TOPページへ    小説トップへ    赤雪姫の惰眠な日常

惰眠5.はた迷惑な惰眠

 4.紫煙くゆる香


 ふわりと薫る香は甘い中にもどこか清涼感を感じさせる、この房の主を表すかのようだった。
「ふむ、今度の茶会はいささか無粋、かのぅ?」
「申し訳ありません、紅の御方。どうかお付き合い願えますでしょうか?」
 再び蔡妃と二人きりの茶会で、話題に上がるのは社建立に励む桜莉の話だった。
「桜莉様は、無理をしておりませんかしら? わたくし、指を潰してしまったと伝え聞いて、心配で心配で……」
「それほど心配をするほどのことでもないわ。単なる打ち身の類よ」
 どうやら、後宮では拡大解釈をされて伝わっているらしい、と紅雪はくつくつと笑った。
「桜莉様がお気に入りあそばされましたのね。紅の御方」
「あぁ、あれは良い。後宮で育ったとは思えぬ人品よ」
「えぇ、わたくしも同意させていただきますわ。桜莉様とお話すると、何やら心持ちが軽くなりますのよ」
 ころころと笑うのは、後宮の誰に聞いても癒し系と呼ばれる蔡妃だ。絶世の美女たる紅雪と並ぶと、その容姿は霞むどころかより一層のほんわかした空気を作り上げる。
 ひとしきり笑った蔡妃は、卓の上に置かれた鈴を2回だけチリチリと鳴らした。
 ほどなく、茶の用意をした侍女が音もなく扉を開ける。扉近くの卓で茶を淹れると、楚々として隙のない動作で二人が挟む卓に差し出す。
 その侍女が、ほんの一瞬だけ茶碗の模様を確認したことを、紅雪は見逃さなかった。
「良い香りじゃの。どちらのお茶じゃ?」
「先日、実家から贈られて参りましたの。花の香りのする素敵なものでしょう? 是非とも紅の御方にもお飲みいただきたくて」
「正妃殿は、本当にこういったものが似合うのぅ。うらやましい限りじゃ」
 茶を話題に会話の弾む二人に深々と頭を下げ、侍女が室を出ようとした瞬間!

「母上、そのお茶を飲むのをお待ちいただきたい!」

 室から出ようとした侍女は、外側から入って来た人物に押されるように戻された。一瞬だけ抗議の表情を浮かべたものの、相手を知って慌てて膝を付く。
「あら、湘、……いえ、太子殿下。例え身分の貴き方といえども、礼儀を欠くことは感心いたしませんわ。入室の許可を求めるよう―――」
「ご無礼を失礼いたします。何分、火急の用件ですのでご容赦ください」
 実母に他人のように敬語を使われ窘められても、湘太子はその表情を厳しいまま変えることはなかった。
「そこなる侍女、桂香に正妃暗殺の疑惑があり内偵を進めておりました。そちらの茶に毒が仕込まれている可能性があります。どうかお飲みになりませんよう」
 湘は珍しいものでも見るように蔡妃の向かいに座る女性を見遣ったが、すぐさま後ろに続く護衛に合図をする。
 皇帝の息子を除き、みだりに男子の立ち入ることを許されない後宮であるがゆえ、護衛役の女官は逃げる機会を伺っていた侍女を取り押さえ、卓に注がれたばかりの茶を回収する。
「お騒がせして大変申し訳ありませんでした。そちらのお客人も、危急につき無礼を詫びよう」
 湘太子はきびきびと一礼をして、室外に出た。抵抗を続ける侍女・桂香の声と複数の足音が遠ざかる。
「……やはり、今回の茶は無粋であったの」
「えぇ、お恥ずかしい限りですわ。太子殿下は紅の御方にもお気づきでなかったよう……」
 一瞬だけ、悩める母親の顔をして見せた蔡妃は、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
 再び、卓の上の鈴を手に取ると、チリチリチリ、と今度は3回鳴らした。
 すると、先ほど湘太子が連れていた護衛と似た服装をした女官複数名が、大きな荷物を5つも持って参上する。
「ほぅ?」
「わずかばかりのお詫びの品ですわ。どうぞ、お好きになさってください」
 眉を上げた紅雪の目には、頭以外を布に巻かれ、さらに荒縄でぐるぐるに縛られた男が映っていた。いずれも気を失っており、自らの運命を知らぬ様子だ。
「毒と平行して武装襲撃、なんて、本当に勤勉で頭が下がりますわ」
 ふわりと微笑む蔡妃の顔は、いつもの穏やかなものだった。
「湘太子は気づかなかったのかえ?」
 紅雪の指摘に、蔡妃は悩ましげに顔を曇らせてため息をついた。
「そうなんですの。わたくしが直接お育て申し上げたわけではないと言っても、こうも鈍感なのでは先が思いやられますわ」
 そこには息子の成長に悩む母親しかいなかった。
「実験がお好きと伺っておりましたので、被験体は消耗品ですし、いくらあっても困りませんでしょう?」
「これは、気を遣わせたようですまぬな。この礼は何が良かろう?」
「……そうですわねぇ。どうも後宮に渦巻く権謀術数を理解していない息子に、歴史の手ほどきをお願いできれば越したことはないのですけれど」
「ふむ、睡眠中の反芻による記憶定着実験を検討しておったところじゃ、ちょうど良い」
「後遺症さえ残らなければ、問題ございませんわ」
 にこにこと微笑む母親に(ある意味)売り飛ばされたとも知らず、母親の毒殺を未然に防いだことで胸を張って歩いていた湘太子は後宮出口へ向かう通路の中で1つ、くしゃみをした。
―――蔡・梅風。灯華国の正妃。
 権力を望む父親・兄弟によってその座についた彼女は、後宮で皇帝が些事に煩わされることのないよう「調停」することを覚えた。
 外戚として権威を揮おうとする父や兄に対しては、皇帝を意のままに誘導できない不出来な娘を演じ、他家や別の妃が送り込んだ刺客を秘密裏に処理する。
 それらの行動全てが、かつて母親より教育された「夫の良き癒したれ」という行動理念に基づいていると知る者は少ない。
 彼女は、表向きこそ政略の駒として正妃となりつつも、穏やかで争いを好まない性格のおっとりとした女性と認識されている。
 ちなみに、彼女について「ゆったりコワイイ系」と評したのは、後にも先にも紅雪一人である。


 内々に処理された後宮の捕縛劇の数日後、神祇伯の執務室では、珍しく房の主が声を荒げていた。
「そう怒らなくても良いではないか。あまりに興奮すると血管が切れてしまうぞ」
「ふふふ、雪様。そうですわね。いつまでも若々しい雪様と違って、この身は随分と年を取ってしまいましたもの。あまり興奮するのはよろしくありませんわね」
 どうどう、と宥める美女は、怒られていながらもどこか嬉しげな様子を隠せないでいる。
 対する老女――神祇伯・星瑛は、ぜぇぜぇと鳴る喉を落ち着かせるために深呼吸をした。その表情には隠しようのない怒りで彩られている。
「もう一度、確認させていただいてもよろしいですか?」
「うむ?」
 湯のみを片手に、どっしり構えた紅雪は片眉を上げた。
「侍女に毒杯を渡されたというのは真実ですの?」
「あぁ、それは認識が異なるな。毒は正妃殿の椀にのみ混入しておった。大方、得体の知れぬ客であるわしに、罪を被せる腹づもりであったのだろう」
 こともなげに言い放つ美女の向かいに座る星瑛の手の中で、みしり、と何かが軋む音がした。
「つまり、それを知っていながら放置していたということですわね?」
「ふむ、約定の外ゆえな。まぁ、湘太子が出張ることは分かっておったが」
 星瑛の手の中で、とうとうピシという音がした。
「そうですわね。そのために桜莉様を経由して太子殿下に暗殺の情報が行くように仕向けたのですものね」
「さすが星瑛、分かっておるではないか。何もそなたが怒るようなことはあるまいよ」
 べきっという音を立てて、とうとう老女の手の中にあった筆が真っ二つになった。
「―――それで、あなたが今、上機嫌な理由をお聞きしても?」
「うむ、三妃の手の者が武装した者を準備していてな。それを捕らえた正妃殿よりもらいうけた」
 なかなか有意義に使えたぞ、と満足そうに微笑む紅雪は、星瑛の指摘どおり上機嫌の様子だ。
 星瑛は役に立たなくなった筆(の残骸)を怒りに任せてゴミ箱に捨てる。哀れな筆はガコンと音を立ててゴミ箱の底にぶち当たった。
 いくら仕事に並があり、今は忙しい時期ではないとはいえ、星瑛は1つの部署の長官である。
 後任である桜莉は大工仕事に精を出して引継ぎどころではなく、 積まれた書簡を片付けようと思えば太子に邪魔をされ、 自分が解決したと信じきった太子からは仙女に対する批判の言を聞かされ、 皇帝陛下からはあずかり知らぬところで仙女が動いたようだがと文書での報告を催促され、 武装襲撃部隊を仙女が察知・始末したと誤情報を吹き込まれた太子に再び仕事の邪魔をされた星瑛の卓にはうず高く決済待ちの書類が積まれていた。
「雪様」
「なんじゃ?」
 また飴でも分けてくれるのか?と無邪気に美女が催促をした。
「中央をひっかき回すぐらいなら、田舎に引っ込んでいらっしゃい! 小人閑居して不善を為すとは申しますが、あなたとて容赦しませんわよ、この老いぼれ猫娘っ!」
 その怒号は隣接する雅楽寮や大炊寮にも響き渡り、どうやら神祇伯の房にどうしようもない老猫が悪戯に来るらしいとの噂が広がったのも無理からぬことである。

<< 続く...?


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