46.それは、地獄巡りだったのです。どうしましょう、緊張と頭の使い過ぎでしょうか、めまいがしてきそうです。 目の前には、心底面白そうに顔を歪めるシロクマがいます。笑うというより牙を剥く感じがして怖いのです。 操がピンチな状況に変わりはありませんが、何とか綱渡りで時間稼ぎができていました。私たちを取り囲んでいるシロクマのお仲間さんたちは、ちょっと不満顔なのですけれど。 「面白ぇな、オンナァ!」 「……褒めていただいても、何も出ないのですよ」 このシロクマ、どうも例のドラゴンの映画が大好きなようで、さっきからお互いにその話題で盛り上がっています。……訂正します、盛り上がっているのはシロクマだけで、私は必死です。 ちなみに、おばあちゃんが好きだったのですよ。この主演俳優を。私も付き合って何回もビデオを見ました。作中の有名なセリフ「ドントシンク、フィ-ル」を呟きながら台所に立っていたおばあちゃんを思い出します。もちろん、全力で止めました。 「やっぱ死因は暗殺なんかなァ?」 「息子さんも、その可能性があると言いますしね」 「空砲を撃つはずだったのに実弾がってアレか。まァ、フツーに考えりゃ、ねェ話だわなァ?」 映画の見所に始まり、主演俳優の作った格闘技の流派のことから、作中で着ているスーツが日本人デザイナーの手によるものだったとか、こちらもそろそろ記憶力の限界です。 あぁ、でも、おばあちゃん。おばあちゃんのおかげで、私の貞操はまだなんとか無事ですよ……。 「え、えぇと、作中で、今や大スターとなってるアクションの達人もやられ役で出てましたよね」 いけない、話題を切らすとあちらが本来の流れを思い出しそうで怖いのです。 今の私にできることは、できるだけこの会話を楽しそうに続けること、これだけなのです。 「あァ、最近じゃコミカルな役どころが多いけど、アイツもモノホンだよなァ」 「あの人も、首を折られたり、ヌンチャクで顔面強打された挙句にプールに落とされるなんてことをした時期があったのだと思うと、なんだか親近感が湧きますよね」 「アァ?」 しまった、親近感が、って言ってしまっては、あまりにおこがまし過ぎたのでしょうか。目が怖いです。肉食獣です。 「スゲェな、オンナでここまで熱く語れるヤツぁいねぇぜ」 「は、はぁ……」 え、今の「アァ?」は褒めてくれたのですか? あの、さっぱり分からないのですけど。どう考えてもメンチ切られたのですけど。 うぅ、拉致された私が言えることではないのですが、まだなのですか、トキくーん! 「なァ、羅刹なんかやめてオレのオンナになれよォ」 「……えと、遠慮させてください」 「アァ? オレが羅刹より劣るってェのかゴルァ! ジョートーだ、テメェ引ン剥いて……」 えぇぇぇぇっ! ちょ、ヤル気スイッチ入るの早いのです! というか、あの質問は何が正解だったのですか! 誰か教えてください! 「逃げてんじゃねェぞ、ゴルァ!」 いやいやいや、逃げます。シロクマに遭遇したら誰だって逃げますから。 ここは、もう、武器の出番なのかもしれないのです。エプロンのポケットに入っているので、服を剥かれたら元も子もないですから。 私はシロクマから距離を取って、ポケットに手を突っ込みます。固いプラスチックの感触がこの上なく頼もしいのです。頼みますよ! 「逃がすかよ、オンナァ!」 ぐっと腕を掴まれました。握力強すぎなのです。もしかして、このまま骨を折る気だったりしませんよね? ともかく、腕を掴まれた状況では、こっちの武器を使うのは危険なのです、もう一方の武器で怯ませてから何とか身体を離して――― 「誰かと思えば、冬林工の肉だるまじゃねぇか」 一瞬、腕の痛みを忘れたのです。 そして、安心して腰が抜けそうだったのです。 「と、トキくん……!」 来てくれた! 来てくれたのです! ……くれたの、です? 「随分とオレをナめてくれたもんだなぁ?」 えぇと、助けに来てくれた……んですよね? 悪鬼羅刹どころではなく、夜叉とか鬼神モードに見えるのですが、まさか、学園祭開催期間中に殺人事件とか……ない、ですよね? ちょ、いつにない笑顔なんですけど! はっきり言いましょう。声には出しませんけど。 こ こ は 地 獄 で す か ? 私の腕を掴む、地上最大最強肉食獣のシロクマ。 対峙するのは、天下無双最恐鬼夜叉の羅刹。 平々凡々を絵に描いたような私、生きて帰れるのでしょうか……。 「は、ハッ、テメェのオンナはこっちにいるんだ。オルァ、羅刹ぅ! テメェのオンナに傷つけたくねェなら、大人しくボコられろやぁ!」 ……シロクマがちょっと動揺しながらメンチ切ってます。 というか、どうしてトキくんイイ笑顔なのですか? ―――あれ、今、私のこと人質扱い、しました? シロクマの不穏なセリフにようやく気付いた私を知ってか、シロクマが私を後ろにドン、と突き飛ばしました。倒れないようにと足を動かしたものの、そこには、シロクマのお仲間さんたちが待ち構えていたのです。 「ロンさん、このオンナ、ムいちまっていいっスか?」 「おぉ、羅刹の前で引ン剥いてやれやぁ!」 む、剥くって、私は別に果物ではないのですよ! シロクマは何でそんなことを言うのですか! もう無理です。 温厚なミオさんの恐怖のメーターが振り切れました。 やぶれかぶれアタックが炸裂するのですよ……! 「ミオ」 少し離れた悪鬼羅刹が、何故か凶悪な笑顔で私に呼びかけました。思わず、エプロンの中の武器を握りしめたまま視線を返してしまいます。 動物園で檻の中の猛獣と目が合って離せないことありますよね。まさにあんな心境です。残念ながら猛獣二匹は檻の中ではないのですけれど……! 「イイ子で待ってろ」 頭が真っ白になりました。 いま、まさに手の中の武器を振り回そうとしていたのですよ? イイ子で? 待ってろ? セリフこそ子供に言い聞かせるような内容ですが、表情が全然違うのですよ、トキくん! 「よぉ、肉だるま」 トキくんが笑っています。 「悪ぃな、前回は適当にあしらっちまってよ」 凶悪としか表現できない笑みです。 「今度は、きっちり遊んでやるぜ。精々丈夫になるよう、関節ぜーんぶ粉々に砕いてやんよ」 シロクマの背中しか見えませんが、言い返すこともできないようです。怖いですよね。至近距離であんなイイ笑顔で迫られたら声も出ませんよね。今ならシロクマとドラゴンとは別の話で語り合える気がするのですよ。 あとトキくん、関節を砕いても丈夫にはならないと思うのです。骨を折ったら丈夫になる、というのは都市伝説ですよ? 「ヒィ……ッ」 悲鳴を上げたのは、シロクマに突き飛ばされた私を捕まえていた人でした。視線の先には羅刹……ではなく、あれれれ? 「トキさん、急ぎで声かけて、こんなもんです!」 「やりぃ、ヤりたいホーダイじゃん」 「おーおー。冬林工で見たことのあるヤツばっか」 「全員、ビョーインでいいっすか?」 えぇと、当初、ここに居たシロクマ一味は、うちの高校の茶髪プリン男と白髪ピアスを合わせても十二、三人いたのですけど、それがどうしてさらに倍近くの人に囲まれているのでしょうか。 しかもですねぇ、なんだか見たことのある人が混じっています。 一人は二学期始めに路上でケンカをしていた加害者さん(仮称)です。ツンツンと立てた黒髪に、ルーズリーフのように三つも四つもピアスをしているその顔はぼんやりと記憶にあります。 問題はもう一人なのです。 オレンジ頭ながら、かなりかわいい顔立ちをした人なのですが……お盆に、バイクで私とトキくんに突っかかってきて、挙句の果てに道路標識をぶん回していた人なのです。 ……もう一度言ってもいいですか? 声には出しませんけど。 こ こ は 地 獄 で す か ? 「ボーっと突っ立ってんじゃねぇ、オンナァこっちの手の中だ! ナイフでもなんでも使って脅せば羅刹なんざぶべらっ!」 シロクマが吹っ飛びました。 あれ、なんか既視感を覚えます。そうです。人間は吹っ飛ぶものだったのです。お盆のときに散々思い知ったではないですか。 シロクマの巨体が体育館の壁にぶち当たりました。幸いにも、体育館の壁は無事なようです。 えっと、私を捕まえている人が、目の前の光景を信じられずに茫然と立ち尽くしているのです。そうですよね。私も初めて見たときはポカンとしちゃいました。……って、今なのですよ。 「あ、てめぇっ!」 腕を振り払って、私はエプロンから掴み出した武器を両手にそれぞれ構えました。 右手には徳益さんからもらった改造スタンガン、左手には玉名さんから借りた水鉄砲(百均)です。 「おい、あの組み合わせ、ヤバくねぇ?」 「さすが羅刹のオンナ」 「死なばもろともってヤツかよ、おい」 シロクマのお仲間さんだけでなく、それを取り囲む別グループの人からも何だか不本意な評価を頂いているみたいです。 でも、そうですよね。水+電気って確かに最悪な組み合わせかもしれないのです。 ありがたいことに、私をどうこうしようとする命知らずな人はいなかったようなので、ぽっかりと私の周りには誰も入らない空間ができました。 だから少しはホッとするか、ですって? いえいえ、そんなことはありません。 少しだけパーソナルスペースを確保できていますが、その射程距離圏外では、新たなグループと、シロクマのお仲間さんが乱闘中です。 これ、先生とか来たら、マズくないんでしょうか。 なんて思っていたら、倒れたシロクマのお仲間さんを、ズルズルを裏門の方に運んでいく人が見えました。首根っこ掴んだら、締まりませんか、首。 「羅刹テメェこの野郎死ねゴルァ!」 「お前が死ねよ」 あ、シロクマのお仲間さんが後ろからトキくんに特攻かけたのです、けど、裏拳で沈められたのです。知ってはいたのですが、トキくん、肉体言語お得意ですよね。ただ、せめて笑顔を消してもらえると、私の精神安定上、非常に良いのですが。 乱闘騒ぎのど真ん中に立ちながら、あちこちに視線を動かして挙動不審になっている自覚はあります。でも、肉体言語は専門外の私の行動としては、至極当然だと思うのですよ。言語はとりあえず日本語と英語、あと軽いジェスチャーだけで十分です。 「ぐぇっ!」 一際悲惨な声が聞こえたので、ビクッとして振り向くと、オレンジ頭の人が、茶髪元プリン男を踏みつけていました。あれ、こちらもトキくんに負けず劣らずイイ笑顔です。 「おげぇぇぇぇ……」 今度はビシャビシャと水音が聞こえたと思ったら、お腹を殴られたのでしょうか、身体をくの字に折り曲げて吐いている人がいます。 バイオレンスの嵐の真っ只中で、私は立ち尽くすしかありませんでした。 「っ!」 って、焼却炉の火かき棒を振り上げている人がいます。さすがにアレはダメだと思うのですよ、生命の危機的な意味で! 気付いたら、私の身体が動いていました。 相手はシロクマのお仲間さんなのか、それとも新たなグループなのか分かりません。とにかくマズいと思った。それだけです。 「ぎゃぁっ!」 構えた水鉄砲が見事、顔に命中したのです。ガンマンなミオさん、頑張りました! 火かき棒を取り落した男の人が、何事か呻きながらゴロゴロと地面を転がります。その様子に、何人かの視線が私に集中しました。何か、「硫酸でも入ってるのか?」「さすが羅刹のヨメ」なんて呟きが聞こえます。硫酸なんて入ってたらプラスチックの水鉄砲が無事なわけがないのですよ。……あと嫁でもないです。 「羅刹ァ!」 しゃがれた声が響きます。この声はシロクマなのです。慌てて振り向けばシロクマがトキくんに右腕を振り上げて向かっているところでした。 ……あの、既にシロクマの左手がおかしい方向に曲がっているのですが、気のせい、ではないですよね? あ、また思い切りトキくんに蹴られて地面に転がりました。トキくんの方は無傷みたいです。って、あぁぁぁぁ、トキくん、容赦なくシロクマを踏みつけてます。いえ、踏みつけるなんて優しいものじゃないのです。あれ、明らかに骨を砕きにいってますよね。本気で全ての関節を砕く気なのですか? 「トキさん、こっち粗方終わりましたっ」 「あぁ、これも終わらせる」 その言葉とともに、トキくんの足が転がって呻くシロクマの両足を捉えました。シロクマの口から尋常でない呻きが漏れました。 「カズイ。次はねぇからな。下っ端使って効率よく見張らせろ」 「は、はいぃぃぃっ」 カズイと呼ばれた黒髪ルーズリーフピアスな人が、びしぃっと泣きそうな顔で返事をしています。トキくんの知り合い、なのでしょうね。 カズイさんの号令で、ぞろぞろと裏口の方へと皆さん撤収していきました。シロクマも二人がかりで引きずられていきます。 「ミオ、大丈夫だったか」 「……はぁ」 見上げたトキくんは、「羅刹」ではなく「トキくん」の顔をしています。ちょっとだけ、ホッとしました。あの「イイ笑顔」は怖すぎでしたから。 緊張して身体に力が入り過ぎていたのでしょう、指先からしてだるいです。ちょっとぷるぷるしてしまうぐらいに。 「アンタを巻き込んじまったな。前にちょっとヤり合った冬林工のヤツらだ」 「……大丈夫なのですよ。お互い様、ですから」 私はへらり、と笑いました。ちゃんと笑えているかどうか心配だったのですが、トキくんの大きな手が私の頭を撫でます。何だか落ち着くのです。 「それにしても、それ、何入れてんだ?」 「単なる水なのですよ?」 「水って痛がり方じゃなかっただろ」 あれ、見ていたのですか。あまりに楽しそうに人をケルナグールしていたので、てっきり視界に入っていなかったのかと思いました。 「これ、クラスメイトから、何かあったときのために、って押し付けられたのです」 玉名さんとしては、羅刹暴走時の緊急手段、という位置づけだったのですが、そこは本人には内緒です。 「単なる百円均一のよくある水鉄砲なのですよ? 中に水道水を入れただけですし」 「……」 あ、睨まれてしまいました。 怖いので、ちゃんと種明かしをしないと、ですね。 「カプサイシン配合、です」 「あぁ?」 すごい声で聞き返されてしまったので、私は慌てて詳しい説明を口にします。 この水鉄砲は、玉名さんの弟さんがお遊びのつもりで鷹の爪を突っ込んだら取れなくなってしまった逸品なのです。その結果、水はタンクの中に放置すればするほどヤバいシロモノになるので、姉権限で没収したのだとか。 「それで、あれか」 「はい、目に入るととんでもない激痛らしいです。あ、この水は昨晩から入れっぱなしにしていたそうです」 私の言葉に、何故か溜息をついたトキくんは、そのまま水鉄砲を私のエプロンのポケットへと放り込んだのでした。 「妙に疲れたな」 「あ、喫茶店行きますか? 三年G組がうちのクラスと同じく喫茶店なのですよ?」 「……それもそうだな」 とんだハプニングはありましたが、こうして文化祭はスタートしたのです。 あ、慣れないバイオレンスに緊張したせいか、足がうまく動かなかった私を、トキくんがいつも通りに手荷物扱いしたことだけ、追記しておきます。 | |
<< | >> |