3 57.それは、契約更改だったのです。
TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 57.それは、契約更改だったのです。


 私はドキドキと緊張で爆発しそうな心臓を、必死で押さえていました。
 中間テストも無事に終わり、試験休みのこのタイミングで呼び出しがあったのです。

「うぅ、さすがに怖いのです」

 目の前には、ででんとそびえるビルがあります。そう、蛇の巣窟、敵地なのです。
 大人しめのブラウスにモノトーンのタイトスカート、そしてトートバッグを肩に下げた私は、日常比プラス5歳ぐらいに見えるように武装して、ドゥームさんやトキくんのお父さん、そして宮地さんが勤めるこの本社ビルまでやってきました。
 バイトで培った演技力でもって平然を装った私は、受付のお姉さんに声をかけます。

「あの、戦略事業部の徳益さんと打ち合わせを予定している、須屋と申しますが―――」
「はい、ただいま連絡いたしますので、こちらに記入してお待ちください」

 私は差し出された来館カードに名前と連絡先、会社名なんかを記入しました。あ、連絡先の電話番号は適当なものですし、会社名は事前に徳益さんに指示された通り、学校名を書いてます。一応、大丈夫ですかって確認したのですけど、大丈夫らしいです。

「須屋様、こちらが入館証になります。18階の役員会議室Bで徳益が待つとのことです」
「あ、はい、18階ですね」

 私は前も借りたことのある入館証を受け取ると、セキュリティゲートを通ってエレベーターホールに向かいました。
 18階って、前回よりも高い場所なのです。
 ……って、あれれれ? 役員会議室B? 役員会議室って何なのですか?

 なんだか不穏な場所に心臓がきゅうっと掴まれたような気分になりながら、18階でエレベーターを降りると、通路からして絨毯の毛足が長いのですけど。

「や、ミオちゃん、久しぶりー」

 エレベーターホールで待っていた徳益さんは、いつも通りに黒スーツに水色フレームの眼鏡をかけて、にこにこと笑っていました。

「えぇと、お久しぶり、です」

 本当は、言うほど久しぶりでもない気がしますが、まぁ、ここは相手に合わせても損はないのです。

「すまんね。ちょっといつもの会議室が取れなくって、こんな上まで来させちゃって」
「いえ、それはよいのですけど、部外者がこんなところに入ってしまってもよいのでしょうか?」
「えー? 大丈夫だって」

 私の中の常識に当てはめると、大丈夫な気がしないのですけど。だって、私自身はこの会社と取引をしているわけでもないのですし。

 徳益さんに促されるままに役員会議室Bとやらに入ると、ちょっとげんなりしました。
 何でしょうか。濃茶の低いソファテーブルはずっしりと重厚な雰囲気を漂わせていますし、黒い革張りのソファは高級感溢れると言いますか……えぇと、帰ってもよいですかね?

「まーまー、そっち座ってよ」

 恐る恐る腰を下ろすと、ずぶり、と沈むような座り心地だったので、慌てて浅く腰掛けます。うぅ、本当に勘弁していただきたいのですよ。

「すまんね。トキのいない場所で相談したかったもんだからさ」
「トキくんに聞かれたくない話なのですか?」
「いや、聞かれるのは構わないんだけど、あいつがいると、話がスムーズに進まなそうだったから」

 そう言って、手にしていたクリアケースから取り出した書類は、7月からの私の勤務状況を表にしたものでした。

「少し、仕事内容の変更をお願いしたくてね」
「えぇと、ゾンダーリングのバイトに影響が出るような内容なのでしょうか?」

 もし、そうだとしたら、この場で即決はできないのですけど。まぁ、あちらのオウラン役は、ある意味、狼さんのお世話よりもストレスが溜まるのですが……。

「あっちは従来通り、水・土・日で大丈夫。そこは変更ないから安心していいよ」

 徳益さんはそう言って、A4サイズの用紙を一枚、私に差し出しました。

「それが従来の仕事内容と、今後の仕事内容の比較表。確認してもらえるかな」
「……はぁ」

 実際のところ、『給与』ではなく『お小遣い』というイリーガルなニュアンスでお金を頂いているので、契約書とかはないのですが、そこは変更なしのままなのでしょうか。正直、私は小心者なのでヒヤヒヤしているのですけど。
 まぁ、とりあえず今は棚上げしておくのです。
 あ、時間給ではなく月給制にするのですね。正直、何をしている時間を勤務時間としてカウントしていいか悩むことが多かったので、これは助かるのです。そしてお仕事内容は……んん?

「徳益さん。質問してもよいですか?」
「もちろん。どうぞ?」
「どうして夕食を作るお仕事が増えたのでしょう?」
「え? トキから聞いてないの? っかしーなー……」

 徳益さんは、頭をガシガシ掻いて首を傾げています。

「その、トキくんから作って欲しいとは何度か言われていますけど、私、了承した覚えはないのですよ」
「でも、作れるんでしょ?」
「家庭料理ですよ? いつもの仕出し弁当で舌が肥えてるトキくんに食べさせられるわけがないじゃないですか!」
「あー、大丈夫大丈夫。あいつ何食っても『普通』しか言わないから」
「それはそれで料理人泣かせだと思うのですよ……」

 何食べたいかと尋ねると「何でも」と言われたり、今日の料理はどうだった?と質問すれば「普通に美味しかったよ」なんて言われると、作り手としてはやりがいを失うのですよ。

「とりあえずゾンダーリングのバイトがある日は作らなくてもいいし、トキの仕事の都合でいらない日もあるからさ、試しにやってみてもらえないかな」
「……でも、母の家へ食事を作りに行ったり、とかしてて、ちょっと大変かなって」
「ミオちゃんが引き受けてくれると、俺も毎日弁当の手配しなくて済むから楽できるんだよなー。最近、隊長の振ってくる仕事が忙しくってさ」
「ぐ……、でも、トキくんの口に合うかどうかも分からないわけですし」
「あ、もし作ってもらえるなら、月給はこんな感じになるけど」

 先月分の『お小遣い』という名のお給料の、ざっと1.4倍の金額が資料の端に書き落とされました。魅力的と言わざるをえないのです。

「少し、時間をください」

 私はトートバッグからスマホを取り出すと、電卓アプリを立ち上げました。計算するのは、このまま高校卒業までバイトを続けた場合の合計額です。ゾンダーリングで稼ぐ分と合算した上で、先日確認した預金額を加算します。
 ……奨学金を使わなくても、国立四大の授業料を何とか賄えそうなのです。まぁ、大学に行っても何かしらバイトはしますし、教材費とか諸々はまた考えないといけないのでしょうけどね。

「徳益さん。その、食事を作る場合の、もう少し詳しい内容を聞かせてもらえませんか?」

 べ、別に、金の亡者とかではありませんからねっ!


 とりあえず、カフェのバイトのがない日、つまりは多くても週四で夕食を作ればよいこと、食材調達は私の采配に任せられること、私の分と合わせて食材費は後払いになること、ついでに余った食材は私が自由に使っても良いことなどが説明されました。つまり、私にとって都合の良過ぎる条件ばかりです。
 こうなると、逆に不安になります。何か、大事なことを見落としているのではないでしょうか。

「ほんっとミオちゃんは心配症だよね。一応、こっちにもメリットあるから大丈夫だって」

 考え込んでしまった私の顔色を読んだのか、徳益さんが笑顔でそう言います。

「いつもの仕出し弁当の値段とか聞いちゃう? けっこうするんだよ、あれ」
「……やっぱり、お高いのですよね? その、四桁、とか?」
「うん。送料別で一人前が、これ」
「ぴゃっ?」

 徳益さんの立てた指の本数は、……すいません、記憶の彼方にポイしちゃっていいでしょうか。というか、仕出しのお弁当ってそんなに高価なものなのですか?

「名の知れた料亭のだからね、お高いんだ、これが。うちの会社御用達になってるから割り引いてもらってるんだけど、それでも高いでしょ。だから、ミオちゃんに引き受けてもらえると、こっちの方が安く上がるってわけ。分かった?」
「……はいなのです」

 もう、返事もおかしくなってしまうのですよ。そんな高いお弁当を、もう3ヶ月も口にしていたなんて、私、貧乏舌なのに、勿体ないにも程があるのです。

「それじゃ、仕事の内容はこっちに変更してもらっていいかな?」
「はい、大丈夫です。それで、いつから変更なのですか?」
「できれば今日からお願いしたいけど、調理器具とかまだ手配してないから、もう少し後の方がいいかな」
「今あるものだけでも、できますよ?」
「あ、そう? じゃ、今日からよろしく」
「……分かりました」

 とりあえず、今日は王道のカレーで様子見をしてみましょう。確か駅からちょっと歩いたところのスーパーはネットチラシを出していたはずなので、そちらもチェックしてから具を決めることにして……って、徳益さんが私に差し出しているのは?

「あの……これ?」
「備品、かな。誰に使うもどう使うも、ミオちゃんの自由にしていいよ」

 握りやすい太さの黄色い柄に、取り付けられているのは同じ材質で蛇腹状になった赤い円柱。差し出されたそれを、自分の手のひらにポコッと押し付けるように叩くとベチンという音に混じってぴきゅっ、と間の抜ける音が出ました。
 どう見ても、これ、ピコピコハンマーなのですけど。

「誰に使ってもいいからね。あ、ちょっと待ってて」

 立ち上がった徳益さんは、会議室の端にあった電話機を取ると、誰かに連絡を取っているみたいです。あぁ、忙しいと言っていましたから、そろそろ戻るとかそういう連絡でしょうか。「今終わりました」って通話相手に言ってますからね。

「そうだ、ミオちゃん。例の婚姻届って、トキの誕生日が来たら、出してもいいんだよね」
「なななな何言っているのですか、ダメに決まってますよねぇ! 本人の許諾を得ずにこれはありませんよ!」
「はははー、トキのやつ、なぁんも進んでねぇのな。面白ぇー」
「とーくーまーすーさぁーん?」

 たとえ雇用主と言えども許せることと許せないことがあるのですよ! それとも、このピコハンは今使えということなのですか?

「俺としては、とっととここに署名欲しいところなんだけど、だめかな?」
「そういうのは、当人同士の問題であって、徳益さんには関係ないですよね?」
「戸籍一緒の方が、色々と楽なんだけどなぁ」
「徳益さんの都合で巻き込まないでください」
「はいはいっと、あ、ミオちゃん。一応言っておくけど、俺も立ち会うから安心してな?」
「何がですか?」

コンコン

 ノックの音です。
 しかも、この会議室の入り口のドアが叩かれたのです。
 徳益さんは、私を騙してトキくんのお父さんと遭遇させた前科があるのです。
 激しく、激しくイヤな予感がするのですよ!
 先ほど渡されたばかりのピコハンの柄をぐぐっと握り締めます。

 ガチャリ、とドアを開けて入って来たのは、トキくんのお父さんではありませんでした。
 でも、ですよ?
 ある意味、似たような状況ですよね、これ?

「久しぶりだね、ミオちゃん」

 慌てて立ち上がって、頭を下げた私ですが、血の気が引いていくのを感じました。
 だって、前回会ったとき、あれですよ? 私、平手打ちはするわ、説教するわ、挙句の果てにお母さんとレイくんと三人暮らしする宣言するわ、……あれ、もしかして、これ、死亡フラグ的な何かですか?

「えーと、その、先日は、カッとなってしまってすみませんでした……」
「あぁ、気にしなくていいよ、ミオちゃん。ワタシもあれで目が覚めたところがあるから」

 にこやかに笑って、私の真正面に座るドゥームさんですが、ごめんなさい、蛇に睨まれた蛙の心境なのですが、胃も痛くなってきたので、帰ってよいでしょうか?

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