13.逃亡の果て良心は痛んだが、無事、王都を脱出することができて安堵したのも束の間、私は自らの計画の杜撰さに頭を痛めていた。 目に見える数メートル先にしか移動できない近距離転移の魔術陣を複数回発動させ、お邸の外へ脱出。 寝台から剥ぎ取ったシーツにざっと仮縫いをしたものを外套代わりに纏い、それを幻術の陣でそれっぽく見せた状態で朝イチの駅馬車に乗り込み、懐かしいウォルドストウまでたどり着いたところで乗り継ぎを含めて一日半を経過していた。 どこか固定された場所ではなく、常に動き続ける自分に対して幻術の陣を行使し続けるのは予想以上に消耗が激しく、持ち出した三つのダイヤモンドのうち、一対のイヤリングに貯めていた魔力まで使い尽くし、へとへとになっていた。 それでも何とか自分を励まし、春頃にお師さまから頂いた餞別の隠し場所まで辿り着き、得たお金で最低限の衣類を整えてから、香水と独特の臭気漂う場末の宿に転がりこみ、十分な睡眠をとった所で、はた、と我に返った。 とりあえず餞別の隠し場所まで行けたら、とは考えていたけれど、この先どうするかを一切決めていなかった。 (そうはいっても、お師さまや食堂のおかみさんには、これ以上の迷惑はかけられない) 簡素な朝食を腹に詰め込んだけれど、幻術で自分を偽ったまま駅馬車を利用するのは不安があった。予想以上に魔力の消費が激しいのである。 それでも、知り合いに見つからないようにと山一つ越えた隣町へ出て、人目のない場所で腰を落ち着けなければ、と山を目指したところで途方に暮れてしまった。 冬が迫ってきている。 もう少し冷静に考えることができていれば、冬を越すまであのお邸に留まることを選んだのだろう。 でも、どう考えても無理だった。 だって、彼の考えていることが分からなさ過ぎる。 末っ子だと聞いていたから、「妹か丁度いい下僕か人形代わりに、不憫な子どもを保護した」という認識だと思っていた。 雷王祭の直後は、それなりに女らしく成長した私に劣情を抱いたのでは、と危惧していた。都合の良い愛人になれと迫られたら、後遺症が残る可能性のある危険な魔術陣を使ってでも逃れようと決めていた。 しばらく何のアクションも起こして来ないのを見て、全く予測もつかないことに恐怖した。 だって、怖いじゃないか! せめて感情豊かでなくとも、会話が弾んでくれれば、それなりに情報が集まって、何を考えるのか推測できる。 でも、言葉は少ないし、感情は見えないし。 とにかく怖かった。 確かに、あの美貌とか明晰な頭脳とか鍛えられた肉体とか将来性とか、貴族の令嬢やそのお父さんが確保に動く気持ちは分かる。嫁に行くのも婿に取るのもいいしね。 でもね、私は平民なんです。一般ピープルなんです。 貴族という対等な身分すら持ち合わせてない私が、何故かお邸で分不相応な厚遇を受けているんだけど、その理由が全く不明って怖くないですか? ついでに、心の底が見えない無表情な美形も怖くないですか? あぁ、誰かに愚痴りたい。 そんでもって、共感して欲しい。 たわいのない会話に飢えている自覚もある。 「でも今は、この先を考えなきゃ」 お師さまに頂いた餞別だって、無限にあるわけじゃない。どうにかあの人の手を逃れる場所か、手段かを見つけないと。 人が使っている痕跡のある山道を、それこそ足元から痛いほどに突き刺さる寒さと戦いながら辿って行く。 明確なアテがあるわけではなかったけど、冬の間は使われない狩猟小屋でもあるといいな、と期待して。 お師さまが言うには、魔力のある人間というのは、だいたい第六感に優れているらしい。つまり、勘が良いのだ。 お師さまは、「保有魔力量の少ない人間には感知できない魔力の流れを察知して無意識下で処理する能力が云々」と理論的に説明していたが、細かい話は覚えていない。 (野生の嗅覚ですね、って言ったら怒られたし) お邸暮らしですっかり鈍った身体が軋み、ぜぇぜぇと喉を鳴らす中でも、楽しい記憶に思わず笑みがこぼれた。 程なく、私の目の前に丸太作りの小屋が現れた。魔力持ちの勘の為せる業である。 ただ、一つ問題があるとすれば――― 「人の、気配……」 夕闇に包まれた木々の中、森を切り開いた場所にひっそりと立つ小屋の前には洗濯物が干されていた。量からして一人分。外出しているのか、それとも丸々一夜干しっぱなしにする予定なのか。 とりあえず、一泊ぐらいは泊めてもらえるだろうか、と住人の気配を透視の魔術陣を通して探ったところで、私は駆け出していた。 「すいません、失礼します!」 大声を上げて扉を開ける。鍵のかかっていない玄関をあっさり潜り抜け、迷わず右手の奥の部屋へと向かった。真っ暗な小屋の中で慌てていたので、柱に右肩をぶつけてしまう。地味に痛い。だが、今はそんなことは後回しだ。 「大丈夫ですか!」 透視で分かっていた光景だが、自前の目で見ると血の気が引いた。 倒木が小屋の壁と天井の一部を圧し壊し、小屋の主を下敷きにしていたのだ。暗い小屋の中、その部屋だけが外から差し込む僅かな灯りで室内の様子が見えた。 「う……」 小さい呻き声と呼吸を確認して、ようやく一息つく。 いや、一息ついたらダメでしょ。 私は背負い袋を乱暴に床に置くと、木炭を取り出す。 (えーと、軽量化の構成は……、いや、浮遊でやった方がいいのかな) 迷うヒマを惜しんで倒木に軽量化の陣を書き上げると、続いて身体強化の陣が刺繍された布(元は下着に刺繍してたやつだ)を自分の両腕に巻きつけた。 軽くなった倒木を、お外にポイっと投げ、元は壁やら屋根だった折れた丸太を倒れた人の上から取り除いていく。 「……んっ」 最悪。 私は舌打ちする代わりに、下唇を軽く噛んだ。 破片が突き刺さり血が滲んでいるだけでなく、足がありえない場所で曲がっている。 「だ、……れ? クラウス?」 ぼんやりと男の人の名前を呟いたのは、白髪交じりの濃茶の髪をしたおばさんだった。 「クラウスさんじゃなくてすみません。通りすがりの者です。とりあえず、治療のために少し台所借りますね」 私はおばさんに自分の羽織っていた外套をかけると、玄関から左手に見えていた台所へばたばたと走った。 戸棚を漁り、火打石で四苦八苦しながら薪に火をつけ、比較的小さな鍋を拝借してお湯を作る。 えぇと、どう治療すればいい? お師さまから叩き込まれた薬草の知識はあっても、モノがなければ意味がない。 私はお湯が沸くまでの間に、とけが人の所に戻る。台所にあった手燭を拝借したので、おばさんの顔色が白くなっているのが見て取れた。 いつからあの状態だったのかは分からない。意識はかなり混濁しているようで、薄目は開いているものの、その瞳は私の姿を追えていない。 「痛いかもしれませんが、すみません。ベッドに移動しますね」 身体強化の術を施しているおかげで、軽々とおばさんを持ち上げた私は、行儀悪く手燭を加えたまま簡素なベッドのある部屋へ彼女を運び入れた。 布団に横たえると、シーツを汚さないように私の首に巻いていたストール(とは名ばかりの布の切れ端)を出血のひどい左足の下に敷く。 再び壊れた部屋に戻り、自分の荷物を拾って戻って来た時にはもう、おばさんの意識は失われていた。 破片を抜いて、消毒して、包帯を巻いて、骨折した足に添え木して、町に運んで? いや、医者を呼んで? 間に合わない。心のどこかで警鐘が鳴る。 どれぐらい悩んでいたんだろう。 かまどのある方から、鍋の水が沸騰した音が聞こえた時、私の腹は決まった。 それなら、たとえ魔力をバカ食いするとしても――― 「―――助かる可能性の高い方法で」 声に出してしまえばもう、揺らぐことはなかった。 台所からお湯を鍋ごと持って来て、さらに目についた桶と手拭を拝借。 「すみません、ズボンを一着、ダメにしちゃいます」 聞こえてはいないだろうけれど、自分の小刀でおばさん自身の血に塗れたズボンを切り、患部を露にした。 麻酔、増血、消毒、……治癒。 使う予定の魔術陣を思い浮かべる。 大丈夫、できる。できる。 自分に言い聞かせながら、まずは麻酔と増血の陣をおばさんの身体に直接描く。染料がないので、かまどの煤をお湯に溶いたもの、そこに更に私の血を混ぜて代用した。 少しだけおばさんの呼吸が穏やかになったのを確認し、血に塗れた患部をお湯で絞った手拭できれいにしながら、刺さった破片を抜いて行く。 消毒の魔術陣で異物の除去もできるけれど、人の手でできることは、できるだけやっておきたかった。消毒対象が多ければ多いほど魔力を使うからだ。 そして、私は胸元にぶら下げたままのネックレスを見下ろした。 治癒の魔術陣は、一般に知られていない。 魔術でケガを治すことができるというのは、魔術を学ぶ人間ならば誰もが知っている常識だけど、それが難しいことも同じく常識なのだ。 理由は単純。非常に大きな魔力を消費するから。 この国全体で数えても、治癒の術が使われるのは、年に一回あるかないかなのだと、お師さまは言っていた。 複数の魔術師が勤める王宮内で、抜き差しならない事態(例えば国の重要人物が襲撃されて重傷を負ったり?)にでもならない限り、治癒魔術を使う選択はされない。そういう時だって、魔術師四、五人で一つの術を行使するのだと言う。複数人が一つの魔術陣に働きかけることはできないから、自然と行使魔術に限定されてしまう。 それなのに。それを、これから、私が、一人でやろうというのだ。 もちろん、ネックレスのダイヤモンドに貯めた魔力は全て使い果たしてしまうだろう。それでも足りるかどうか分からなかった。 あとは、お師さまも誉めてくれた、行使魔術に向かない桁違いの自分の魔力を信じるだけ。 「お願い、助けたいの……」 私は祈るように、その陣を描いた。 ![]() 「ちょっと、アンタ」 ぺちぺちと頬を叩かれている。 あぁ、しまった。給仕の途中で寝てしまったんだっけ。 早く起きないと夜の部が始まってしまうから、おかみさんに怒られる。 いや、もう怒られているのかな? 「起きとくれ」 さっきよりも強い力加減で叩かれた頬が、じんじんと痛む。 うっすらと目を開けると、そこには怒っていつも以上に目を鋭くさせたアンナさんが――― 「あれ?」 ―――いなかった。 私の頬を叩いていたのは、食堂を切り盛りするアンナさんとは似ても似つかない優しげな顔を持ったおばさんだった。 ベッドから上半身を起こしたままで、ベッドに突っ伏すように寝ていた私に呼びかけていたのだ。 「え、えぇと、おはようございます?」 「ようやく目が覚めたみたいだね。」 きょろきょろと周囲を確認してしばし、ようやく状況を理解する。昨日ウォルドストウに居たせいか、懐かしい夢を見てしまった。せめて遠目で食堂を確認するぐらいしても良かったかもしれない。そんな思いが見せた夢だったんだろう。 「起き抜けで悪いけど、とりあえず、状況を説明してもらえるかい?」 「あ、はい、通りすがりに逃げて来て倒木が下敷きのおばさんに出血して―――あ、洗濯物干しっぱなし!」 慌てていたことを差し引いても、混乱のひどい私の言葉に、何故かおばさんは爆笑した。 | |
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