86.それは、三度目の正直だったのです。「ミオちゃん」 縁側で小兵衛さんを撫でくり回していた私に声をかけたのは、ドゥームさんでした。 「お義父さんが落ち着いたから、戻っておいで。レイもだよ」 居間に戻ってみると、紅茶は片付けられて、おじいちゃんは緑茶をすすっていました。 「ミオ」 「はい」 まだまだ険しい顔つきのおじいちゃんの前に、何となく正座します。 「お前は、どうしたい? ここで暮らすのと、リコと暮らすのと、どっちがいい?」 あー、その二択ですか。そうですよね。おじいちゃんがトキくんとの同居を認めるわけもないですよね。 ちょっと項垂れた様子のトキくんが気になりますが、うーん、この様子だと、ドゥームさんがおじいちゃんの味方をしたのかもしれません。どうせお母さんは、面白そうだからと口出しはしないでしょうし。 ちらりとお母さんを見ると、私の選択など分かりきった様子でニコニコと微笑んでいます。ドゥームさんは真面目な顔をしていますが、きっと私を受け入れる方向で誘導する気満々なのでしょう。家族の形としては、それが一番妥当なのですから。 さて、どう答えたものでしょうか。 「おじいちゃんは、常々、私に約束は守るものだって言ってましたよね」 「もちろん」 「それなら、私の答えは一つです。このままトキくんのマンションに住みます」 あ、おじいちゃんの頬がちょっと引き攣ったのが見えます。 「どういうことだ」 「私がカフェでアルバイトをしているのは、知ってますよね」 「学校の許可も得られているんだったな。それが関係あるのか? もし、バイトを続けたいという理由なら、別にどこに住んでも同じじゃないのか?」 「そもそも、トキくんのマンションに住み始めた理由が、そのバイトなのです」 「……は?」 あ、おじいちゃんの目が点になりました。そうですよね。さっぱりですよね。私も未だにどうしてそうなったのか、よく分かりませんが、今使える理由がそれだけなので、勘弁していただきたいところなのです。 「バイト先のカフェから、出向という形で、トキくんの所のおさんどんをする、という契約になっているのです。―――住み込みで。契約というのは約束の一種なので、一方的に破棄するのはよくないと思うのですよ」 おじいちゃんが、ぎぎ、と軋むような動きでお母さんに視線を移しました。 「リコ、お前は知ってたか?」 「もちろん。トキトくんのお父さんの部下の人から、ちゃんと説明されたわよぉ? 住み込みになるので、保護者の承諾を一応、って。あ、その時についでに婚姻届にもサインしたわ♪」 何気にハヤトさんて有能ですよね。私を住まわせると決めた途端に、お母さんに諸々の許可を取りに行っているわけですから。 「どうして、そこで、許可を……」 「大丈夫だと思ったからに決まってるじゃない。ミオちゃんからSOSもなかったし、トキトくんのことも知ってたしぃ?」 私は慌ててトキくんを振り返りました。同じく驚いた様子のトキくんは小さく首を横に振っています。 「お母さん。トキくんのことを知ってたって言うのは、どういうことなのですか?」 「えぇ? お仕事であの会社に出入りしてたじゃない? 戦略事業部にすっごく若い子がいるっていうのは、色んな人から聞いてたしぃ?」 そうでした。宮地さんのテコ入れで、お母さんはあの会社に営業に何度も出掛けることになっていたのですよね。まぁ、そこで多くの契約を取って来たり、さらにはドゥームさんという旦那さんまでゲットしたりした手腕は、さすがお母さんと言うしかないのです。 「ダーリンからも、トキトくんのことは聞いたし、有望株かなぁって」 「お母さん……」 そういえば、何度も有望株だって言っていましたね。それは、トキくんの会社での評価を知っていたからだったのですか。 「リコぉぉっっ!」 おじいちゃんの怒声に、レイくんが涙目になったのが、すごく可哀想だったのです。 ![]() 「ただいま、なのです」 「……疲れた」 お母さんの援護射撃(?)もあって、無事におじいちゃんを説得することができたのです。そもそもバイトを辞めろという話にもなったのですが、社会勉強の場を奪うのか、とか、人手が足りているわけではないので、後任の育成とか、色々と理由をつけて、無理やり頷いてもらいました。最終的にはドゥームさんも援護してくれたのですよ。まぁ、お母さんが私の援護に回ってくれたので、その援護、ということなのでしょうけれど。 ドゥームさんとしては、出産を控えたお母さんのために、私に一緒に住んで欲しかったのだと思います。でも、やっぱり、蛇との同居は遠慮願いたいのですよ。臨月になったら、あちらに泊まることも考えますけど、薄情と言われようが同居はありません。生理的に無理なものは無理なのです。 「すぐにお風呂入れますね」 「あぁ」 制服を着替える時間も惜しんで、私はお風呂場に向かいました。脱衣所にカバンを置いて、とりあえずお湯だけ張ってしまうことにします。マンションの中はあったかいのですが、外は本当に寒いのです。12月だから当たり前と言われてしまえばそれまでです。 ザーっとお湯が出たのを確認して、カバンを持って部屋に戻り、制服を着替えます。今日の午前中にあった終業式が、遠いことのようです。お説教とか説得とか、色々盛りだくさんでしたし。 あれから6人で近所のレストランで食事をして、いつもの犬飼さんに来てもらって……あぁ、もう9時を過ぎているのです。 そういえば、今日はクリスマスイブでした。そんなことすら忘れてました。ツリーも何も出していませんし、今日はクリスマスらしいことは何もしていません。そういえば、レイくんが、クリスマスには戦闘機のプラモデルをお願いした、と言っていましたっけ。10式戦車でも良かったとか。……やっぱり趣味が偏っている気がするので、どこかで興味の方向が変わってくれることを願うばかりなのです。 ラフな格好になってリビングに戻ると、窓の外に目がいきました。分厚い雲が広がっているせいか、星ひとつ見えません。雪でも降れば、さぞロマンチックだったのでしょうけど、天気予報では曇りだと言っていました。 今日デートだと言っていた玉名さんは「ちょっと、空気読みなさいよね、天気」って叫んでましたっけ。 「ミオ? 何見てんだ?」 黒いスウェットの上下に着替えたトキくんが、いつの間にか後ろに立っていました。 「天気が微妙だなぁって、見てました。―――お茶とか入れますか?」 「いや、いい」 そう言ってトキくんは、私を後ろから抱きしめてきました。お互いに立ったままだと、私の頭はトキくんの胸板に当たります。身長差が50センチもあるので、仕方ないですよね。こんな時、自分のミニマムさを思い知らされます。 「結構、上手くいかねぇもんなんだな」 「何が、ですか?」 「職場で聞いたら、スーツで行けば間違いなし、って言われたのにな」 それは、……もしかして。 「トキくん。今日、スーツだったのは、お仕事で必要だったからではなかったのですか?」 「違う」 「……最初から、おじいちゃんに婚姻届を見せる予定、だったのですか?」 「あぁ」 ですよね。そうでもなければ、鞄にあんな重要書類入れませんよね。 ……。 あれれ、ちょっと顔が火照ってます。まずいのです。心臓もちょっと暴れ始めたのです。 「ドゥームも来るって聞いてたからな。集まるなら丁度いい機会だと……ミオ?」 「な、なんですか?」 「顔赤い」 「う、嘘です。トキくんの位置から、私の顔なんて見えないはずなのです」 「窓に映ってる」 トキくんの指差した先には、確かに真っ赤になった私の顔が……って、見ないでください! 「気のせいなのです、目の錯覚なのです、照明の加減でそう見えているだけなのです!」 「あー……、これでおあずけとか、くそっ」 「と、トキくん! えぇと、……そうなのです。言いたいことがあったのです!」 トキくんの不穏な発言から意識を逸らそうと、私は必死に言葉を重ねました。 「ああいう書類を出すのは、やっぱり順番があると思うのですよ。おじいちゃんも言ってましたけど、当人の承諾を得てから、ですね」 「嫌か?」 「え」 「嫌なのか?」 ちょ、その掠れた重低音で囁くのは禁止なのです! 妙な色気というか、えぇと、とにかく禁止なのです! わたわたとしている私が面白かったのか、私の耳にトキくんの抑えた笑い声が届きます。 「とりあえず! 私は大学をちゃんと卒業して、就職するまでは、そういうことは考える気はないのです! トキくんにも、結婚を前提としない高校生らしいお付き合い、って言ったではないですか!」 「あぁ、最初はそれでいい。でも、オレがそれで満足しないことは分かってるだろ?」 うぐぅ、それを言われると……。初っ端から婚姻届準備していたのは知っているので、強く反論はできないのです。 「今までどおり、無理強いしないでくれるなら、いいです」 「アンタは、オレにどこまで我慢しろって?」 「んぎゃっ!」 い、今、耳! 耳にガブッ、て! 「アンタぐらいだ。オレを恐れず、オレに媚びずに傍《そば》にいる女なんて」 「これはもう、慣れの問題なのですよ! あと、不機嫌なトキくんはちゃんと怖いですから! そこだけは忘れないで欲しいのです! あと、人の耳をかじらないでください!」 あ、また笑われたのです。 もう、いいです。トキくんはいっそのこと笑い上戸にでもなれば、もっとクラスの皆からも親しみを持たれるのですよ。……あれ、『羅刹が笑った! 血の雨が降るぞ!』て警鐘を鳴らす恩田くんの姿が脳裏に浮かびました。やっぱり笑うだけではダメかもです。 「ミオ」 「はい」 「オレと結婚しろ」 命令形ですか。これ、プロポーズではないですよね? 「お断りなのですよ」 もちろん、即答します。トキくんも私の答えなんて分かっていたでしょうに、どうしてこんなことを言うのでしょうか。 あぁ、でも。トキくんに伝えていないことがありました。 「でも、トキくん」 「なんだ?」 「……月が、きれいなのですよ」 一瞬、きょとんとしたトキくんの顔が、窓ガラスに映りました。そうですよね、分厚い雲に遮られてお月様なんて見えませんから。 でも、すぐに私の意図を察したのか、ニヤリと人を食ったような笑みを浮かべます。 「あぁ、知ってた」 その言葉に、思わず上を見上げれば、私の視線に気付いたトキくんの顔が近づいてきます。 そのまま、私たちは唇を合わせました。 一年前の私からは、想像もつかない状況ですよね。 あの羅刹とキスしてる、なんて。 きっかけは何だったのでしょう。 テストの時に、筆記用具を貸したことでしょうか? それとも、公園で手を差し伸べたことでしょうか? まるで、通り魔みたいな思い付きの善行だったのに、トキくんは、それを大事に思って私を探してくれたのです。 「ん……」 上手く呼吸ができずに、僅かに開いた唇の隙間から、トキくんの舌がぬるりと差し込まれました。私の中を探るように、歯をなぞってきます。 「は、ぁ……んっ」 トキくんの舌が、私の舌に絡んできます。逃げようとしても、追いかけてくるのです。追いかけっこを続けるうちに、いつの間にか私はトキくんの体に、すっかり体重を預けてしまっていました。ちょっと、体が熱い気がします。 トキくんの腕が、私を支えるために、その位置を変えました。お腹の方に添えられた手は太くて、とても頼りがいがあります。呼吸が上手くできない私を宥めるように、その手が撫でるように動きました。 なんだか、トキくんに包まれているみたいで、ふわふわと気持ちいいのです。 とうとう絡めとられてしまった舌先を軽く吸われ、私の体が勝手に震えます。トキくんの大きな手が、少しだけ上に移動して、私の胸を下から支えるように――― ぺちんっ! 思いのほか、その音は大きく響きました。 驚いて唇を離したトキくんを、私はキッと睨みつけます。 「不埒な行為は禁止なのです!」 トキくんは、お行儀悪く舌打ちをした後、「アンタの不埒のラインが分からねぇ」とボヤきました。 「とりあえず、Aまでなのです!」 「……表現がいちいち古いな」 「余計なおせっかいなのです!」 何と言われても、ここだけは頑張って死守するのですよ。ミオさんは負けません! | |
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