茶をお持ちしました」

 書類とにらめっこをしていたウィルは、顔をほころばせて茶器を並べるスペースを作った。

「ちょうど欲しいと思っていたところだったんですよ。ありがとうございます」
「……昨夜はお疲れのようでしたので、聞かなかったんですが」
「はい?」

 お茶を入れた夫人の問いかけに、ウィルの表情が少しだけ険しいものに変わった。

「あの子は、今まで、どんなひどい主人のところにいたのでしょう?」

 夫人の手にしたティーポットが、かちゃり、と耳障りな音を立てた。彼女の手が小刻みに震えているのは、怒りによるものか、悲しみによるものか、判断がつかない。
 お茶を一口含んだウィルは、僅かな逡巡の末に、ある程度の真実を告げる決断を下す。

「そうですね。あなたには話しておいた方がいいでしょう。引継に障るといけませんから」

 ふぅ、とお茶の表面をウィルの吐息が滑る。

「あの子は、奴隷だったんですよ」

 書斎は静かで、それこそ夫人の息を飲む音が聞こえるほどだった。

「どれほど辛い思いをしてきたのかは、分かりません。あの子は、飽きたら捨てられてしまうという状況の中で、2年間も過ごしてきたようです。おそらく、一朝一夕にあの子の考え方を変えるのは無理なのでしょう」

 こくり、とお茶を口に含んだウィルは、さきほど逃げるように去って行った少女を思い浮かべて少しだけ遠い目をした。夫人に対して告げた言葉のはずなのに、それはそのまま自分に言い聞かせるような内容だったからだ。

「あれでも、話してくれるようになったと思います。ただ、……そうですね。私の方でも一計を案じてみますので―――シビントン夫人?」

 黙って聞いていた夫人の異変に気づいて、ウィルは言葉を切った。心優しい婦人の目からは涙が溢れだしていたのだ。

「す、すみません。ただ、あまりにあの子が不憫で……」
「貴方を信用しているから話すんですよ。これはくれぐれも他言無用でお願いします。奴隷であったことなど忘れて、あの子は明るく前向きに生きて欲しいと願っていますから」

 はい、はい……と頷く夫人は、まだ涙を抑えきれないでいた。

「あまり、あの子を憐れまないであげてください。きっとあの子にも生き抜いてきたプライドがあるでしょう」

 ウィルの言葉に、涙を抑えようとしながら、夫人は何度も頷いた。
「貴方の体調が許す限りで構いません。あの子に色々なことを教えてあげてください」

 夫人は声にならない返事をしながら、大きく頷いた。


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「おや……?」

 その日の昼過ぎのこと、書斎にこもっていたウィルは、窓の外に人影を見つけた。休憩時間を持て余していたアンジェラだ。淡いオレンジのスカートに見覚えがあった。

「何をやっているんでしょう?」

 中庭に積まれていた煉瓦を足がかりによじ登って、眼下に広がる町を見渡していたかと思えば、身軽な動作で飛び降りると、その場でくるりと一回転をした。すると、何度も何度もくるくると回り始めた。少女の顔には、はにかむような笑みが浮かんでいる。
 しばらく少女を観察していたウィルは、合点が行ってくすりと笑った。自分の動きに合わせてひらひらと舞うスカートを楽しんでいたのだ。作った笑みではなく、純粋な笑顔を浮かべるアンジェラを、ウィルは眩しいものでも見るようい、目を細めて見つめた。

「ちゃんと、笑えるじゃないですか」

 ただ、問題はウィルやシビントン夫人の前でもあの笑顔を浮かべるようになるのが、いつになるかということだけだ。

「考えなくてはいけませんね、こちらも」

 手にしていた書類を机に置いて、気づかれていないのをいいことに少女の観察を続ける。

「どうしたら、もっと心を開いてくれますかね」

 残念なことに、ウィルの周りにあの年頃の少女がいたことはなかった。考えるにも材料が不足しているのだ。
 すっかり冷たくなってしまったお茶を飲み干した彼は、腕組みをして考え込む。

コン、コン

「失礼いたします。食器を下げに参りました」
「……ちょうどいいところに。シビントン夫人、アンジェラは貴方の前で自分のことを何と呼んでいますか?」
「はい?」

 お茶を出すときは目を赤くしていた夫人だが、すっかりいつもの調子に戻っているように見えた。だが、ウィルの意図するところを掴みかねて、思わず聞き返す。

「自分のことを『私』と呼んでいますか? それとも『あたし』と呼んでいますか?」
「おそらく『あたし』と呼んでいたと思いますけれど」
「そうですか。それなら構いません。でも、もし『私』と言ってしまっていたら『あたし』と言うように注意しておいてください。それが、アンジェラと交わした最初の約束事でしたので」
「はぁ……」

 実際に約束をしたのはカークの方なのだが、それは些細なことだ。だが、その変な指示を聞いた夫人は首を傾げた。

「あの、領主様。さしでがましいようですが、その、自分の呼び方というのは、それほど重要なことなのでしょうか?」
「前の邸では『私』と言っていたんです。でも、自分の呼称ひとつでも、心の区切りをつける助けになると思いませんか? アンジェラには、ここは前の邸と違うのだと、はっきり自覚して欲しいんです」

 そんなものだろうか、と思わず異を唱えそうになった夫人は、ぐっと喉の奥に意見を押し込めた。一度思いこんでしまえば、なかなか自分の考えを撤回しないということは、短いながらも時間を共にしていた夫人はよく知っている。賢明にも反論を避けた夫人は、この話題を忘れることにした。

『―――あの子について、気づいたことがあるんです」
「どんなことでしょうか?」
「アンジェラは、字が読めないようなのですが、簡単な単語だけならば覚えているようです」

 字と言われてきょとんとしたウィルだが、なるほど、とすぐに頷いた。

「そうですね。邸の雑事を一通り覚えたのなら、勉強もさせてあげないといけませんね」

 自分を売るような貧しい暮らしをする人々の多くは、字を覚えることよりも早くに働き始めることを選ぶ。少しでも生活を楽にするため、飢えないために。……それでも、自分を売る選択肢を選んでしまうのだ。

「それに、まだ色々と警戒しているのでしょうか。頭を撫でられることにも、体を固くしてしまうんです」
「時間が必要なのでしょう。と言っても、このまま傍観するだけというのも……」

 哀しそうに呟く夫人に、ウィルはぼんやりと窓の外に目を向けた。
 休憩時間を与えられた少女は、体をしきりに動かして、ふわふわと風に舞うスカートにほんのりとした笑顔を浮かべていた。


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「今日一日、仕事をしてみてどうでしたか?」

 シビントン夫人が帰った後、台所にあるテーブルで二人はお茶を挟んで座っていた。食後の憩いの一時《ひととき》のはずだが、そこには緊張感が漂っている。
 今、アンジェラがウィルの対面に座っているのでさえ、ウィルが渋々と『命令』したからだ。少女は頑なに主人と同じテーブルにつくことを嫌がっていた。

「覚えていますか? 昨日『娘、兼、小間使い』と言ったことを。あまり『娘』に命令したくはないんですよ」

 困ったように俯くアンジェラは、居心地悪そうに、指をもじもじと動かした。

「もちろん、いきなり父娘にふさわしいくだけた話し方に、なんて言いませんよ。ですが、最初をしくじってしまうと、いつまで経ってもこのままのような気がしましてね」
「でも、だんな様は、旦那様で、私は―――」
「はい、それです。自分のことは『あたし』と呼ぶように言いましたよね?」

 すみません、と謝るアンジェラの反応は早い。咎められたら内容に関わらず謝ってしまうクセができているように思えた。

「ということで、手を机の上に出してもらえますか?」

 おそるおそる両手を出した少女の手首を、ウィルは素早く掴んだ。

「簡単な嘘発見器です」

 手首の脈を確かめるウィルだが、突然過ぎる行動にびっくりしたのか、少女の脈は速いし、手も小刻みに震えていた。これでは、嘘を見破ることすらできないだろう。
 だが、ウィルはこのまましれっとハッタリを続けることにした。

「別にこれ以上は何もしません。正直に答えてくださいね」

 従順に頷いたアンジェラだが、指先の震えはまだ残っていた。さすがにハッタリを効かせ過ぎたかと、ウィルもちょっぴり後悔する。

「私が怖いですか?」

 少女は、おそるおそる頷いた。

「それは、どうしてでしょうか? 何か理由が思いつきますか?」
「……」
「アンジェラ?」
「……あの、だんな様は、前のご主人様と違って、その、何をするか分からないんです。前のご主人様は、気に入らないことがあると、すぐにムチを出してきて、だから……分かったんですけど」

 蚊の鳴くような声で、アンジェラは答えを続ける。

「どうすれば、だんな様に捨てられないで済むのか、分からないんです」

 震える少女は、泣いているようにも見えたが、そこに涙はない。

「前のご主人様は、飽きっぽい人でした。わた……あたしは、何とか捨てられないようにって、媚びたり、反抗したりを繰り返していました。一度捨てられてしまえば、一ヶ月もしないうちに、処分、されてしまうから。あたしは、あんな惨めな死に方だけはしたくなかった。だから、ご主人様の気分を見極めるのに必死だったんです」

 ぽつり、ぽつり、と昨日までの心境を語る少女だが、ウィルの目からは涙は見つけられなかった。

「だんな様は、優しいです。でも、まだ、あたしに、何を求められているのか、分からなくて……。だから、その、至らないところはあるのかもしれませんが―――」
「アンジェラ、貴女自身がやりたいことはありませんか?」

 決意の言葉を遮るように質問をぶつけられて、少女は俯いていた顔を持ち上げた。黒い瞳にウィルの顔が映る。

「やりたいこと、ですか?」

 何を言われているのか分からない。そんな感情が込められた視線に、今度はウィルが目を逸らした。まっすぐに視線を合わせるのに耐えられなかったのだ。
 権謀術数蠢く王都中央の海を泳ぎ、それに嫌気がさして地方の領主に治まった身だが、ずっと自分を不幸な人間だと思っていた。家族の情もなく、策謀を巡らせて自分の身を守る日々に疲れ果てて、こんな地方に流れてきたのだ。……だが、それは驕《おご》りでしかないのだと、嫌でも自覚させられた。

「やりたいこと、なんて、考えたこともありませんでした。……でも、たぶん、だんな様と一緒にいて、だんな様を説得することが、あたしのやりたいこと、なんだと、思います」

 自分を不幸だとも思わず、必死に生きてきた少女が語るのは、紛れもなく真実の言葉だった。ウィルはその重みを感じながら、同じく正直な言葉を返す決意をする。

「私は、貴女のような人間を増やしたくないだけです」

 二人の前のお茶からは、いつの間にか湯気も消えていた。
 ウィルは、何をどう伝えたらいいのか、すっかり分からなくなってしまっていた。自分のやりたいことを考えたこともないほどの不幸な生い立ちの少女に、自分の意志で自分の道を極めて歩いてもらうには、いったいどうすればいいのか、と。
 もしかしたら、そのためには、ウィルが一番したくないことをしなければならないのかもしれない。他に方法があるのかもしれないが、それを探すには、ウィルも疲弊し過ぎていた。自分と少女では、あまりに歩んで来た道が違い過ぎる。その、価値観も。

「分かりました。たぶん、こう言わないと聞いてもらえないかもしれませんね」

 握ったままの手首を放し、嘘発見器のハッタリを終了させる。アンジェラが慌てて手を引っ込めるのに、こっそり傷ついたが、今はそれを見ないことにした。

「いいですか。……これから言うことは『命令』です。ひとつ、貴女は自分のやりたいことをしっかりと探しなさい。時間はかかっても構いませんから」
「……はい」
「そしてもうひとつ、自分のことを『私』と呼ばないこと。ここは以前のあの場所とは違いますから」
「はい」

 返事にかかる僅かな時間の差で、少女の前向き具合が分かるのだから、おかしい話だ。ウィルは少しだけ皮肉の笑みを浮かべると、一拍だけわざと時間をあけた。

「それと、これはお願いなんですが、『だんな様』はやめてください。そんなに脅えてこちらを見なくても構いませんし」

 え、と少女が口元だけで困惑を表した。

「あの、では何と、お呼びしたら」
「ウィルでいいですよ」
「できません」

 いっそ憎らしいほどの即答に、ウィルは思わず少女をまじまじと見つめた。今まで承諾の返事ばかりだったため、まさか拒否があるとは思わなかったのだ。しかもそれが、自分があまり拒否して欲しくない命令だったから、余計に心乱される。
 だが、少女の瞳に譲歩の余地が見出せない以上、ウィルは早々に折れることにした。

「分かりました。呼び名は構いません。あとは、最後に。今日は必ず部屋の鍵をかけて寝てください。もしかしたらシビントン夫人から聞いたかもしれませんが、私は、夜に徘徊するようですので」

 アンジェラは持ち上げたカップを落としそうになって、慌てて持ち直した。

「そうでした。アンジェラ。昨晩、いったい何があったのか教えてもらえませんか?」

 主の口から謝罪が飛び出すのではないかと身構えていたアンジェラは、少し安堵したようで肩の力を抜いた。

「はい。昨晩、だんな様は部屋に入ってきて、カーテンを開けました。それから、その、ベッドに入って来て……。少し、話をしたんですけど、今日は疲れているから眠いとおっしゃって、そのまま寝入ってしまわれました」

 少女の言葉に、危惧していた内容がなかったことで、ウィルは大きなため息をついた。

「はぁ、とりあえずは、何もなかったんですね。でも、今日もそうなるかどうかは分かりませんので、鍵はしっかりとかけること。いいですね?」
「はい、だんな様」

 少女は従順に頷いた。


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 静かな夜は慣れない。
 誰かの寝息もなくて、誰かの嗚咽もなくて。
 こんな広い部屋、広いベッドにただ一人。
 こんな夜は、眠れるわけがない。

―――月が皓々《こうこう》と照っていた。
 少女はベッドには行かずに、カーテンにくるまって空を見上げていた。一人ぼっちの月は、まるで自分のようで、近くで瞬いている星は、小さすぎて語りかけても届かない。

「だから、今日はお月様といっしょ」

 アンジェラは、また眠れない夜を過ごしていた。
 昨日と同じく、体は疲れていた。慣れないことをたくさんこなし、色々な気疲れもある。あの優しい夫人に、自分が文字を読めないことはバレていないだろうか? 文字を読めないのは、誰よりも下の生活をする者だけだと聞いているから、もし、バレてしまえば、あの優しい夫人は、少女をどんな目で見るか分からない。

「あと、何日……?」

 あと何日で、あの優しい夫人はいなくなってしまうのだろう。引継ぎを終えたらという話だったと思う。そうしたら、だんな様は本性を表すのだろうか。

 そんなことを考えていたアンジェラの耳に、ひた、ひた、という足音が聞こえた。彼女の見上げる窓とは反対側から、そう、廊下を誰かが歩いているのだ。

(やっぱり、来た)

 だんな様とは違うだんな様だ、と思う。カーテンに身を潜ませたままで扉に注意を向ける。足音は扉のすぐ向こうで止まったようだった。

ガチャ、ガチャガチャガチャッ!

 その行動は十分に予想がついていたはずなのに、アンジェラの体が大きく震えた。まるで、前のご主人様がムチを振り上げたような恐怖に、がちがちと歯が叩き合って音を出す。

「おい、寝てんのか?」

 乱暴な声は、昼間のものとは全く別のもののように聞こえる。そう、夕食後の言いつけの通りに、彼女はしっかりと鍵をかけていた。

「寝てねぇんだったら、鍵開けろよ」

 びくっ、と少女の体が一層大きく震えた。

(めい、れい……)

 命令されることになれた少女は、迷いながらもカーテンから滑り出た。

「誰、ですか?」

 廊下に届くか届かないかぐらいの小さな声を絞り出す。

「おいおい、つれねぇな。昨晩会っただろ? それとも、こい言った方がいいか? ……自分の主人の声も分からねぇのか? ウィルフレードだよ。お前のご主人様だ!」

 ドンドンドン!と乱暴に扉がノックされるに至って、アンジェラは慌てて扉の方へと足を進めた。

「今、開けます。お待ちください」

 声はしっかり届いたのだろう。扉の向こうの人物は、乱暴なノックをピタリとやめた。
 アンジェラの震える手が、がちゃり、と鍵を外す。だが、扉が開く気配はなかった。アンジェラの方から扉を開けようと、取っ手に手を伸ばしたが、ふいに少女は手を引っ込めると、足音を殺してカーテンの中へと逃げ込んだ。鍵を開けるように言われたが、扉を開けるようには言われてない。そう自分に言い訳をして。
 カーテンの裏側は窓。窓の向こうに月が見えた。今のアンジェラの場所を知るのは、お月様だけだ。

「あぁ? 開けたのか?」

 ぎぃ、と扉が開く音がした。

(大丈夫。向こうからは見えないはず)

 祈るような少女の願いを嘲笑うように、足音はまっすぐに彼女が隠れているカーテンに向かって来た。

「ふ、ん。かくれんぼか?」

 足音がチェストの方へ向くのを聞いて、アンジェラは、ほぉーっと息を吐いた。

「なんてな!」

 その直後、声とともにカーテンごと抱きすくめられたアンジェラの喉の奥で悲鳴が洩れた。

「まさか、こんなところに隠れてるとはね。夢にも『思ってた』よ」

 カーテン越しに伝わる声とぬくもり、そして、アンジェラの体を探るような触り方に、嫌悪より何より恐怖が走った。

「そういえば、お前の名前、まだ聞いてなかったよな?」

 口調こそ違うものの、『だんな様』と同じ声に、アンジェラは震える声で名前を告げる。

「ふぅん? 天使サマってわけか」

 声と一緒に、アンジェラの鼻をお酒の匂いがかすめた。

「あ、あの、だんなさま。お酒、飲んでいらっしゃる、ん、ですか?」

 恐怖を滲ませて質問を搾り出すが、アンジェラの意識はすでに遠い記憶を彷徨い出していた。
 噎《む》せ返るような葡萄酒の匂いと、真っ赤な液体。そして、割れたグラス。怒声が響き、焼け付くような痛みが背中を蹂躙する。

「あぁ? あいつが無駄なことしやがったのさ。酒飲んで、酩酊状態なればってな!」

 ぐい、とカーテンを引っ張られ、隠れ場所から追い出されたアンジェラは膝をついた。慌てて顔を上げると、そこには、ほんのり赤く染まった『だんな様』の顔があった。

「あ……」

 膝を立てることすらできずに、アンジェラはただ震えて彼の顔をみることしかできない。
 彼から漂う酒の匂いを呼び水に、フラッシュバックする真っ赤な真っ赤な水溜り。砕け散ったガラスの破片。
 いや、という拒絶の声さえ出せずに、ただただ恐怖に震えて彼を見上げていた。

「あぁん? どうした、立たねぇのか?」

 引っ張り上げようと伸ばされた彼の手は、パン、と小気味よい音を立てて押しのけられた。その音に、一瞬だけ自分を取り戻した少女だったが、自分のしでかしたことに、一層ガタガタと震えを大きくしていた。

「あ、の……、ちが、違うんです。今のは、その―――」

 恐怖の色を湛えたまま、少女の瞳は彼から目を離さない。いや、離せないでいた。

「あーあー。なーるほどね。そういうことかよ」

 ワケが分からず、一方的に脅えられていた彼は、突然、軽い口調で全てを納得したような声を上げる。

「つまり? お前は、前にいたとこでヒデェ扱いを受けてたと。それで、その傷もぜぇんぶ、そこでもらっちまったもの。―――違うか?」

 震えも止められないまま、少女は「違いません」と小さく応えた。

「それで、酒に酔ったオレが何かするんじゃねぇかと、そう思ってるわけだ?」

 アンジェラは必死で恐怖を抑えようと、胸に両手で拳を作って力を込める。

「ん? どうなんだ? 答えろよ」

 命令の言葉に、「はい」と肯定したアンジェラの頭は、既に恐怖でいっぱいで、嘘をつくことも、沈黙すら選択肢として考えることすらできないでいた。

「なるほどねぇ。それじゃ、お望み通りにしてやっか」

 にやりと笑った彼は、アンジェラをひょい、と抱き上げた。まだ震えるアンジェラを鼻で笑うと、そのまま少女をベッドに落とした。彼女が起き上がる暇を与えずに、少女に覆い被さるようにのしかかった彼は、顔を彼女のすぐ前に寄せた。

「さて、何から始める?」

 アンジェラは、目の前の男が何をしようとしているかは、検討がついていた。何故かは知らないが、前のご主人様が決してやらなかったこと。でも、下げ渡された奴隷が、真っ先にされていたこと。

(大丈夫。死ぬほどのことじゃない。大丈夫……)

 根拠に乏しい「大丈夫」を繰り返しながら、目の前の男の行動を見逃すまいと、必死で目は見開いていた。

「へぇ? その様子だと、初めてくさいよな?」

 おどけた口調の問いに、思わずアンジェラの顔が真っ赤に染まった。いやだ、こわい、と心が悲痛な嘆きをこぼす。
 そんな少女を逃さないように、彼はニヤリと笑うと、片手でアンジェラの両手をあっさり押さえる。もう片方の手は夜着にかけられていた。

「い、……やぁっ!」

 まるで水で満たされた皮袋がはちきれるように、耐え難い恐怖が臨界を超えて、少女は戒められていた両手を渾身の力で振りほどいた。

「っ!」

 自分の体重を加えるようにして、自分の上にのしかかりかけた彼を突き飛ばす。直後、ゴンと、鈍い音がした。
 彼は突き飛ばされた先にあったベッドヘッドに頭をぶつけ、ずるずると崩れ落ちた。

「……あ」

 アンジェラの間の抜けた声が響く。

「だんな、様?」

 返事はない。ベッドの真ん中で目を閉じたまま、彼は微動だにしなかった。
 しばらく彼を見つめていたアンジェラだったが、そろり、と近付いて呼吸を確認する。

「生きてる……」

 そっと頭の後ろに手をのばしてみると、そこには他の部位より少し熱を持っているように感じる歪みがあった。

「たんこぶ、だけ?」

 もしかしたら、もっと重大なことになっているのかもしれないが、アンジェラに医療の知識などない。どっと疲労感を覚えた彼女は、動かない彼に毛布をかけると、自分はそっとベッドから離れた。
 壁にかけていたコートを羽織り、毛織物の膝掛けを巻く。そのまま、ベッドと月の間に膝を抱えてしゃがみこんだ。床からしんしんと冷えてくるが、慣れたものであまり気にならない。
 今日も眠れないはずだったのに、同じ部屋に別の誰かが呼吸をしている、それだけで少女は、まるで吸い込まれるように眠りに落ちていった。

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