76.それは、前哨戦だったのです。「あ、こんにちは、カズイさん」 「……おぅ」 宮地さんが何をしてくるか分からないというので、トキくんのいない日は、何故かカズイさんに送り迎えをしてもらうことになりました。 3日目の今でこそ、ちょっと慣れてきましたが、初日は本当に大変だったのです。 危険だからという理由で、校門前まで送ってくれるし、校門のところで待ち合わせだし、……必然的に人目に晒されるわけなのです。おかげで、トキくんにバレたらただじゃすまないよ?と心配されたり、私が二股かける悪女だと言われたり、何かもう、ほっといてください、って感じでした。 津久見さんと玉名さんに尋問され、トキくんに頼まれて私の送迎をしているのだと白状すると、「舎弟にも顔知られてんだね」と何故か同情されてしまいました。えぇ、最終的には「羅刹の舎弟を足に使う」というところで落ち着きました。なんかですね、高森さんや朝地さん、まぁ、「羅刹を見守り隊」のメンバーが情報を適切に回してくれたみたいなのです。これに関しては本当に感謝しかありません。また、何かの行事にトキくんを引っ張りだして、と言われたら頑張ってみようと思います。恩は忘れません。 カズイさんの立場が「舎弟」でいいのかは分かりませんが、きっと当たらずとも遠からず、ぐらいだと思うので、否定する気はありません。あ、ちなみに、意図的かどうか知りませんが、カズイさんはいつもフルフェイスヘルメットをかぶっていて、私に声をかけるときも、前の風防を上げるだけです。顔なんてほとんど他の生徒に見られません。たぶん、お迎えが他の舎弟さん――考えたくはないですが、あのオレンジ頭の狂犬さんとか――だとしても、きっと他の生徒には分からないと思います。 「あ、あの、今日はちょっと寄り道してもらってもよいですか?」 「あぁ。またスーパーか?」 「いえ、今日はドラッグストアなのです。途中に通るバイパス沿いにありましたよね、あそこでよいのです」 「リョーカイ」 私がヘルメットを付けて後部座席に落ち着いたのを確認してから、カズイさんは、ブロロンとアクセルをふかしました。初めて後ろに乗っけられた時とは雲泥の差です。何があったのでしょうか。もしや、トキくんから安全運転を心がけるよう教育的指導をもらった、とか? 私としては、ぎゅっと力いっぱいしがみつかなくても大丈夫なので、助かります。あ、ちゃんと腰に手は回していますよ? でないと怖いですから。 ―――寄ってもらったドラッグストアで、無事に買い物を終えた私は、紙袋を手に店を出ました。本当は、カズイさんも店内まで付いて来ると言っていたのですが、ちょっとお願いしたら、ちゃんと駐輪場で待っててくれると納得してくれました。 ……やっぱり男性にとって、生理用品が置いてあるゾーンは近寄りにくいみたいです。別にバリアーとか張っているわけではないのですけれど。あ、トキくんにはこのバリアーは効きません。あまりに平然と付いて来るので、びっくりしてしまいました。さらに私の買ったメーカーとかサイズとかしっかり記憶してしまっていて、むしろ私がドン引きだったのです。 「ミオ、久しぶりですね」 ぞわり、と悪寒が走りました。いいえ、そんな生やさしいものではないのです。突然、氷の塊を背中に押しつけられるほどの、とんでもない冷気です。 一瞬、無視してしまおうかとも思いましたが、この人がそんなに簡単に無視をさせてくれるはずがありません。それならば、万全の心構えでもって、真正面から対峙するのが一番なのです。 「何か用なのですか? こちらは用件なんてないのですよ?」 「おやおや、いきなり手厳しいですね。時間がありましたので、君を我が家に招待しようと思っただけですよ?」 「お断りします」 きっぱり拒絶したはずなのに、蛇男=宮地さんの後ろには見覚えのある二人が立っていました。あぁ、部下を使って無理矢理に車か何かに乗せようとでも言うのでしょうか? ここはドラッグストアの入り口ですよ? 人の目があるというのに、堂々と誘拐しようとでも? 万が一のことを考えて、私は鞄につけたキーホルダーを探りました。トキくんからもらったプラスチックのキューブが頼もしいのです。ボタンを押すと、トキくんのスマホに連絡が行くという優れ物なのです。最悪、これを使うことを考えないと……というか、もう、押してしまってもいいですか? 正直なところ、怖くて仕方がないのです。 「パパに向かってそんな態度をするのは、どうかと思いますよ?」 「誰がパパですか。あなたのことをそんなふうに思ったことなんて、1秒たりともありませんから」 視界の中央には宮地さん。そしてその後ろに佇む部下の内牧さん。ただ、少し離れたところで、こちらを伺うカズイさんの姿が見えて、私は少しだけホッとしました。ただならぬ様子と分かってか、目に見えた手出しはありませんが、ちゃんとこちらを注目してくれています。 「そうですか? 既に君の弟は同行してもらってますよ?」 私は驚きのあまり、手でいじっていたキューブ型の緊急通報スイッチ押してしまいました。カチッという感触が手に伝わりました。って、今のは手違いです……って、連絡する術もありません。 いえ、そんなことより重要なことがあります。今、宮地さんは何と言いました? 弟は同行……? 私に弟と呼べる存在なんて、―――レイくんしかいないのです。まさか、この男、レイくんに何かしたとでも言うのですか? まずいです。指先が小さく震えるのが分かります。レイくんはまだ小学生なのですよ。こんな男に、拐かされていたとしたら……! 「君はあの子から慕われているんでしょう? まぁ、あの子一人で来てもらっても構いませんが……」 「ま、待って、ください。本当にレイくんが―――」 しまった、と思った時には、もう遅かったのです。その時、ニヤリと宮地さんが笑みを浮かべるのを見つけてしまったのですから。あえてテロップを付けるとしたら「かかった」とか、でしょうか。アングラーであれば「フィーッシュ!」とか叫ぶところですね。 いや、思考が逸れました。落ち着くのです。あのレイくんが、あのドゥームさんの息子のレイくんがそう易々とこの男の手に落ちるとは考えにくいのです。 「いえ、レイくんが宮地さんに付いていったわけがありません。だいたい、宮地さんとレイくんには面識がないでしょう。知らない大人についていくほど、レイくんは迂闊な子ではありません」 「君と一緒に、と言ったら、お利口なレイくんはちゃんと付いて来てくれましたよ?」 ない、ないのです! ……たぶん、ないのです。 私の視界の端に、何やら慌てた様子で電話を取るカズイさんが映りました。あぁ、きっとトキくんなのです。 と思ったら、なぜか私のスマホがぶるぶると震え出しました。目の前の蛇男は、にこやかに「どうぞ」とか言って来ます。これ、取れって言われると逆に電話を取りたくなくなるのが不思議です。だって、絶対に何かたくらんでいますからね! 「後で折り返しますので、ご心配なく」 そう言いながら、カバンからスマホを取り出した私は、宮地さんにバレないようにと祈りつつ、「通話」にして、ついでにスピーカーモードにします。そして、カバンの一番上にそっと置きました。 「お気になさらず、お話の続きをどうぞ、宮地さん。……と言っても、レイくんがあなたと一緒のいるはずもありませんし、私もお誘いに乗る気はさらさらないので、お帰りくださいと言うだけなのですけれど」 まっすぐに年よりずいぶんと若く見える宮地さんを見据え、声を張り上げます。うぅ、お願いします、察して欲しいのですよ、トキくん。こちらの会話を聞くだけで、声は出さないでください。 「なるほど、逆に言えば、レイくんが僕と一緒にいるということが分かれば、君も来てくれるということですね」 「……ありえないのです。先ほども言ったように、レイくんはとても賢いのですよ? 第一、上司の子供を拉致するとか、頭おかしいですよね?」 「全くおかしいところなどありませんよ。リコが子供といて慈しんでいるのなら、僕の子供と言っても差し支えないでしょう?」 前提からしておかしいですから! 思わずツッコミを入れそうになって、慌てて口を噤みました。 もう、何なのですか、前回以上に話が通じなくなっているのですよ! 本当にイヤなのです。この目の前の蛇は、お母さんのことになると、途端に思考回路も常識も吹っ飛ぶ変態なのです。本当に勘弁していただきたいのですよ。 ……常識も? そうです。常識も、お母さんを手に入れるためなら些事扱いなのです。それならば、強引な手口でレイくんを拉致することも厭わないのでは……? 血の気が引くのを感じました。まさか、本当にレイくんが誘拐されていたらどうしましょう。レイくんだって、ずっと守られているわけではないのです。学校の登下校は一人なのです。小学生のレイくんが、大人の男性に力で抗えるはずもないのです。 「さぁ、ミオ?」 猫撫で声で私の名前を呼ぶのをやめてください。嫌悪しか湧きません。 「君だって、義理の弟をかわいがっているでしょう?」 優しそうに聞こえて、その実、毒がたっぷり入った声が私の耳を打ちます。 「そのかわいい弟を、独りぼっちにするんですか?」 どうしましょう。どうしたら……? 本当にレイくんが宮地さんの手の内にあるのでしょうか。それを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか。私の灰色の脳細胞を、ギリギリと悲鳴を上げるまで使って考えるのです。 もし、宮地さんが本当にレイくんを拐かしたのなら、私は絶対にこの人についていかなくてはなりません。レイくんを一人でこの男の手元に置くなんて、考えられませんから。 でも、レイくんがこの男の所にいるという証拠はありません。 たとえば、宮地さんがウソをついているとしましょう。それなら、何が目的で? 私を連れ出すため? ……いいえ、私が警戒することは分かっているはずなのです。それなら、この蛇男の目的は? 「さぁ、いつまでも、こんな寒い冬空の下で立っていないで、行きましょう」 黙って欲しいのです。私の思考を邪魔しないでください。 ぎっ、と睨めば、笑みが返ってきます。悔しいですが、私では、この蛇に勝てません。 「そんなに僕の言うことが信じられないなら、電話でもかけてみたらどうですか? 君の弟が家にいないということが分かれば、君も納得するでしょう?」 分かった。分かったのです! この蛇男の狙いは、きっと私からお母さんのところへ電話をかけさせることです。電話番号を知るためなのか、それとも直接通話することで、何か別の探知をするのか、技術的なことは分かりません。何しろ、今、お母さんはドゥームさんの懐の中ですから、きっとちょっかいを掛けられないのでしょう。何しろ、あのドゥームさんですから。 「君は何も心配する必要はありませんよ。用事が済めば、君もレイくんもちゃんと家まで送り届けてあげますから」 私の表情を読んだのか、宮地さんが畳みかけるように言葉を連ねます。さらに伸ばされた手を、私は身を引いてかわしました。 「―――お断りします」 大丈夫なのです。 だって、この会話はトキくんに聞こえているのです。スマホ越しにこの会話を耳にしているトキくんが、何もしないわけはないのです。その証拠に、ほら、遠巻きに私と宮地さんを見ていたカズイさんが、指で丸を作ってくれました。あの丸は、「大丈夫」の丸だと思うのです。 「何度も言いますが、レイくんは賢い子です。知らない人についていくことはありえません。誘拐とかなら別でしょうけれど、レイくんのお父さんがそんなことを許すはずがないのです」 さぁ、笑うのです。余裕の笑みを浮かべてやるのです。お前のことなんてもう怖くないと、相手に見せつけてやるのです。 「お母さんは、既に最愛の旦那様がいるのです。あなたなんてお呼びではありません。そもそも、何の関係もない人なのですから、どうぞお帰りください」 言ってやった。 言ってやったのです! 「……なるほど、これはきちんとした『教育』が必要そうですね。まったく、困ったものです」 やれやれ、と肩をすくめる宮地さんは、残念ながらまったく堪えた様子はありませんでした。 「仕方ありませんね。それでは、ミオ、また20日に会いましょう」 それだけ言って、くるりと背を向けた蛇男を、私は呆然と見つめていました。既に私があのパーティに出ることを掴んでいるのです。そして、そこでまた、何かを仕掛けるという、宣戦布告、ですか……? 「おい、お前、すげぇ顔色悪いぞ、大丈夫か?」 いつの間にか、隣にカズイさんが来ていました。 「大丈夫、です」 あ、カバンの中のスマホから、何やらトキくんの声も聞こえます。すみません、心配をおかけしたのですね。 「あ、トキくんですか? もうあの人はいなくなりましたので」 『あぁ、聞こえてた。アンタ、大丈夫か?』 「はい、トキくんのおかげです。その、レイくんは大丈夫なのですよね?」 『自宅にもう戻ってる。アンタの母親に確認はとれた』 「そ、うですか。良かったのです……」 『あぁ、アンタも早く帰れ。あのマンションなら安全だから。―――カズイ、ヘマすんなよ』 「は、はい、トキさん!」 そうしてぷつりと通話が終わりました。うぅ、トキくんに迷惑をかけてしまったのです。でも、これはドゥームさんと佐多さんの合同作戦の一環なのですから、ちゃんと割り切らないと。 「おい、買い物終わってるなら、早く出るぞ。トキさんの言うとおりにマンションに―――」 マンションに? 本当にトキくんの言うとおり、あのマンションは安全なのでしょうか? ここで、あの蛇男に遭遇したということは、既に私の行動範囲はバレているのでしょう。それならば、あのマンションも、よくご飯を作りに行っているお母さんのマンションも、バレているのではないでしょうか。それなら、今まで何もなかったのだから、安全と判断してもよいかもしれません。 でも、それが今まであの蛇男が切羽詰まっていなかっただけ、としたら? 心臓がばくばくと音を立てているのが分かります。きっと今度こそ大丈夫、と何度思ったでしょうか。それでも、あの男は、何度も姿を現したのです。 「……カズイさん。大変申し訳ないのですが、マンションに戻りたくないのです」 安全だと言われても、一人で待つのは怖いのです。今は、隣にトキくんの付けてくれたカズイさんがいます。でも、一人になって、もし、何かあったら、と思うと…… 「はぁ? ちょっとお前何言って……、っつーか、マジで顔色悪いんだけど」 「今、一人には、なりたくないのです。カズイさんが普段過ごしている場所でもいいのです。隅っこでちゃんと大人しくしてますから、お願いします!」 困惑するカズイさんの手をぎゅっと掴んで引き寄せます。以前、お母さんから教わった「男の人に対するお願い」のポーズです。相手の手を自分の胸に引き寄せて上目遣いをするように教わりました。恥? 外聞? そんなことより、とにかく一人はイヤなのです! 「……やわらけー……っつか、これマジでトキさんに殺される」 「お願いします、カズイさん!」 「あー、待て。待て。トキさんに確認すっから」 「お願い、します」 ポケットから自分の携帯電話を取り出したカズイさんは、すぐにトキくんに連絡しました。うぅ、たびたびお手数をおかけして申し訳ないのです。 さっきから、指先の震えが止まりません。手もすっかり冷たくなっているのが自分でも分かります。さすって見ても、ちっとも温かくならないのです。 「いやいや、マジですって。俺、なんにもしてません! ……え? いや、今は俺の隣に、あー、顔色まじ悪いっす。ずっと震えてますし。……えーと、あのオッサンがいなくなってからっすね。話してる時はフツーに見えましたよ?」 ぶるっと寒さを感じて、マフラーを巻き直しました。まさか風邪を引いたとかはないと思うのですけど、お店の外で話していたからか、足下から冷えてきています。そう、指先が震えているのも、手が冷たくなっているのも、寒いからなのですよ、きっと。 「いや、一人になりたくないって。……え、マジですか? だってあそこ溜まり場ですよ? あー……はい。はい。―――トキさんが替われって」 「あ、はい」 差し出されたのは、通話中の電話でした。カズイさんは、ガラケーユーザーだったのですね、と思考が別の方向に逃げます。 「もしもし」 『―――ミオ、マンションに戻りたくねぇのか?』 不機嫌過ぎる羅刹の声に、一瞬で丸まっていた背筋がピンと伸びました。 「す、すみません! で、でもですね、その、一人になると怖いというか、私に何かあったら、即座にトキくんに連絡してくれる人が欲しいというか」 『……』 あぁ! これ、呆れられているのです。そうですよね、私のワガママですよね。いや、あのマンションが防犯上とってもスゴイのは分かっているのですけど、これって理屈ではないのですよ。って、どう言ったら分かってもらえるのでしょうか。それとも、大人しくマンションに帰った方がいいのでしょうか。 「あ、あのっ」 『アンタがオレをちゃんと信頼してるってことは分かった。―――オレが戻るまでカズイのガレージで待て』 「へ? ガレージ、ですか?」 『居心地は悪いかもしれねぇが、あそこなら、何かあっても時間稼ぎできるヤツらがいる』 「……ご厚意に甘えてしまってもよいのでしょうか」 『多少気の荒いヤツらはいるが、カズイが抑えられる。カズイにはオレから礼をしとくから気にすんな』 ちらり、と隣のカズイさんを見上げれば、「あぁ、決まりか」なんて言われてしまったのです。 うぅ、お手数をおかけするのです。 | |
<< | >> |