1.素朴な疑問からガタガタ、ゴトン 「うわっとと」 小さな悲鳴を上げて、私の向かいに座っていたおじさんが腰を浮かせて手荷物を落としてしまったのが見えた。 「大丈夫ですか?」 チリンチリンと音を立てて転がってきた丸い毬を拾って渡せば、ありがとう、とくしゃりと表情を緩ませてお礼を言われる。 普通の遣り取りなんだけど、なんだかとてもホッとした。 「お子さんへのお土産ですか?」 「そうなんだよ。久々に帰るもんだから、顔を忘れられてなきゃいいんだけど……」 照れくさそうに笑うその顔に、私もつられて微笑む。 いいなぁ、こういうの。お父さんしてるって感じで。 「アンタは旅行かい?」 「結婚前に一度、実家に帰ろうかと思いまして」 「そっちの嬢ちゃんも?」 おじさんが指差したのは、座ったまま眠っている(ように見える)『クリス』だ。たまに寝返りを打たせたり、大きく息をついたりさせているので、死んでいるようには見えていない……はず。 「あの子は親友なんです。せっかくだから、一緒に帰るって。……まぁ、馬車には酔うからって、睡眠薬飲んでさっさと寝ちゃいましたけど」 「あー、苦手な人はどうやっても苦手だからねぇ」 私たちの会話に耳をすませていたのか、若いお兄さんが「こっちの席の方が風も当たるし、交換しようか?」なんて声をかけてくれた。 「う~ん、寝ちゃってるから大丈夫だと思います。もし途中で起きて、つらそうだったらお願いしてもいいですか」 「あぁ、遠慮なく声かけていいよ」 乗り合った者同士の、何気ない遣り取り。 私は出稼ぎのおじさんと目を合わせて表情を和ませ合うと、揺れる馬車の中、ふっと視線を彷徨わせた。 ―――昨日の夜は、大丈夫だっただろうか。 私が『クリス』と一緒に王都を出たのは昨日の昼前のことだった。職場から戻って来たあの人が、ハールさんから事の顛末を聞いて、……そのまま追いかけて来たとしたら、今日中に捕まってしまうだろう。昨晩、ハールさんから緊急連絡があるんじゃないかと宿で身構えていたけれど、何もないということは大丈夫だと思いたい。緊急連絡もできないほどとんでもないことになってなければいいんだけど。 ![]() 「……で、結局のところ、クレストのどこが好きなの?」 そんな質問を『クリス』にぶつけて来たのはカルルにいさまだった。 無事にエデルねえさまの結婚式を終えて、リューゲ・ディアマントという新商品の問い合わせも好調な滑り出しを見せたということで、お義父さまから『クリス』を王都から離して構わないという許可をもらって浮かれていただけに、心の柔らかい場所を抉るような質問に、『クリス』を操る手が止まる。 「……それを知って、どうするんですか」 「んー? 純粋な疑問と、クレストのからかいのネタ、だったんだけどなぁ。ほら、マリーだけ見てるって言っても、結構ひどい目に遭ったわけだし、どこが良かったのかなっていうお兄様の純粋な疑問ってやつ」 「そう言うにいさまは、色恋の経験はあるんでしょうか。口先の戯れではなく、本気の」 わざと『クリス』に小首を傾げて無邪気な動作をさせてみると「うわぁ、痛い所突いてくるね」と受け流されてしまう。こちらとしては渾身のしっぺ返しだったのに。 「まぁ、マリーの言う口先の戯れの最中にね、ちょっと哲学的な話になったんだよ。例えば命の危険がある状態に異性と居合わせると、ドキドキを錯覚して恋に落ちやすいとか。悪人と人質なんて立場でも、長時間一緒にいることで連帯感や依存心が生まれてしまう、とか。……あぁ、相手が女性騎士だったから、こんな恋愛話と殺伐した話が混在するような話題だったんだけどさ、これってマリーとクレストにも当てはまるんじゃないのかな、って。それでもマリーがクレストを選ぶ理由があるのなら、それはどんなものかと、えぇと、哲学に基づく学術的興味ってやつだよ」 哲学に基づく学術的興味でも、口先の戯れの最中なら駆け引きの途中過程なだけじゃないかと、知ってはいたけど義兄の評価を下げた。 そういえば、雷王祭でも、不特定多数の女性とよろしくやっていたのではなかったか? この間、お茶を一緒にした――『クリス』は飲食してないけど――義父が、カルルにいさまの嫁について政略で宛がうか、本人が連れて来るのを待つかと悩んでいたことを思い出す。 どの道、義兄相手に惚気るなんて選択肢は最初からない。ないのだけど……。 「一般的には、過干渉な男親や男兄弟は嫌われるものだと思いますよ?」 そんな風にごまかして『クリス』を部屋に戻したけど、即答できなかった自分に、すごくモヤモヤしたものを感じてしまった。 疑問や課題があれば、突き詰めて考えてしまうのが魔術師の性というやつなので、やたらと私の感情の機微に敏感なクレスト様に気付かれないようにあれこれと考えていたのだけど、結局、答えは絞り出せなかった。 クレスト様の顔が整っていることは知っている。何しろ、怒りのオーラを醸し出す時の迫力が凄まじいので、せめてもう少し柔らかい顔つきなら、と思ったことは一度や二度ではない。 クレスト様が努力家だということも知っている。騎士団内での模擬試合では、五指に入る実力を保っていると、他ならぬにいさまが教えてくれた。 クレスト様が、その、私だけを見てくれていることを知っている。これはもう、例を挙げたらきりがない。その関心を他の人にも少しでいいから向けられないかと、何度思ったか分からない。 じゃぁ、結局、私はどこが好きなんだろう? 簡単な疑問なのに、いや、簡単な疑問だからこそ、答えることができない。そもそも、六つの時にお師さまに引き取られてからは二人で過ごし、十二になった頃にクレスト様に見つけられて十八の今までその執着に晒されて来た私は、恋愛経験というものが乏しい。 せめて、同じ年頃の子と、そんな話をする機会があれば良かったかもしれないけど、貴族の知り合いなんてエデルねえさまぐらいだし、今後も交友が広がるとは考えられない。主にクレスト様が私を外に出すのを好まないせいで。 「コイバナ、か」 さすがにこんな相談をアマリアさんに持ちかけるのは気が引ける。お子さん、いま何歳ぐらいだったっけ? そもそも、こんな話は、ある程度気心の知れた相手とするべきで、そんな知り合いは――― 思い浮かんだのはウォルドストウでお世話になった食堂のアンナさん、常連客の金物屋のマーゴットさん。 さらに『クリス』製作の際にお世話になったミルティルさんに、ウォルドストウでお隣に住んでいたリリィさんだった。 ―――いないこともない。 そう気付いてから、私の行動は早かった。 最初に説得したのは家令のハールさんだ。まず、あの人の協力が得られなければ無理な話だった。 もちろん、目的を素直に話すのではなく、名目は『クリス』のスペア作成。二度目に連れ戻された時に壊すことになってしまった『クリス』のスペアをもう一度作り直すために、デヴェンティオへ向かいたいということを旅の目的として説明した。 最初はハールさんも反対していた。 ただ、『クリス』という別の身体があるとは言え、ずっと邸内にこもりっぱなしの現状に、あの人も思うところはあったんだろう。いくつかの条件を付けて、最終的には折れてくれた。アマリアさんもハールさん説得に最初から助力してくれたし、フェネル料理長も賛成してくれた。意外に渋っていたのはイザベッタさんだ。でも、最終的にはハールさんと同じ条件で頷いてくれた。 ハールさんの提示した条件は三つ。事前に行程表を出すこと。毎日定時に連絡すること。王都から緊急連絡の手段を用意すること。 定時連絡の手段は、私が修行時代に作った携帯用のペンと『クリス』を操る術の複合技で何とかなった。邸に魔術を仕込んだペンと、適当な紙を設置してもらい、毎晩日誌のようにその日の状況を私が遠隔操作でペンを操って書いていく。魔力の供給源となる宝石を用意するのに少し懐が痛んだけれど、リューゲ・ディアマントの件で、お義父さまから利益を分配してもらっていたので何とかなった。 緊急連絡の仕掛けは、もっと簡単だった。以前、お師さまに婚約の挨拶をする際に使った陣を流用した。もちろん、ハールさんに魔術師の素養があるわけではないので、私の魔力を貯めた宝石を陣に触れさせることで起動するように改修したけれど。これもまた、宝石を用意するのに懐が以下略。 あと、どうでも良い話だけれど、手っ取り早く宝石に魔力を貯めるために血を使ったとき、自分のお腹にナイフを滑らせるのが怖いと感じてしまった。今まで通り、自分の腕を切りつけるのは慣れてしまっているせいか、全く恐怖を感じないのだけど、クレスト様に傷がバレないようにとお腹を選んだら、これがすごく怖かった。もう滅多なことがない限り、やりたくはない。 ![]() 「こんにちは~」 ドキドキしながら、開かれたままの入り口をくぐると、窓際にお茶を楽しむ数組の客がいるだけの店内に、既視感を覚えて眩暈を起こしそうになった。 厨房の方から顔を覗かせたのは、険しい顔つきのおばさん。 「こんな中途半端な時間だ、大したものはできないよ」 記憶と変わらない愛想の無さに、思わず目が潤みそうになる。 「ご無沙汰してます、おかみさん……」 私の言葉に、不審そうな目つきでこちらを見やったアンナさんが、見る見るその目を大きく見開いた。 「アンタ……、アムかい?」 「はい、あの時は申し訳ありませんでした……っ」 私は勢いよく頭を下げた。 だって、考えても見て欲しい。どんな理由があろうとも、住み込みで雇って欲しいとこちらからお願いした立場の人間が、突然姿を消したのだ。迷惑を掛けたに違いない。 「いいから顔を上げな。……随分と、まぁ、年相応の顔つきになったもんだね」 「おかみさん……」 「誰にだって事情はあるよ。アタシはアンタの薄暗そうな事情を予想した上で雇ったんだ。事実、アンタはよく働いてくれたしね」 どうしよう。罵られても仕方ないと思っていたのに、予想外の優しい言葉に、涙腺が緩む。 「え、アムちゃん?」 「本当に?」 窓際に座っていたのは、見覚えのある常連のお客さんだった。ちょっと、ベイカーさんだけしか名前が出て来ないのは、許して欲しい。何しろ1年も前だし。 「いきなりお綺麗な顔の騎士サマがアンタを引き取りに来たときは驚いたけど、そっちはもう大丈夫なのかい?」 「はい、色々あって、その人と……えっと、お付き合いすることになりました」 うぅ、なんだか気恥ずかしい。 けれど、私の答える様子に、何故か常連のおじさん達がそろって身悶えているのが視界の端に映った。「俺のアムちゃんが」「若さゆえのあの仕草……!」「うちのカカアに手本として見せてやりたいっ!」なんて声が聞こえるのは、たぶんスルーした方がいいんだろう。 「本当は、もっと早く連絡できたら良かったんですけど」 「いいって。アンタが元気そうならそれで問題ないさ。今日はあの騎士はいないのかい?」 「あ、はい。結婚前に一度、実家に帰ろうと思って」 「アンタを売ろうとしてた親かい?」 あ、しまった。そういえばそんな設定だった。 「……それでも、親ですから」 へらり、と笑えば、何故かおかみさんに、バシンと背中を強く叩かれた。 「何かあったらいつでもおいで。……って、アンタにはもうイイ人がいるんだったか」 「おかみさん、ありがとうございますっっ!」 堪えられずに涙をこぼした私に、おかみさんが二度三度と背中を撫でるのを、常連さんが温かい目で見ていました。 それから、食堂の外で待たせていた『クリス』を王都でできた友人だと紹介し、一緒に実家に帰るのだと話すと、おかみさんは「第三者の目があった方だいいだろうね」なんて頷いていた。今更、慌てて「親に売られそうで逃げた」設定を作ったとは言えない雰囲気に、曖昧に笑うしかできなかった。 しばらく話をして、日が暮れる前に、と食堂を背にした私は、急ぎ足で山へと向かう。 今日の宿はお師さまの庵だ。遅くなってしまうと、お邸への定時連絡も遅れてしまうので、それだけは避けないと。 それに…… (薬師見習いの子にも早く会いたいし) アイクの知り合いだというその子は、既にお師さまのもとで薬の勉強に励んでいる。デヴェンティオの薬屋を任せる子だから、不安もあれば期待もある。いったいどんな子だろう。いい子だといいな。接客のこともあるから、快活な子だともっといい。 そんなことを考えながらサクサクと足を進めていたら、いつの間にか庵の前に到着してしまっていたらしい。いや、途中からは疲れてしまって、足を進めたのは私を抱き上げた『クリス』だけ、という状況になってしまったんだけど。……日々、邸にこもりっぱなしで運動不足をまた自覚してしまった。 コンコン 「あ、来たんじゃないかな」 「ボクが出るよ。だってボクの恩人だし!」 庵から楽しそうな声が聞こえたと思ったら、勢いよく扉が開いた。 「初めまして、マリーさん! ボクがレックスだよ」 「こら、レックス。最初ぐらい取り繕え!」 最初に飛び込んで来たのは、きれいな赤毛だった。 「って、アレレ? どっちがマリーさん?」 「師匠と同じ黒髪だって言ったろ! あ、すみません、マリーさん。ちょっと暴走気味なところはあるけど、悪いやつじゃないんです」 アイクと同じ年頃なんだろうけど、レックスと名乗ったその子はくりくりと好奇心に満ちたハシバミ色の目で私を見上げていた。 「初めまして、レックス。私がマリーよ。こっちが『クリス』。後で説明するけれど、あなたにはこの『クリス』と一緒に生活してもらうことになるわ。よろしくね」 まだお師さまから『クリス』のことを聞いていないのだろう。首を傾げたレックスは、『クリス』の差し出した手を握って「うわ冷たっ」と小さく悲鳴を上げた。 「マリーさん、師匠も待っているし、どうぞ中へ。……レックス、せめて髪の毛どうにかしろって」 アイクが手にした髪紐でアレクの赤毛を器用に束ねていった。まるで世話焼きのお兄ちゃんみたいな様子に、私は思わずくすくすと笑いをこぼした。 「ただいまです。お師さま」 「お帰り、マリー」 両手を広げて迎えてくれたお師さまに、私はその胸に飛び込んだ。この年になって甘えてはいけないと思いながら、それでも最後に顔を合わせた夜会では、知らぬふりをしなきゃいけない反動もあったかもしれない。 「元気そうで何よりだよ」 「はい、お師さまもお元気そうです」 見上げたお師さまの黒い瞳が、柔らかく細められる。 「あれ、ねぇ、アイク。マリーさんとお師匠さんと、そーゆー関係?」 「こら、レックス! 違うって、あれは親子の抱擁だから」 聞こえて来た二人の会話に、私とお師さまは、つい目を合わせて吹き出してしまった。 | |
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