TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 40.それは、すれ違いだったのです。


「うー……、にゃぁぁぁっ!」

 ぼふん、と音を立ててクッションがバウンドしました。

「ほー……、わたぁぁぁぁっ!」

 ばすん、ぼすばす、拳の埋もれたクッションが形を変えて埃が舞います。

 え、何をしているのか、ですか?
 もちろん、八つ当たりです。英文法の予習なんてやってられる精神状態ではありません。

 だって、本当に怖かったのですよ!
 孤立無援な状況で、ただひたすらに言質を取られないことだけを考えて言葉と表情に気をつけて!
 関係代名詞の予習なんてしていられるわけがないじゃないですか!

 きっと、成人してたらお酒に逃げる場面なのでしょうけど、残念ながら、ミオさんは未成年なのです。ヤケ食いするのも色々勿体ないですし、クッションに当たり散らすぐらい許されてもいいと思うのです。
 そんなことを考えながら、ベッドの上のクッションを拾います。

「ふぉー……、あちょぉぉぉー……?」

 あれ、どうして投げ飛ばそうとしたクッションが、大きく振りかぶった状態から動かないのでしょう。
 えい、えいえいえいっと勢いをつけてみても、クッションが空間に固定されてしまったように動きません。

「何やってんだ、アンタ」

 ぎぎ、と軋むブリキの人形のように上を見上げれば、クッションを片手で掴んでいる羅刹と目が合いました。
 片手で私の両手の動きを封じるとか、呆れたような目で見られているとか、色々とツッコみたいことはあるのですが、

「えぇと、佐多くん?」
「……んだよ」
「どうして、私の部屋にいるのですか?」
「ノックしても返事はねぇし、妙な奇声が聞こえるから様子見に来た」
「……ノック、したんですか」
「何度もしたぞ」
「いつから、見て、ました?」
「アンタがクッション投げつけるのは2回見たな」
「ひょぉぉぉぉぉっ!?」

 私は佐多くんが掴んでいるクッションから手を離し、慌ててベッドの方に逃げました。そのままタオルケットを頭から引っ被ります。

「なんで隠れんだよ。っつーか、それで隠れたつもりかよ」
「はははは恥ずかし過ぎです……。もう、穴掘って埋まりたいのです……」

 ああいうことは、誰も見ていないから思い切りできるのであって、それが見られていたってことは、えぇと、もう、本当に、にゃぁぁぁぁぁっ!

「とりあえず出て来いよ、そこの小動物。……メシは先に食ったのか?」

 その言葉に、私はがばっと跳ね起きました。
 私には仕事があるのです。仕事を放って部屋にこもるなんて論!外!ですよ。

「すみません、佐多くん。すぐ用意しますね。十分、十分だけ待って欲しいのです」

 まだ赤みの残る頬をパタパタと手で仰ぎながら、私は佐多くんの腰あたりをぐいぐいと押して部屋から追い出しました。
 突然、普通を装って戻った私に、佐多くんは「じゃ、シャワー浴びてくるわ」と大人しく出て行ってくれました。

 私はいつも通り仕出しのお弁当を温め、作ってあったすまし汁を火にかけます。
 風呂場から戻って来た佐多くんがポタポタと髪から雫と落としているところにタオルを持って拭ってあげるまでは、狼のお世話のお仕事です。……何度言ってもちゃんと拭いてくれないのですよ。

 今日は茸の炊き込みご飯に、白身魚の西京漬け、ほうれん草の白和えなんかが並ぶお弁当です。
 白和え、いいですよね。自分では作ろうとは思いませんが、こうやって作られたものを食べるのは大好きです。豆乳という液体から豆腐として固められたものをまた崩すという調理法が好きではないのですが、食べるのは良いのです。おいしいですし。

「アンタ、いつもうまそうに食うよな」
「そうですか? でも実際に美味しいですよ?」
「普通じゃねぇの」

 この美味しさを普通と言う佐多くんの舌が奢り過ぎているのですよ、と指摘しても虚しいだけです。最近、気がついたのですが、どうやら佐多くんは、口に入れられればいいと考えているようで、この美味しい弁当も「普通」、先日作ったクッキーも「普通」、引越しの際に摘まんでいたゴーヤのおかか和えも「普通」とのたまうのです。
 う~ん、この調子では、先日お目見えの新メニュー「名状しがたいコーヒーのようなもの」も「普通」と評しかねません。あれは本当に珍妙な味ですのに。

「―――で?」

 佐多くんが、いきなり私に話を振って来たのは食後のことでした。
 いつも通り、食後に麦茶を飲んでまったりとしていた私を、膝の間に抱え込んでからの、突然の「で?」です。読む文脈も語感もありません。

「佐多くん、それはどういった『で』なのですか?」
「あぁ、めずらしく物に当たってたから」

 ぐ、と喉の奥で変な音を立ててしまいました。忘れた頃に厳しく追及しないでいただきたいのです。

「えぇと、大したことはないのですよ?」
「それはオレが判断する。アンタの『大したことはない』は信用できねぇからな」

 うぅ、何だか色々見抜かれていそうな気がして怖いのです。やはり、あんな人を父親に持つと違うものなのでしょうか。

「……えぇと、笑わないでくださいね?」
「さぁな」
「うぅ、その、ちょっと明日の予習が上手く進まなかったので、癇癪を起こしていただけなのです……」

 全くの嘘ではないのです。予習に取り組もうとする度に、今日顔を合わせたお父さんの声とか姿とかが脳裏をよぎって、集中できませんでしたから。

「どこ」
「え?」
「どこで詰まったんだ?」
「あ、いや、大丈夫なのです。確かに関係代名詞のwhomとかin whichとかが頭の中でラインダンスしてたりしますけど、集中が続かなかっただけなので―――」
「教えてやるっつってんだよ」
「あ、それは助かるのですけど、でも佐多くんだって疲れてますよね、わひゃぁ!」

 結局、押し切られて姫だっこのまま巨神兵、じゃなかった佐多くんに部屋へと侵入された挙句、そのまま英語を教えてもらうことになってしまいました。―――あ、とても分かりやすかったです。


「ねぇ、オウラン」
「はい、モエカ様?」

 バイト明け、更衣室で着替えをしていたシャオリン姉様の友人役(元・メルディリア姫様)が声を掛けて来てくれました。

「その、ちょっと聞いてみてもいいかしら?」

 いつもはどっしりとして姉御肌な人なのですが、今日はどうにも歯切れが悪いです。別に仕事中に何かあったというわけでもないですが、どうしたのでしょう?

「最近、その、バイトを上がる時に変な視線……感じない?」
「……っ! まさか、ストーカーですか?」
「その、気のせいかもしれないんだけど、オウランはどうかしら、と思って」

 言われて、ここ最近のバイト上がりを思い出します。ですが、元々、蛇の気配以外は鈍い私ですので、残念ながら視線を感じた覚えはありません。……蛇は別格です。あのねっとりじっとり絡みつくような気配は、例え実際に張り込みをしているのが部下の方でも分かってしまうのです。むしろわざと気配を残しているのですかね、あの人達は。

「すみません、私は、どうもそういうのに鈍いみたいで……」
「そう、なの」
「あ、でも、ちゃんと店長さんにお話した方がいいですよ。気のせいなら笑い話で済みますけど、そうでなかったら大変ですから」
「……そう、ね。ちょっと神殿に行って来るわ」

 うぅ、心配なのです。元・メルディリア姫様を演っていただけあって、あの人は見目が良いのです。ストーカーしたくなる気持ちも分かるってものです。
 それでも許すまじ、ストーカー!

 通勤用の格好に化け終わり、空中に向かって拳を突き上げていたら、鞄の中のスマホがブイーブイーと震えました。店長さんです。相談を受けてすぐにバイトさんに一斉メールを送ったんですね。こういう迅速な行動をしてくれるから、こちらも安心して働けるのです。……まぁ、徳益さんに見つかったのは例外とカウントしましょう。
 メールの内容は、ストーカーの発生した怖れがあること、気付いたことがあれば店長まで連絡すること、退勤時に気をつけること、そして、心配があれば表階段から帰っても良いことが書かれてありました。
 普段は裏の外階段を使って出勤退勤する私たちですが、緊急事態に限り、表通り側の階段を使ってもよいことになっています。他のテナントさんに迷惑がかかる位置なので、普段は認められていないのですけど、何かあるたびに他テナントに店長から話がいっているみたいです。

「う~ん、どっちにしましょう」

 鞄を肩にかけ、ちょっとだけ考えます。表から帰るか、裏から帰るか。
 表階段は、隣のテナントさんの目の前を通らないといけないので、あまり好きではないのですよね。今のところ、私に被害があるわけでもありませんし、まぁ、いつも通りでいいでしょうか。
 それに全員が表階段を通ることになったら、ストーカーさんもバレたって警戒してしまうでしょうし、私みたいなのはストーカーさんの対象外っていうのは明白ですからね。私にちょっかい出すのは、お母さんをどうにかしたい蛇男か、息子をどうにかしたい蛇男の二択しかないのですよ。
 ……どっちも蛇とか、本当に泣きそうです。

 そんなことを考えていたら、階段を降りきっていました。
 さてさて、ストーカーさんはどこにいるのでしょう? そんな気持ちでこそこそっと外へ続くドアを押せば―――

「来たか。帰るぞ」

 バイクに跨った羅刹が待ち構えていました。

「な、んで……」
「早く乗れ」

 ばるるるる…と掛かったままのエンジン音に「近所迷惑!」「非経済的!」とどちらを叫ぼうかと迷ったまま、私は大人しく手渡されたヘルメットを被り、後ろへと跨りました。
 まさか、ストーカーって佐多くんのことですか? なんて疑問も一瞬だけ浮かびましたが、こんな堂々とした人をストーカーとは呼ばないと思います。たぶん。

 時間帯もあって、空いていた道路をバイクはすんなりと進み、あっという間にマンションへと到着しました。一度、法定速度を守っているのか確認したいところなのですが、後ろに座っている私からは、スピードメーターが確認できないのが歯痒いところです。
 念のため、本人に確認しようかとヘルメットを返しがてら佐多くんを見上げて……私は凍りつきました。フルフェイスタイプのヘルメットを被っていたおかげで、さっきは気付かずに済んだのですが、佐多くんが何やらとんでもない冷気を纏っています。今なら、人を一人二人ころs……いや、さすがにないですよね。

「えぇと、迎えに来てくださって、ありがとうございました」

 当たり障りのないよう、気付いていない振りでお礼を告げると「あぁ」とも「おう」ともつかない声が返って来ました。
 何かあったのでしょうか。機嫌が地を這うどころか海溝に潜るレベルです。マリアナ海溝ほどではないけれど、東メラネシア海溝ぐらいでしょうか。

 無言でエレベーターに向かう佐多くんが、何故か私の手首を掴んで離しません。力づくで引っ張られると痛いので、できるだけ佐多くんに合わせて小走りになります。

ポーン

 エレベーターの中でも無言。そしてエレベーターを降りても無言。これだけ不機嫌なのは、またお父さん絡みのことでしょうか。話を聞いた限りでも嬉々としてしごいている様子だったので、もしかしたら今日もそんな感じだったのかもしれません。

―――という私の予想は、あっさり裏切られました。

「昨日のこと、何で言わなかった」

 ウィッグを外し、通勤用のメイクを落としてさっぱりしたところに投げつけられた言葉がこれです。
 昨日のこと? もちろん、佐多くんのお父さんに呼び出されてしまったことですよね。お父さんと徳益さんのすることですから、きっちり佐多くんから隠し通してくれるものだと思い込んでいたのですが、洩れてます。
 どうも最近、こういう思い込みが外れることが多いのです。何事も疑ってかかれという神様のお達しなのでしょうか。

「ミオ」

 答えに窮してもじもじとしていたら、私の持っていた化粧ポーチがひょい、と取り上げられました。ぽい、っとリビングの方に投げられるとラグで弾んだのが見えました。中身、割れていないと良いのですけど。
 なんて、現実逃避をしていたせいでしょうか、ぐいっと腕を掴まれた私は、リビングの壁に背中を押し付けられてしまいました。佐多くんの手が、私の背の壁を押すように……って、これが噂の壁ドンですか! 閉じ込められた感がハンパないです。ついでに目の前にはとても怖いオーラを纏う羅刹が立っているので、人生終わった感もハンパないです……うぅ。

 ま、負けませんよ!
 ここで佐多くんのお父さんに呼び出されたなんて知られたら、きっと佐多くんは傷つきます。自分のせいで巻き込んだ、なんて言うに決まってます。いつか同じようなことを言われたじゃないですか。
 ドゥームさんの家に行く時に付き合せてしまいましたし、今度は私の番だと思うのです!
 というわけで、「秘儀・シラを切る」で行きますよー。

「な、何を証拠にそんなことを言うのですか……?」

 うぅ、目が泳いでしまいそうです。だって目の前の羅刹の顔が怖いのですよ。でも、嘘をつく時には、できるだけ相手の表情を伺いたいのです。

「入館記録にアンタの名前があった」
「ど、同性同名ではないのですか……?」
「打ち合わせ相手がハヤトでも、か?」

 うぅ、裏をしっかり取られてます。
 というか、入館記録って、そうそう見られるものなのですか? 偉い人しか見れないものではないのですか?

「昨日、アンタの様子がおかしかったのもコレだろ」

 そうでした。昨日の醜態を見せてしまっているのでした。だからと言って、バレるのが早いと思うのです。

「あのオッサンと会ったんだな? 何言われた?」

 文化祭の話と、母親の再婚と、何故か一緒に住まないかと誘われました。
 正直に答えると、烈火のごとく怒り狂う羅刹が降臨してしまいそうです。ハヤトさんもいないし、誰がそれを宥めるのですか? 私には重荷です。

「さ、佐多くんには、関係なっ……くもないです、はい」

 関係ないと言おうとした口が、鋭い眼光にやられて白状してしまいました。うぅ、恐怖に弱い自分の口が情けないのです。

「どうして、すぐに言わねぇんだ」
「……だって、私ばっかり佐多くんに迷惑かけてるじゃないですか」
「あぁ?」

 うぅ、見下ろしてくる佐多くんの表情も、声音も怖すぎるのです。蛇とは別の意味で震えてしまいそうです。

「……お互い厄介な人に目を付けられて、迷惑を掛けてしまうのはお互い様だと思いたいのですけど、何度も私の都合に巻き込んで申し訳ないと思っていたのです!」
「アンタが一人でオッサンと渡り合えるワケねぇだろうが! なにを意地張ってやがんだ!」
「ちゅんと何事もなく戻って来たではないですか!」
「運が良かっただけだろうが! あのオッサンが何の利もなく返すわけがないだろっ!」

 ガン、と私の隣の壁が殴られました。これ、壁ドンの進化系だったりしますか? 壁ドン<壁ガン<壁メリ、とか。

「ミオ、次からは何かあったらすぐ連絡しろ」
「で、でも、仕事中じゃ……」
「連絡しろ」
「仕事中に迷惑はかけられません!」

 だって、考えてもみて欲しいのです。私だってバイト中に「お宅のお父さんにいじめられているので、仕事を抜けて助けに来て欲しい」なんて電話をされても困るのです。だいたい、今後も佐多くんのお父さんとは対決することがあるのは明白なのですから、今から慣れておかなくてどうするというのですか。

「……勝手にしろ」

 佐多くんは、再び私の隣の壁をガスンと殴りつけて自分の部屋にこもってしまいました。
 その場で、へなへなと崩れ落ちてしまった私だけが、リビングに残されてしまったのです。

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