3.覆水、盆にかえらず「阿呆。何してやがる」お腹に回された太い腕。背中から伝わる体温。そして頭の上から聞こえる罵倒に、ユーディリアの心拍数が一気に上がる。 「放してください。顔も見たくないと言いましたでしょう」 「この体勢なら、顔は見えないだろう?」 絶対、あの意地悪な笑みを浮かべているだろうと予測ができて、ユーディリアの心に苛立ちが浮かぶ。だが、それも動揺の波に流されてすぐに消えた。 「話してもらおうか。―――どうして、オレを避ける?」 「それを説明する必要を感じませんわ」 明確な拒絶の言葉を口にした途端、どうしてそんなことを言ってしまったのかと後悔が押し寄せる。だが、投げつけた言葉を戻すことなどできない。 思わず表に出してしまった途方に暮れた子供のような感情を、リカッロは見逃さなかった。 力付くでユーディリアの体勢をこちら向きに変えると、彼女はすぐさま表情を「王妃」の仮面で覆い隠す。そして、ぐっと下唇を軽く噛んでから、また何かを言いかける所に、 「っ?」 すかさず唇をふさいだ。 「や、めっ」 抵抗を許さず、下唇を味わうようについばむと、一度唇を離し、角度を変えて口づけた。 抵抗を試みる細い腕、唇の隙間からこぼれる制止の声、海の瞳が湛える非難の光。 たとえどれだけ拒まれようと、リカッロはユーディリアを手放すつもりはなかった。 どれほどそうしていただろうか、とりあえず「嫁成分」の補給を終えた彼は、抵抗の弱まったユーリから顔を離した。 「これは……懐柔しているつもりですの?」 やや赤く染まった肌を晒しながら、ユーディリアが睨みつけてくるのを、リカッロは口の端を持ち上げて答えた。 「まさか。怒っている女がこんな方法で宥められるなら、世の中の男は苦労せずに済む」 「それほどまでに男女仲に精通しているのであれば、わたしがいますぐ出て行って欲しいと思っていることもお分かりですわね?」 動揺を押し隠し、王妃の仮面をかぶり続けるユーディリアを不審に思ったリカッロは、横目で部屋を見渡し、その理由に思い当たった。 「どうやら、腰を据えて話し合う必要がありそうだな」 「そのような必要はありません」 キッパリと拒絶するユーディリアの手首を掴むと、リカッロはバルコニーから室内へと戻る。そして、廊下から成り行きをハラハラと見つめていた副官の所へと戻る。 「ボタニカ、どうやらオレは妻とじっくり話し合う必要があるらしい。今日の予定は全部キャンセルだ。調整しろ」 「は? いや、まぁ、できないこともないですが」 「ちょ、ちょっとお待ちください。そんな勝手な―――」 止めるユーディリアの手首を解放すると、床に倒れたままのドアを持ち上げ、戸口に立てかけた。遠くから見れば、蝶番が歪んで外れていることなど分からないだろう。 「こうでもしないと、お前は本音を漏らさないだろう」 リカッロは唖然とする妻に言い放つと、再びその華奢な身体を抱きしめた。 「……本音も何も、ありません」 抵抗こそしないものの、憎まれ口は相変わらずだ。 (まったく、いつになく強情だな) どんな手を使って口を割らせるか、と考えるリカッロだが、とりあえず今は久しぶりの妻のぬくもりを十分堪能する。 自分は本当に乾いていたのだろう。ユーディリアから伝わる体温に、心の中の澱が取り払われていくような感覚すらある。いつの間にか自分は狂ってしまっていたようだ、自嘲するように顔をゆがめた。 「いつまで、こうなさっているつもりですの?」 「いつまででも」 「新手の嫌がらせですか?」 「お前が本当にイヤだと言うのなら、嫌がらせになるだろうな」 「……」 黙り込んだユーディリアに、本当に嫌われているわけではないと再確認できて、ほっと安堵する。 「……それで?」 問いかければ、腕の中の細い身体が震えるのが分かった。 「お前はどうしてオレと会いたくないんだ?」 「……邪魔をされたくなかっただけですわ」 「邪魔?」 ユーディリアの視線がテーブルの上で綺麗に畳まれた白い布を示す。 「先日、救貧院へ赴いた際に、ある女の子から刺繍について尋ねられましたの。細かく説明するよりも、実物を見てもらった方が良いと考えたのですわ」 身を捩ってリカッロの腕の中から抜け出すと、ユーディリアはつい先ほど仕上がったばかりの一枚を広げて見せた。 木綿の白いキャンバスに緑、赤、黄、青、さまざまな色が散りばめられている。中央は白そのままに、周囲にぐるりと萌える草木、咲き乱れる花、舞う蝶、実る果実、歌う鳥、見る者の心を温めるような図案の刺繍が施されていた。 「見事なもんだな」 思わず感嘆の言葉が口を突いて出る。 「また、刺繍を止められてしまうと困りますので、邪魔の入らない所で集中してやってしまおうと思ったのです」 「邪魔?」 そもそも刺繍をやめろなどと言った覚えはない、と記憶を辿ったリカッロは、思い当たる一件に小さく首を振った。 「あれは内職をやめろと言ったんだ。こういう話なら別に問題ねぇ」 全部で四枚。今、ユーディリアが世話をしているのは前王妃が管理していたものを含めて四つだから、数は合うとリカッロは納得する。 「……王妃自ら施した刺繍だ。救貧院の奴らも有り難がってくれるだろうよ」 彼の言葉に、再び布を畳んでいたユーディリアがきょとん、と驚くような顔を見せ、考え込むように口元に拳を当てた。 「それは困りますわ。テーブルクロスなのですもの、使っていただきたいし……。あぁ、わたしが刺したということを内緒にすればよろしいんですのね。そうだわ、そうしましょう」 気づかせてくださってありがとうございます、と礼を言われ、リカッロは何だか変な気分になる。 「お騒がせして申し訳ありません。クロスも完成したことですし、わたしも今夜から元の部屋に戻りますね」 にっこりと微笑む妻の表情に違和感を覚えた。 ―――避けていた理由は本当にそれだけか? 「ユーリ」 「はい、なんでしょう?」 刺繍に使う木枠を片づけようとしていたユーリの背中が、小さく震えた――ような気がした。 「他に、言いたいことがあるだろう?」 リカッロはわざと「あるんじゃないのか」という疑問ではなく、まるで知っているとばかりにカマをかける。 「……まぁ、何のことでしょう?」 数拍の返事の遅れが、リカッロに確信を抱かせる。 「あぁ、言い方が悪かったな。そろそろ隠し事はナシにしないか?」 「ですから、この刺繍のことでしたら―――」 振り向いたユーディリアの手首を掴み、有無を言わさず腕の中に閉じこめる。 「何をなさいますの?」 不機嫌な顔を見せる妻にそっと唇を落とす。 「―――」 顔を背けられた。 明らかに口づけを拒まれた。 さすがにそれはショックを受ける。と同時にまさか、という思いが頭をよぎる。 「お前……まさか、愛人でも作ったのか?」 呆然と呟くように尋ねると、ユーディリアの表情が驚き、そして怒りへとみるみる変わる。 「ふざけないでください! そんなことをするはずもありません。それに、愛人を作るとしたら、リカッロ、あなたの方でしょう! どうせ、わたしはもう用済みなんですから!」 明確な否定の言葉をもらったリカッロは、ほっと胸を撫で下ろし、その後で、ようやく妻のセリフに引っかかるものを感じた。 「用済み……?」 その単語を口にすれば、ユーディリアの表情が「しまった」と如実に語る。 「どういうことだ?」 「特に大した意味はありませんわ」 「嘘をつくな」 両手でユーディリアの頬を挟みこみ、自分の方を向かせる。 「……」 「……」 リカッロは妻の瞳に真実の欠片を探そうとしていたが、彼女の方も、リカッロがどれだけ真実を探れているのかを推し量ろうとする。 お互い、譲る気はなかった。 それなら、あとはどちらの意志が勝つか、だ。 「そろそろ、離していただけません?」 先に動いたのはユーディリアだった。 「いやだね」 「どうしてですの? それでは、隠し事のないわたしは、どうしたら解放されるのでしょう?」 「そうだな、お前がオレに隠し事をしてないと証明してみればいいんじゃないか」 ユーディリアは困ったような視線を向ける。 「わたしにはもう語るべき言葉はありません。それなのに―――」 「それなら、態度で語ればいい」 リカッロはいつも妻をからかう時と同じように、口の端を上げて笑みを作った。 「態度……ですか」 視線を逸らさないまま、しばらく思案したユーディリアの顔が、ふいに変わる。 目を細めたわけでも、唇を噛みしめたわけでもない。 だが、その表情に、たとえて言うなら、そう、覚悟のような色を感じた。 言葉を重ねたい衝動をこらえ、リカッロは妻の行動を待つ。 ユーディリアは、自由になっている両手を持ち上げ、リカッロの両頬に添えた。そして、つま先立ちになって身体をくん、と持ち上げる。 (いつもの三秒キスか。芸のない) リカッロは自らの唇に押し当てられた妻の唇の感触に酔う。いつもならば、応えてやるが、今はただ、されるがままだ。目も閉じてやらない。閉じられた妻のまぶたをじっと見つめる。 いち、に、さん。 まだ、唇は離れない。 (……?) たっぷり十を数えたぐらいだろうか、異変があった。 ユーディリアの閉じた瞼から、涙が伝い落ちた。 目にした途端、どくん、と心臓が跳ねた。 ―――コノオンナノ ナミダハ ミタクナイ。 そこからは、体が勝手に動く。 「や、ちょっと……?」 非難の声が聞こえたような気がしないでもないが、すっぱりと無視する。 気づけば妻の両手を押さえ込み、自らの唇を彼女の目元へと寄せていた。 やめてという制止の声を振り切って、涙の筋を舐め取り、舌で首筋、鎖骨をなぞっていく。 この布が邪魔だとばかりに襟元を掴み、ぐっと力を込めた時に、その叫びが耳を打った。 「乱暴はやめて! お腹の子に何かあったらどうするの?」 | |
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