TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 13.それは、たなぼただったのです。


 さて、まだ段ボールは片付いていませんが、それより先にやってしまいたいことがあるのです。
 私は衣類の整理を後回しにして、教科書などを収めた段ボールを開封しました。

 夏休みの宿題です!!

 今までどおり夕方五時から相手をするからと、佐多くんを部屋の外に追い出して、私はパステルグリーンの楕円形の座卓に問題集とノートを広げました。
 チェックの座布団にぽすっと腰を落とします。うう、快適です。座卓の下に敷かれたラグといい、この座布団といい、慣れてしまうと折りたたみ机+畳に座るという前の生活にきちんと戻れるか心配です。これも策略なのでしょうか。

 いやいや、余計なことを考えるのはやめましょう。とりあえず物理の宿題の話です!
 えーと、図のように水平な床上の点Oから前方にある鉛直な壁に向けて、質量mの小球を初速v0、水平面に対する角度αで投げ出した、と。小球は壁に垂直に衝突した後、反発係数e(0<e<1)で跳ね返されて床に落下した。投げ出した瞬間の時刻をt=0、重力加速度の大きさをgとして以下の問いに答えよ。ただし、投げ出した点Oを原点とし、座標軸x-yを図のようにとるものとする、ですか。

 ふー……。
 物理は相変わらずもったいぶった言い回しで、問題文を読むだけで疲れますね。要はボールを壁にぶつけたら跳ね返って地面に落ちたというだけの話じゃないですか。
 というか、これ、私の記憶が確かならベクトルが云々という話でしたよね。物理の先生が「まだ数Bはベクトル終わってないのか!」ってキレ気味に授業をしていたので憶えています。教師間の連携をきちっと通して欲しいと思うのですよ。仲が悪いのでしょうか。同じ理系の先生なのに。

「何やってんだ?」
「あ、はい。物理の宿題で……すぅ?」

 ちょ、いつの間にか羅刹がすぐ隣に座ってます!
 は、乙女の部屋にノックもなしに入るとか有り得ませんから!

「な、何いきなり入って来ているのですか! プライバシーの侵害はいけないことです!」
「ノックした。返事はなかった」

 いや、それ、入って良い流れではないですよね?
 というかノックの音にも気付かないほどに、私ってば考え込んでました?

「唸ってるから何かと思えば、簡単じゃねーか」

 羅刹がそんなことをのたまいました。
 そういえば、この羅刹。学年で十番以内にいませんでしたっけ?

「と、解けるのですか?」
「? あぁ」

 そ、そんな当たり前だろ、みたいな顔で睨まないでください。私にとっては当たり前ではないのです。

「じゃ、じゃぁ、この(1)の小球が壁に衝突する時刻t1を求めよって―――」
「あぁ? 衝突時の速度のy成分が0なんだから、初速v0と重力加速度gを使って表した方程式を、t1について解けばいいんだろ?」

 ほ、ほわぁ……!
 本当に、頭が良かったのですねっ?

「えと、0=v0×sinα-g×t1という式ですよね? これをt1について解くということは、……と、t1=v0×sinα/g! で、できました! すごいです、佐多くん!」

 思わずすぐ隣の羅刹を尊敬の眼差しで見つめてしまいました。

「そ、それじゃ、次の原点から壁までの水平距離lをv0、α、gで表せというのは……」

 私の言葉に素直に応じてくれた佐多くんは、すらすらと解答へ至る道筋を教えてくれます。答えを教えてくれるだけではなくて、答えに向かうためにどう考えれば良いのか、ちゃんと話してくれるので、ちょっと努力の必要な私の脳みそもきちんと理解できました!

「うわ、すごいです! 昨日と今日で何とか終わらせないと、って思っていた範囲が、あっと言う間に終わってしまいました!」

 すばらしいです!
 後半になると、佐多くんも慣れて来たのか、私に解答へのヒントだけをくれるようになったので、ちゃんと自力で解けた満足感もあります。
 夏休みの宿題の救世主がこんな所に居ようとは思いませんでしたっ!

「なんだ、こんなことでいいのか」

 ぼそり、と低い呟きが聞こえました。
 物理のノートと問題集を仕舞おうとしていた私は、くるりと佐多くんを見返します。

「何が、ですか?」
「怒ってばかりだろ。服買ってもアンタ笑わねぇし、菓子やるしかないのかと思ってた」

 こ、これは、やたらと多い力尽くとか無理強いとかを諌めるチャンスなのではないでしょうか!
 私はぎゅっと拳を握ります。

「そりゃ、望んでもないものをいきなり押し付けられたらビックリしますし、都合に合わなければ迷惑だと思いますよ」

 ちゃんと私の意見を伝えたいので、睨み返されても恐怖を振り切ってじっと瞳を見つめます。

「困っているところに助けてくれたら嬉しいですし、いらないものを突然、贈られたら困ります。いきなり行動に制限をつけられたら怒りますし、加減無く抱きしめられたら叱ります。あと、美味しいものは正義です!」

 あ、煩悩がちょっと洩れてしまいました。

「だから、無理に何かをしようだなんて、思わなくても良いと思うのですよ」

 あ、瞳から少しだけ険がとれた気がします。分かってくれたのでしょうか。

「すみません、五時を過ぎてしまいましたね。すぐにお茶をいれまわぷっ!」

 ちょ、いきなり抱きつかないでください!
 あー、でも、力の加減はできてますね。えらいです。
 私はそっと自分の手を背中に回して、宥めるようにぽんぽんと軽く叩きました。

「……いい」
「はい?」
「アンタを傍においておきたい」

 おかしいですね。不穏な言葉がありましたよ?
 どうにもこうにもツボが謎ですが、懐かれてしまったことは否定できません。
 まぁ、イヤなことを無理強いされなければ、とりあえずはよしとしましょうか。


 なんだか、重いのです。
 あと、ちょっと胸元がすーすーします。
 んむぅ?

「……起きたか」

 寝起きには聞きたくない低音ボイスが聞こえました。
 あぁ、そういえば、佐多くんちに住み込むことになってしまったのでしたね。
 重たい瞼を持ち上げれば、心臓に悪い凶悪な顔が私を見下ろしているのが視界に入りました。それでも、少しは慣れてしまったのか、私の心臓が止まることはありません。

「えぇと、今、何時ですか……?」

 目元をこしこしと擦りながら尋ねますが、何故か佐多くんは答えてくれません。いつもとちょっと違う目つきで、私を無言のまま睨み付けるだけです。
 もしかして、猛烈に寝過ごしてしまったのかと首を動かして時計を探し―――

「!?」

 一気に覚醒しました。
 私、佐多くんの部屋のベッドで、仰向けに寝転んでいます。そして、何故か、何故かですよ? パジャマのボタンが全部外れています。
 極めつけは、私に覆い被さるようにして見下ろす佐多くんです。
 これは、もしかしなくとも貞操の危機ってやつですか?

「……佐多くん。現状の説明をしてもらえませんか?」

 私が疑惑の眼差しを向けたことに、ちゃんと気がついたのでしょう。見下ろす眼光が、戸惑うように揺れました。

「あと、起き上がりたいので、そこをどいてください」

 私の声のトーンが、いつもより一段低くなっていることに気付いたのでしょう。渋々と佐多くんが上からどいてくれました。
 反動をつけて上半身を起こした私は、黙々とボタンを付けていきます。

「それで、何が、どうして、こういう状況になったのですか?」
「―――アンタが悪い」
「はい?」

 そこから先は、きまり悪そうにボソボソと経緯を話してくれました。
 夕食後、部屋に戻った私はゾンダーリングの次回キャストの役作りをしなければ、と設定資料を読み込んでいました。ですが、今日の疲れが出たのでしょう。どうやら眠ってしまっていたらしいです。
 用があって声を掛けて来た佐多くんは、私がテーブルに突っ伏して寝ていることに気付いて、ベッドに運んでくれようとしたらしいです。
 でも、次回キャストの設定資料が目に入ってしまったのですね。姉の彼氏に横恋慕するワガママ妹というのが私の次回の役です。設定資料にも、貧乳姉と巨乳妹の確執が云々と書いてありますしね。
 つい気になってしまった佐多くんは、初回の寸劇の台本までチェックしてしまったらしいのです。そこには、姉の彼氏に向かって熱烈な愛の告白をする妹のセリフがありました。

 どうも、そのあたりでプッツン切れたらしいです。
 ついでに言うと、私もそろそろプッツン切れたいです。

「だから、どろどろになるまで甘やかして、体で繋いで、オレ以外見えなくすりゃいいだろ」

 このセリフ、意味わかんないです!
 少なくとも、健全な男子高校生から出るような言葉じゃありません!

 とりあえず、ベッドの上に正座させて、十分ぐらいこんこんと説教しました。
 どうして同じ年の男子に「人の嫌がることはしちゃいけません」的な説教をしなければならないのでしょうか。何だか情けなくなってきます。

「佐多くんだって、意思を無視して無理やり変なことをされたら、すごくイヤでしょう? そういうことをする人を、嫌いになるでしょう? そういうことなのですよ!」

 ベッドに仁王立ちして、佐多くんを見下ろします。佐多くんは既に、耳を垂れてワンコモードになってしまっています。罪悪感が湧く光景ですが、ここで手を緩めてはいけないのです。
 それにしても、哀しいです。
 宿題を見てくれた時に、ちょっとはこちらの心情も通じたのかな、と思ったのですよ。ここに来てから、ずっと力尽くと無理強いはいけないと何度も諭して来ましたしね。ようやく理解してくれたのかとホッとしたのですが、……結果、これです。
 私、お説教がへたくそなのでしょうか。

 そんなことを考えていたら、ポロリ、と涙がこぼれてしまいました。

「っ、ミオ」
「別に佐多くんが怖くて泣いているのではありませんからね! 何回、同じようなことを説明したら、ちゃんと理解してくれるのか、そう考えたら、情けなく、なってきた、だけですからっ」

 一度、流れてしまえば、涙がボロボロと落ちて来てしまいました。止まりません。どうしましょう。
 でも、本当に情けなくなってしまったのです。
 もしかしたら、起きた時の恐怖もぶり返して来たのかもしれません。目を覚ますのがもう少し遅かったら、と思うと、ぞっとします。

「っ、ふっ、佐多くんは、頭は良いのに、どうして、こういうことを、理解してくれない、のですか」
「―――ミオ」
「触らないでください!」

 私の頭に伸ばされた手を、慌てて振り払いました。
 もう、なんだかめちゃくちゃです。せっかくいい感じにお説教をしてたのに、これじゃ台無しです。

「一晩、頭、冷やしてください!」

 私は、ベッドから飛び降りると、一目散に佐多くんの部屋から逃げ出しました。そのまま自分の部屋へ戻ると、鍵をしっかりと掛けます。
 初日から何をやっているのでしょう。
 いや、初日だからこそ、なのでしょうか。
 とりあえず、何もかも放り出して寝てしまいましょう。もう疲れました。
 慣れないベッドにうつ伏せに寝転がり、羊さんをかぞえます。柵を飛び越える羊さんです。私も、逃げられたらいいのに……。

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