TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 1.刺繍をあの人に/贈り物の保管方法


※マリーの二度目の逃亡前のお話です。

 夕闇の迫る中、主が帰宅した邸は夕食の支度やらでさわさわと忙しない雰囲気をまとっていた。

 この時間は、あまり使用人の目が行き届いていないことを知っているマリーツィアは、それでもそぉっと自室と廊下を結ぶ扉を開いた。
 きょろり、きょろり、と左右を見渡して、足音を極力殺して廊下に出る。

(あまり、人に見られたくないものだし、ね)

 こっそりと向かうのは、邸に戻ったばかりの主、クレストの部屋だ。経験上、夕食の準備が整ったと呼びに来るのには、まだ時間があると知っていた。

 マリーツィアは、いつもクレストに会うときは緊張する。
 彼女の知る誰よりも表情の動かない彼は、何よりその思考回路が難解だった。だからこそ、目尻や口元、視線をよく観察して、少しでも感情を掬い取ろうと気を張って接するし、何か失態をしても逃げられるよう身構えている。まぁ、身構えたところで、騎士としての鍛錬を積んでいる彼にかなう道理はないけれど。

 ドアの前までやって来たマリーツィアは、ふぅ、と小さく息を吐き、次いで二度、三度と深呼吸を繰り返した後で、軽く握った拳を持ち上げた。

コン、コン

「マリーか?」

 姿も見られていないし、声も聞かれていないはずなのに、いきなり名を当ててくるクレストを、怖いと脅えても仕方がないはずだ、とマリーツィアは自分自身を慰めた。

「……はい。あの、今、少しだけ、いいですか?」

 相手の癇にさわらないように言葉を選んだマリーツィアのセリフが終わらないうちに、ドアがガチャリと開いた。
 そこに立っていたのは、騎士団の制服からラフな室内着に着替えたクレストだ。濃緑のシャツの襟元を締める紐がほどけかけ、その美貌と相まって濃密な色気を感じさせる。
 もしかしたら、まだ着替えの最中だったのかもしれない、とマリーツィアはヒヤリと背筋に寒いものが走るのを感じた。

「どうした?」
「あ、あの、これを、渡したくて」

 マリーツィアが部屋から持ち出した白いチーフを差し出し、恐る恐る見上げると、クレストは受け取ったそれを無造作に広げた。隅に落ち着いた赤の糸で彼のイニシャルが刺されている他、手斧と海馬を模した紋章が象られている。海辺に領地を持つアルージェ伯の紋章だ。

「……その、せっかく良くしていただいているのに、何もお返しできていないのが心苦しかったので。―――拙い出来とは分かっていますけど」
「そんなことはない。とても丁寧によく刺し込んである」

 クレストの口元が少しだけ緩んでいるのを敏感に見て取って、マリーツィアはホッと胸を撫で下ろした。

「それでは、また夕食のときに」

 ぺこり、と頭を下げて、今度は足音を殺すことなくパタパタと自室へ駆け戻る彼女の背中を、クレストはじっと見つめていた。
 マリーツィアの姿が視界から完全に消えてから、ようやくクレストはゆっくりとドアを閉めた。

 部屋に戻ったクレストは、手の中にある丁寧に畳んだチーフを見下ろした。
 彼の心を占めるのは、照れるでもなく見惚れるでもなく、自分をじっと見つめて来た、神秘的な紫の瞳の少女。

 自分にあれこれと近づいてくる異性は、この美貌に釣られてやってくる者ばかりだった。その中で、あの少女だけは、違う視線を向けて来る。
 ひたむきに真っ直ぐな、クレスト自身でさえ気付かない感情さえ暴き立てるような視線。

 もちろん、それは警戒心によるものだったが、クレストは彼女の眼差しを好意的に思いこそすれ、不快には感じていなかった。

(今度はどんなフレームにしようか)

 マリーツィアから贈られた刺繍は二枚目。記念すべき最初の贈り物は、手紙とともに額に入れて保管してある。
 愛しい少女からの大事な贈り物を、常に持ち歩きたいと願う気持ちは確かにある。だが、それ以上に、その大事な物を損ないたくないという気持ちが大きかった。

 クレストは、マリーが自分の部屋を出た時から、その気配を察知していた。他ならぬ彼女を守るために、優秀な騎士たれと自らに課した鍛錬は、確実に彼の身についていた。
 控えめな足音。部屋の前で逡巡する気配に、思わずドア越しに熱い視線を送ってしまった。
 クレストの、愛しい愛しい、唯一の、祈り。

 せっかくの贈り物を汚してしまうかもしれないと思いつつ、彼は手元のチーフにそっと唇を寄せた。

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