TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 12.焼き餅?嫉妬?岡焼き?


 疲れた。
 そりゃもう疲れた。
 慣れないドレスに慣れない振る舞い慣れない会話、やっぱり私は庶民でいたい。
 自分のほっぺたを指先でぐにぐにと円を描くようにマッサージをする。まさか、こんな場所の筋肉が疲れるなんて、貴族の夜会というのは恐ろしい。ウォルドストウで食堂の給仕をしていた頃に、愛想笑いを浮かべるのは随分と慣れたと思っていたけれど、上には上があるものだと思う。
「もー無理ー」
 バルトーヴ子爵邸の私に割り当てられた部屋で、ぐでん、と長椅子に寝転がる。お行儀は悪いけれど、誰の目もないからもういい。
 夜会が終わり、ゆっくり休むように言われたけれど、お義母さまの言いつけとやらで、お風呂で徹底的に洗われてしまった。化粧や整髪剤なんかをしっかり落とさないといけないという話だったけれど、終わってまでこんなにグッタリすることをさせられるなら、化粧も整髪剤もいらない……とまでは、さすがに口に出せなかった。さすがにお義母さまには逆らえない。立場的にも、相手の性格的にも。
 あぁ、だめだ。このままでは寝てしまう。せめて、今日お師さまが見せてくださった余興について、思いついた考察を書き留めておきたい。同じものを再現できるかどうかじゃなくて、自分だったらどう構成するか、考えていたんだ。
 のそのそと立ち上がり、少しでも眠気を吹き飛ばそうと、バルコニーへと続く窓を開ける。頬に当たる夜風は刺すように冷たく、火照った体を覚醒させてくれる。
 ひたり、と外へ足を踏み出せば、その冷たさは一気に頭まで駆け上がり、見事に眠気と戦ってくれた。風邪を引かないようにすぐ戻らないといけないけれど、もう少しこのまま夜風に吹かれていたい。
「マリーツィア?」
 違う方向から、眠気が吹き飛んだ。
 いや、幻聴だ。幻聴に違いない。
 それでも質量さえ感じられる声音を無視できずに、首だけを声のした方へと向ければ、
「……ク、レスト、様」
 隣のバルコニーには、ゆったりとした夜着に身を包んだ夜会のパートナーが立っていた。
 と、隣の部屋だなんて、聞いてないっ!!
「疲れて寝てしまったと聞いていたが、大丈夫か?」
「え、えぇ、もう寝ようかと思っていたところです。クレスト様も、おやす……何やっているんですかっ!」
 隣のバルコニーに立っていた婚約者サマは「そうか」なんて言いながら、手すりに足をかけていた。
 危ないからやめてください、と口にする前に、身軽な動作であっさりと隣室の――こちらのバルコニーに飛び移って来る。
「俺も休もうと思っていたところだ。ちょうどいい」
 言っている意味が分かりたくありませんよー……。
 思わず逃げを打とうとする私の肩を軽く抱き、そのまま私の部屋へ侵入するクレスト様。
「あの、クレスト様?」
「なんだ?」
「どうぞ、ご自分の部屋でお休みになってください」
「君も休もうとしていたんだ。ちょうどいいだろう」
 ちょうどいいわけあるかっ!
 外聞が、と説得を試みれば、もう婚約者なんだからと謎の理由で却下されてしまい、あれよあれよと寝台の中、添い寝体勢になってしまった。
 ……どうしてこうなった?
「あ、の、クレスト様?」
 腕に抱え込まれ、布団の中に押し込められたままで身を捩って顔を見上げれば、何故か不機嫌な碧玉と目が合った。
 おかしいな。無事に婚約お披露目は終わったから、タイミングとしては上機嫌でもおかしくないはずなのに。
「あいつらの目を潰してやりたい」
「え?」
 少なくとも、婚約者をベッドに引きずり込んで言うセリフではないと思う。
「マリーツィア、あまり騎士団のヤツらやバカ貴族どもに微笑むな」
「……愛想良く振る舞うのは、当たり前です。貴族の方々に付け入らせる隙を作ってはいけないと教わりましたし、それに、騎士団の方々は、クレスト様と同じく王を守ると決めた方々、同じ仲間でしょう?」
 私の言葉に、クレスト様の眉根にしわが寄った。
「何の話だ?」
 あれ、おかしいな。騎士になった初心を忘れているとか、そんな話なんだろうか。
「多くの領民の為でなく、ただ一人のために命を使いたい。そうおっしゃって騎士の道を歩まれたと聞いてます」
 有名な話なのだろうと思っていたけれど、もしかして単なる噂でしかなかったのだろうか。
「マリーツィア、君は誤解をしている」
「これ、脚色された噂話だったんですか?」
「いや、そういった趣旨の発言をしたことは間違いない。今も、ただ一人のために命を使いたいと思っている」
「それなら、志を同じくする騎士団の方々は、お仲間でしょう?」
「君だ」
「……え?」
「マリーツィア。ただ一人の君のためだけに、俺はこの一生を使いたい」
 ……一瞬、思考がストップしたような錯覚に陥った。
 あれ、ちょっと待って。だって、騎士を目指したのって、いつから? 私と会う前からじゃないの?
 夜風に晒して冷えたはずの体が、ぽかぽかと熱を帯びてくる。主に顔のあたりから。
「マリー、そんな可愛い顔をして煽るな」
「……っ!」
 やばい、顔が熱い。何これ。いたたまれなくて、とにかく睡眠に逃げたい!
 なぜだか楽しそうなクレスト様の顔を直視できず、慌てて両手で顔を覆ってうつむく。無理。むーりー!
「マリー?」
「な、なん、です、かっ」
 耳に直接流し込むように囁かないで欲しい。というか、今すぐ昏睡の陣を使いたい。自分に。
「君は俺が守る。だからあいつを、イスカーチェリを頼るな」
 ……うん。何度も聞いた発言に、少しだけ冷静さが戻って来た。大丈夫、今日もクレスト様は平常運転。
「……マリーツィア?」
「っ!」
 平常運転でないのは私の方だ。耳元で名前を呼ばれたぐらいで、どうしてこうも動揺するの!
 堪えられなくなった私は、クレスト様の胸板を強く突き飛ばし、その反動で寝台から転げ落ちるように逃げた。
 最近、クレスト様との攻防で学んだことは、予備動作を見せずに躊躇なく動く、これに尽きる。
 ナイトテーブルに用意された水差しからコップに水を勢いよくそそぐと、一気に飲み干して「ぷはぁ」と息をつく。うん、落ち着いた。たぶん。まだ、体は熱いけど。
「クレスト様。何度も言うように、お師さまは私の父親みたいなものなんです」
「君はもう俺の妻だろう」
 私を追って寝台から降りたクレスト様は、後ろから私の肩に両手を置いた。
「妻じゃありません。まだ婚約者です」
「妻も同じだ」
 だめだ。これは平行線のパターンだ。
「婚約者でいるのは、そう長い期間ではない。それならもう、妻でいいだろう?」
 よくない!
 けど、真っ向から否定しても、たぶん何も変わらない。もうどうにでもなぁれ、と私は矛先を変えるために起爆剤を投入する。
「それなら、クレスト様とゲオルク・ラウパッハ様は、もう義兄弟ということですね」
「……ちっ、あいつか」
 いや、一応貴族の階級で見れば、向こうはずっと上ではないんデスカー? あいつとか言っちゃっていいんデスカー?
 油と知って火にくべたとはいえ、遠慮のないクレスト様の悪態にちょっと引く。
「えぇと、侯爵家の次男として、まぁ、あの方なりに考え方というのがあるのだとは思いますけれど……」
「君を侮辱してよい理由になどならない」
 ちょ、後ろからぎゅうぎゅう締めないでください! 二の腕が胸の方に寄って、襟ぐりが緩む! 自分で自分の胸の谷間が深く見えるなんて状況はイヤー!
 というか、私の肩越しに見えちゃうんじゃないですか、これ。ちょ、や、お互いに夜着しか身につけてない状況で、それってどうなの!
 あわあわとジタバタする私を難なく押さえ込んでいるクレスト様は、こちらの心中を知ってか知らずか、大きく息を吐いた。生温かい風が耳に当たって、ぞくりと鳥肌が立つ。
「もう、誰にも見せるものか」
 今日一日の頑張りを全否定する囁きに、カァッと体が熱くなる。
「……クレスト様」
 思わず低い声が出た。
「これで堂々とクレスト様の婚約者だと胸を張って隣に立てるようになったのに、そんなことを言うんですか」
「誰に見せるつもりだ?」
 クレスト様の声も、私に誘われるように低くなる。
「見せたいやつがいるのか。……それとも、末席とはいえ、貴族の仲間入りを果たして、貴族らしく愛人でも作る気なのか」
 地を這うような声に、いつまでも怯える私じゃない。
 まったく、クレスト様に憧れてこちらに嫉妬ビームを向ける令嬢は何を見ているんだか。クレスト様は、こんな人なのに。
 顔を見なくても分かる、今、私の後ろにいるクレスト様の目は据わっている。
 まったく、どうしてクレスト様はいつもいつも私の言葉を曲解するんだろう。ちゃんと隣に立ちたいって、言ったのに。ちゃんと、す、すすす、好きだって言ったのに。
 婚約のお披露目をした夜にする会話じゃないって、分かってる。分かってるけど、怒りのせいか体が熱い。なるほど、体が心に引っ張られることもあるんだね。
 うん、決めた。噴火しよう。
 自分の左手首のあたりに爪を立て、ぐっと力を込める。この日のために伸ばされ、整えられた爪は、私の肌に赤いひっかき傷を作る。痛みをほとんど感じないのは、怒りが全てに勝っているからか。
 爪で描くのは、魔力を込めた瞬間だけの身体強化の陣。ぐるりと円で囲めば、魔力はあっさり陣に吸い込まれた。
 クレスト様の腕を力付くで剥がし、一歩離れるように突き飛ばす。真っ向から睨みつけた相手の表情は、珍しく唖然としたものだった。
「どうして、私のことを信じてくれないんですか!」
 叫ぶ私を、信じられないとでも言うように見つめるエメラルドの双眸。めったにない素直な表情に、してやった感が半端ない。
「私はちゃんと、望んでここにいるんです! クレスト様の傍に居たくないんだったら、とっくに海を渡ってどこぞの国にでも逃げてます!」
 そうだ。私はもうどうしたら良いか分からずに縮こまる子供じゃない。一人で生計を立てることだってできていた。
「騎士団の方々に対する態度だってそうです! 騎士団の方は、私の知らないクレスト様を知ってるだろうし、本当はもっと色々聞いてみたかったのに! そもそも、夜会でのクレスト様は私の知ってるクレスト様じゃなくて、新鮮で、こんな顔もできるんだって思ったけど、私がクレスト様の外での顔を知らなくて、ちょっと残念に思ったりとかして!」
「……マリー?」
 困惑気味に私の方へ伸ばされた手を、ベチンと思いっきり叩き落とした。日頃なら絶対にやらない、やれないことだけど、今は何の躊躇もなかった。
「だ・い・た・い! 私のことを見る視線が気に食わないって、逆のことを私が思うって考えないんですかっ? ただでさえ整った顔をしているんですから、あんなに素敵な服を着てたら、余計に令嬢の視線を集めるじゃないですか!」
 一気にしゃべったら、喉が乾いてきた。私は再び水差しからコップに注ぐと、くいっと一気に飲み干す。
 怒りはまだ収まらないみたいで、体はどんどん熱くなっていった。
「そもそも、クレスト様は令嬢方が私に痛い視線をくれるのを、目線で牽制してたかもしれませんけどねぇ、それって、逆に令嬢方をチラチラ見てるようにだって見えるんですよぉ?」
 私をエスコートしながら、クレスト様があちらこちらを睨むようにしていたのは気づいていた。ただ、女性にもそれを向ける意味に、最初は気づかなくてちょっとだけ傷ついたのだ。
「そーゆーのをですねぇ、私が浮気だって、誤解したら、イヤでしょぉ?」
「ちょっと待て。マリー、君は―――」
「クレスト様はぁ、自分がモテてるってことを、ちゃんと自覚してください! 私だけって、言ってくれてますけどぉ、氷の貴公子サマなんて言われてる人が、もっと綺麗で身分もちょうどいい人に、グラつかないなんて保証、誰もしてくれないんですぅ!」
 あれ、ちょっと自分で言ってて、ワケ分かんなくなってきた。そもそも何を言おうとしてたんだっけ。それに、滑舌も悪くなっているような……?
「それに! 守る守るって言っておきながら、結局、例のマルグリット・ピア嬢と、直接対決する羽目になっちゃったじゃないですかぁ! 口にした約束も守れないような男はぁ、焚き付けにもならない役立たずだって、金物屋のマーゴットさんも言ってましたよぉ?」
 って、どうしてこんなに怒ってるのに、クレスト様は口元を押さえてこっちを見てるんだろう。笑ってる? 笑ってるの? 今、可愛いとかってつぶやかなかった?
 私、怒ってるんですよ!
「クレスト様はひどいれす!」
「いや、マリー。君は、その、少し酔って―――」
「許しません!」
 そうです。簡単に許したら、女が廃るって、いや、そのままズルズルとナァナァになってしまうってお隣のリリィさんも言ってた!
 ここは強気で攻めるべし!
「ぎゅーってしなきゃ、許しません!」
 ぐっと力を込めて睨みつければ、口元を押さえたままのクレスト様は、視線を逸らしてしまった。
 ……え。
 許されなくてもいいってことなの? それとも―――
 最悪の発想に、視界がじわりと滲んだ。
「……やましいこと、あるんですか、クレスト様?」
 一転、弱々しい声になってしまった私の体が、ぐい、と引かれた。気がつけば、クレスト様の腕の中。
「マリー。俺には君だけしかいない」
「……クレスト様」
 見上げた拍子にぽろりと涙がこぼれた。でも、頬を伝う滴は、寄せられたクレスト様の唇に吸われて消える。明瞭になった視界が、目の端を少し赤くしたクレスト様の真剣な表情を映し出した。
「確かに、君の言う通り、今日は君を守りきれなかった。それでも、許して、くれるだろうか」
「……はい。ちゃんと、ぎゅーってしてくれましたから」
 温かい腕の中、私は少しだけ背伸びをして、彼の頬に唇を寄せた。
 あぁ、なんだかポカポカしてる体がフワフワする。怒りが収まったからかな。フワフワだ。
「マリー?」
「……はい」
 クレスト様の唇が、私の瞼の上に落ちてきた。くすぐったい。
「妬いてくれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった」
「私、何も焼いてませんよ? 火の魔術は、制御に失敗したときの被害が怖くて、あんまり使いたくないんですぅ……」
 ふわふわ。ふわふわ。


 何か、妙な夢を見た。
 付き合いたての恋人同士がよくやる、ノロケ混じりの痴話喧嘩をクレスト様と繰り広げたような……しかも、こちらから一方的に。
(あれ、傍から見てると、やれやれって感じなんだよね)
 食堂で働いていた時に、何度かお目にかかったことがあるけど、ついつい他のお客さんと一緒に、「はいはい、どっかヨソでやってくれ」という視線を送ったものだった。
 まさか、そんなことをやりたいって願望でもあったんだろうか? いやいや、まさか、そんな。
 もしかしたら、名実ともに婚約者となれたことで、浮かれた気持ちがあったのかもしれない。そうだとしたら、ちゃんと気を引き締めないと。
 ごろん、と寝返りを打ったところで、異変に気づいた。ここ最近は冷え込むのに、今日は妙に温かい。子爵家で夜を過ごすのは久しぶりだけど、まさか、朝に誰かが暖炉に火を入れてくれたとか―――
「マリー、起きたのか?」
 思わずがばっと上半身を起こしたら、妙にだるい体が気持ち悪いと訴える。思わず口元を押さえたら、私の腰に巻き付いた腕が肩に伸び、そのまま寝台に戻された。……腕?
「顔色が良くないな。大丈夫か?」
「え、クレスト様、どう、して……?」
 仰向けになった私を、私と入れ替わるように体を起こしたクレスト様がのぞき込んでくるのが視界に入る。というか、顔が近いのやめて欲しい。寝起きにこの距離はキツい。
「水を運ばせよう。そのまま寝ていろ」
「いや、その、……えぇ?」
 なんだこれ。
 どうしてこうなった?
 夜会の後、風呂に入れられて、そこでクレスト様とは別れたはず。もちろん、部屋も別々だったはず、だよね?
 それが、どうして同衾なんて事態になってるの?
 頭がぐるぐるする。ちょっと気持ち悪い。
 毛布にくるまって胃のあたりを撫でていると、ガチャリ、と扉が開く音がした。
「マリーツィア?」
 頭を少し持ち上げれば、お盆を手にしたクレスト様がやってくるのが見える。
「果実水だ。起きられるか?」
 吐き気を誘発しないように、ゆっくりと体を起こすと、労るようにクレスト様の手が背中に添えられた。
「あの、クレスト様―――」
 聞きたいことがたくさんある。でも、どれから確認していけばいいのか、優先順位をつけるのが難しい。
 ほんのりピンクに色づいた水がグラスに注がれ、手渡される。
 促されるままに、こくり、と飲めば、爽やかな酸味のある味が口の中に広がり、冷たい喉越しにホッと吐き気も忘れる。
「あまり酒には強くないようだから、今後は気をつける必要があるな」
「……え?」
 私を見下ろすクレスト様の目が、どこか、からかいを含んでいるような気がする。からかいなんて、滅多にない感情が含まれているせいか、なんだか緊張で心臓がすぅっと冷たくなる。
「気がついていなかっただろうが、昨晩、君が威勢良く飲んでいたのはナイトキャップだぞ?」
「ないと、きゃっぷ……?」
「俺も一口含んでみたが、随分と飲みやすい口当たりだったな」
 そういえば、お風呂から上がった時に、眠れないようならお飲みください、って説明された、ような?
「おかげで、いつもより数倍可愛らしいマリーツィアを見ることができたが」
 い。
 いやぁぁぁぁぁっっ!!
 私は羞恥に堪えきれず、寝台にもぐりこんだ。
 頭からかぶった毛布越しに「俺の前以外では、もう飲むな」なんて言葉をかけられたような気がしたけど、とにかくクレスト様の顔を見たくなかった。

 その後、本気で「特定の記憶を消し去る魔術」の構成を検討したけど、残念ながら実現には至っていない。

 ←前  つづく♪


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