第13話.嵐の前のエトセトラ2.紅一点でも、そのバラはトゲだらけです「おい、聞いたか?」 「あぁ、なんでも、あのリジィの姉だって?」 「リジィのヤツは、昨日から師範代の用事で出かけてるみたいだし、これはチャンスか?」 道場の隅で噂話に花を咲かせていた数名が、互いに顔を見合わせてキシシ、と笑った。 「弟があれだけ女顔だもんな。こりゃ、期待できるってもんよ」 「そうそう、うまく行きゃあよぉ……」 「にしても、今朝到着したってのに、なんで誰も顔見てねぇんだろな。もう昼だぜ?」 「いや、それがさ、一刻も早く弟に会いたくて急いで来たらしいんだが、いないと知って、部屋で休んでるらしい。でも、昼過ぎには顔も拝めるってもん―――」 突然、パン、パンと大きく手を叩く音に、無駄話をしていた彼らはビクっと身体を震わせた。 「はいはーい。お昼の休憩時間よ。ごはん食べたい人はいらっしゃーい」 午前中の修練に顔を出す者には、道場主の妻(…と誤解されている)サミー手作りの食事を楽しみにする人間が多い。元々、ランクD以下のハンターや、ガードマン、ヤードなど男の多い職場で働く者が大半を占める道場である。女性にごはんを作ってもらう、というそれだけで嬉しいものだろう。サミーが本当に女かどうかは別として。 とはいえ、道場経営の傍ら、二児の親でもあるサミーはそうそう手の込んだ料理を作るわけではない。基本的にはおにぎりにおかず一品、お茶の代わりに汁物も付けば良い方である。 いつも通り、山のように積まれたおにぎりを持って入って来たサミーは、背中にもうすぐ一歳になるグロリアちゃんをおんぶしていた。 だが、その『ヤングミセス』の隣には、ふわふわの金髪をした、まるでお人形のような容貌の女性が、スープをお盆にこれでもかとたくさん乗せて立っていた。フリルたっぷりのワンピースの上に、これまたフリルたっぷりのエプロン。あぁ、これが夢にまで見た新妻のあるべき姿だと、数名がこっそり涙を流した。 「お、それが噂の『お姉さん』か」 最初に彼女に声をかけたのは、サミーを男と知る数少ない門弟ゼインだった。 「はいぃ~、リジィちゃんがぁ、お世話になってますぅ~」 見た目に違わず、甘いキャラメルを連想させるような声に、居合わせた門弟達が「おぉっ」とまぶしいものでも見るかのような表情を浮かべた。もちろん、あまりに甘ったるいしゃべり方に、眉をひそめる者もいたが。 「午後からはぁ、わたしも参加しますのでぇ、よろしくおねがいしますぅ~」 スープを渡しながら微笑む彼女に、サミーが苦笑いを浮かべた。 (ディアナちゃんも、強くなったわねぇ) 自分の外見を知った上で、この言動。そして、午後には彼女に下心たっぷりで挑んだ者の全てが泣きをみることまで予見して、サミーは軽くため息をついた。 「アタシの妹弟子のディアナちゃんよ。午後から、混ぜてあげてね」 ![]() 「お願いしま~すぅ!」 ディアナが昼食の後片付けを終えて道場に戻って来たのは、お腹もふくれて眠くなってしまうような時分だった。 だが、今日は違った。 いつもならウトウトと道場の隅で居眠りをするような連中ですら、目もパッチリ開けている。 ―――もちろん、原因はディアナである。 サミーのものなのだろう、ディアナが着替えたのは、明らかにサイズの大きい服であった。ハーフパンツは七分丈のズボンとなり、上に着た半袖のシャツは太ももまで達していた。すそが邪魔だからという理由で腰に巻いた帯も、もはや腰の細さを強調するためのものでしかなくなっている。 「サミーお姉ちゃんは~、グロリアちゃんがグズってるのでぇ、もうちょっと遅れますぅ~」 長い金髪を器用に編み込むと、ディアナは「誰にしようかな」といった様子で、人差し指を下唇に当てて、門弟達を見回した。 「早速で悪いんスけど、オレと手合わせしてもらえますか?」 真っ先に声をかけたのは、午前中からディアナの噂話に花を咲かせていた男の一人、テッドだった。ガードマンの仕事で暮らす、哀しい独身二九歳。女癖が悪く、特定の女性とは付きあわないタイプで、影で『1秒で声をかけ、1秒でフラれ、1秒で立ち直る男はテッドだけ』と言われている男だった。 「あたしなんかでぇ、いいのかしらぁ?」 ディアナは微笑んで確認するが、相手は「お願いしまっす」と即答した。 「スタイルはどんな感じなんスか?」 「ん~、非力だからぁ、関節とかのぉ、力を使わないものが多いかなぁ~?」 ほややん、と答えて首を傾げてみせるディアナに、その場にいた誰もが、彼女の力量を過少評化する。すなわち、護身術の範囲を出ない程度だと。 「だからぁ~、そっちからどぉぞ~?」 たいした構えも見せずに、相手を促すその様子に、周囲の誰もが無茶だと思った。 「あ、それじゃ、いきますよ」 対峙するテッドは右肩を前にして構え、どこから攻めようかとひとしきり考えると、とりあえず押し倒すことに決めた。 腕を掴んでしまえば引き倒すことなどたやすいと、左足で床を蹴り、ディアナに迫る。 ディアナはにこにこと笑みを絶やさぬままにそれを迎えている。 (こいつは、余裕じゃんっ!) 心の中でスキップどころかタンゴまで踊ったテッドは、ディアナの左腕に手を伸ばし――― 「きゃぁっ!」 可愛らしい悲鳴とともに、あっさり投げ倒された。 伸ばした腕を、ディアナの華奢な手が掴んだところまでは分かったが、そこから先の記憶が飛んで、いつの間にやら天井を見上げる自分に、誰よりもテッドが驚愕していた。 「よいしょぉ、っと♥」 「をぐっ……!」 呆然と倒れたままの彼のお腹の上に、とすん、と座るディアナに、テッドは堪えきれずに悲鳴をあげた。 「あぁ、ひっどぉい、そんなに重くないものぉ~」 一人分の体重をかければ、誰だって悲鳴をあげるだろうに、ディアナは酷なセリフを吐く。 と、流れるような動作で、ディアナは男の両手をそれぞれ自分の足で押さえた。体重の大半がお腹に乗っているような状態で、押さえになるかどうかも分からないのだが、プレッシャーをかけるには充分だった。 そして、次に親指が喉に突きつけられた。手入れの行き届いた爪は、今にも彼の肌を傷つけようかという位置にある。 テッドの脳裏に、この窮地を抜け出す方法が浮かんでは消えていく。 いち、腕を振りほどこうともがいてみる。 ―――動いた拍子に、彼女の爪が喉をかすめることは間違いない。 に、自由な足で、上に乗っかる彼女を蹴り落とす。 ―――そんなことをすれば、彼女の爪は迷わず自分の喉に突き刺さるだろう。 さん…… ―――彼は三番目の案をあっさり採用することにした。 「ま、まいりました」 「はぁい、おそまつさまでしたぁ~」 ディアナは喉に触れるか触れないかの位置にあった手を引っ込めると、ゆっくりと立ちあがった。……と、周囲から呆然とした眼差しが向けられているのを見て、微笑みで返す。 「え、と、今のはどういう―――」 テッドは、ゆっくりと立ち上がりながらディアナに問いかけた。 「えっとぉ、それじゃぁ、ゆっくりおさらいしてみましょうかぁ~」 彼女はにっこりと笑うと、テッドを最初に対峙していた位置に戻す。 その様子を見て、道場に居合わせた者の大半が、ぞろぞろと二人の周囲に集まってきた。 「えぇっとぉ、まずぅ、そちらから来たんですよねぇ?」 ディアナに促され、テッドがゆっくりと彼女に迫り、先ほどと同じように左腕を掴もうと右手を伸ばす。 「っと、ここで、この腕の勢いを殺さずにぃ、引っ張りますぅ~」 テッドの右手首を掴んだディアナは、自分の立ち位置をわずかに変えて、彼を引っ張る。 思わずもう一歩踏み出したテッドの足に、軽く自分の足をあてると、そのままスパン、と転がして見せた。 「相手の足を支点にしてぇ、うまく仰向けに転がるように、掴んだ手を軽く返すのがぁ、ポイントですぅ~」 解説を終えると、再度転がる羽目になったテッドに、手を差しのべた。 「ごめんなさいねぇ、痛かったでしょぉ~?」 本当にすまなそうに、眉をハの字にして、立ちあがったテッドを上目遣いで見上げるディアナに、思わず彼の顔が崩れた。 「そ、そんなことないっスよ。むしろ感謝してるっス!」 (こんな可愛い人に上に乗っかってもらえたんスから!) もちろん、心の中だけにその理由をとどめ、テッドはディアナに握手を求める。その下心は道場に集まる他の人間には丸分かりだった。 「つ、次オレいいですか」 「いや、俺とっ!」 「ディアナさんっ! おれに稽古つけてくださいっ!」 わいのわいのとテッドとディアナの間に割り込む男たちは、哀しいほどに女性に飢えていた。たとえ、そのすぐ後にコテンパンにやられることが分かっていても。 ![]() グロリアを寝かし付け、ついでに長男のベルナルドとひとしきり遊んでご機嫌取りをした後で、ようやく道場に現れたサミーの目にしたものは、まったく予測通りの光景だった。 元から、下心があってこの道場に来た面々は、道場の端でぼんやりとディアナの立ち合う姿を眺め、その一方で自分を磨くために来るような門弟は、我関せずで黙々と手合いをこなしている。 「あ、サミーお姉ちゃんだぁ~」 声を上げたディアナは、立ち向かって来た相手を、えいやっと転がした。 「ディアナちゃん、ごくろうさま。そろそろ代わるわね」 「えぇ~? 私ぃ、まだやってない人がいるのにぃ~」 たった今転がした男を立ちあがらせると、ディアナはくるりとサミーに向き直った。 「もういいんじゃないの? 明日は出かけるんでしょ?」 「でもぉ、やってみたい人がいるのにぃ~……」 口をつん、と尖らせて不満気な様子を見せるディアナに、サミーは軽いため息をついて見せた。 「やってみたい人? やって欲しい人はたくさんいるみたいだけど」 「うん! えっとぉ、でも名前しか分かんないのぉ~」 ディアナに「やってみたい」と言わせるのは、誰なのかと、道場内がざわめいた。 「えっとぉ、ゼインさんって、どなたかしらぁ?」 ディアナの出した名前に、今まで我関せずだった男がゆっくりと振り向いた。 「ご指名なら受けて立つぜ。お嬢ちゃん」 男の好戦的な様子に、満足気な笑みを浮かべたディアナは「よろしくぅ~」と、とてとてとそちらに歩いて行く。 その様子に、ディアナの取り巻き一同が、はぁ、と大きなため息をついた。 「リジィちゃんの手紙でぇ、いろいろ聞いてますぅ。よろしくお願いしますねぇ~?」 ぺこり、と頭を下げるディアナに、ゼインは苦笑を浮かべた。 「おいおい、何書いてやがんだ、あいつは。……っとそうそう、こっちも聞きたいことがあんだった」 「なんですかぁ~?」 「あんたもハンターか?」 その問いに、どよよっと、ディアナの取り巻き連中がどよめいた。元々女性が少ない職業のため、すっかり失念していたのだろう。 「はぁい、リジィちゃんと一緒にやってましたぁ~」 「ランクは?」 「えぇっとぉ、……言わなくちゃいけませんかぁ? ちょっと恥ずかしいんですけどぉ~」 その受け答えに、何かを諦めた顔をしたサミーが額を押さえて首を横に振った。 「できれば、でいいんだがな。どうしても言いたくなかったら、言わなくても―――」 「びー、ですぅ~」 しん、と道場が静まりかえった。 「やっぱりぃ、言わない方が良かったですよねぇ~?」 にこにこと微笑むディアナに、ゼインは軽い深呼吸を二、三度繰り返してもう一度尋ねた。 「え、っと、なんだって? よく、その、聞こえなかったんだが」 「はい~。ランクBですぅ。えっとぉ、Aの次のBですぅ」 ゼインは「そうか」と短く答えると、天井を仰いだ。時折り、「ランクCの姉だからランクBなのか? いやそれでいいのか?」とぶつぶつと独り言が聞こえる。 「え、っとぉ、相手、イヤですかぁ?」 心配になってディアナが尋ねると、「いや、もちろんやるさ」と即答が返ってきた。 「強い相手なら、大歓迎だからな」 ディアナを見据えるゼインの目に迷いはなかったが、「強さの程度にもよるが」と小さく呟いた声は、しっかりとディアナの耳に入ってきた。 「じゃぁ~、お願いしますぅ~」 ぺこり、と頭を下げるディアナは、構えるまでもなく、その場に立ったままで相手を見つめた。 「あぁ、よろしくな」 対峙したゼインも、構えをとるが、自ら手を出そうとはしない。 「……」 「……」 しばらく、無言の時が流れた。 堪えきれずに、それを打ち破ったのは、ディアナの方だった。 「えぇっとぉ、来ないんですかぁ?」 「あんたが相手の力を利用するんだったら、こっちからは打ち込まずに打たせるってもんじゃねぇか?」 ゼインのセリフに何を思ったか、ディアナはにっこりと微笑みを浮かべた。 「はい、じゃぁ、行きますねぇ~?」 予想外のディアナの返事に、げ、とゼインが動揺する。 彼女は構えるわけでもなく、ごく自然にトテトテと足を動かし、彼の手の届くギリギリ外で止まった。 相手が強いと思っているせいか、ただそこにいるだけで、ゼインにプレッシャーがかかる。 (ちっ、情けねぇ) ゼインは、鋭く息を吐きだし、全神経をディアナの挙動に注いだ。 と、ディアナの右手が彼の左腕に向かって突き出された! 「っ!」 逆にその右手を掴み、引き倒そうとゼインが動く! そう、先程からディアナが見せていた手段だ。 だが、違和感を感じたゼインは掴んだ手を放し、同時に一歩しりぞいた。 (なんだ? タイミングは問題なかったはず……) 技をかけそこねたかのような手応えに、ゼインは困惑する。 逆に、ディアナはちょっと驚いた顔をしている。と、その表情もすぐさま笑みに変わった。面白いものを見つけたかのような笑みに、ゼインの背筋がゾクッと震えた。 戦慄に背中を押され、ゼインが戦略に外れて攻撃を仕掛ける! 素早くディアナの腕を掴んで、体勢を崩させようと――― 「……!」 さっきと同じ違和感を感じた直後、今度はしりぞく暇もなく、ゼインはあっさり転がされた。足をかけられた感触だけが残っていたが、どのタイミングで仕掛けられたのかも分からないぐらいに、柔らかな蹴りだった。 「っっかー! なんだありゃ」 ゼインが天井を仰いだままで、叫んだ。 「あははぁ~、バレちゃいましたぁ~?」 ディアナはにこにこと手を差し出した。 「あー、なんかこう、船の上で戦ってるみてぇだ。何しやがってんだ?」 ディアナの手を掴んで、よっと立ち上がったゼインは、じっと彼女を覗き込んだ。強い人間に独特のプレッシャーはなく、むしろ捉え所のない感じがする。 「自分の重心を決して不安定にさせないのとぉ、相手の予測を外すことがぁ、おっきなポイントですぅ~」 あっさり言ってのけるディアナに、ゼインは「げ」と短く声を上げた。 真理を言葉にするのはたやすい。だが、それを体得するのは何よりも難しいことだ。 今のディアナの回答は「どうしてそんなに強いの?」「強いからです」という問答によく似ている。 「って言ってもぉ、予測を外す方はまだまだなんですけどねぇ~?」 舌をちょっと出して、可愛らしい仕草を見せるディアナを、ゼインは何よりも化け物だと感じた。 「……その、重心を不安定にしない、ってことが、今の船酔い感覚の原因ってわけか」 「はいぃ~。そうみたいですねぇ~」 にこにこと笑みを絶やそうともしないディアナは、ゼインの目には悪魔のように映る。たぶん、これからもずっと。 「……で。聞かせてもらいたいことが、まだあんだけどな」 「なんでしょう~?」 「なんで、わざわざ道場に来た? 弱いものいじめの為か?」 歯に衣を着せない表現に、純粋に自分を鍛える目的で道場に来る面々の表情がこわばった。 たぶん、誰もが同じ意見なのだろう。ディアナを庇う声はない。唯一の理解者である筈のサミーも面白そうに成り行きを眺めていた。 「えっとぉ、最初はその目的もあったんですけどぉ~……」 ディアナは、ちょっと困ったな、と手持ち無沙汰にシャツの裾をぴん、と引っ張ってから、ゼインを見上げた。 「ハンターっていうお仕事でぇ、生計を立ててる身としてはぁ、ランクの高い賞金首ばっかり狙うわけにも行かないんですよぉ」 「……まぁ、そりゃそうだな」 強い人がいます。でも、その強い人は同じように強い人とだけ戦うわけじゃありません。 「それでぇ、やっぱりどんな強さの人にもぉ、対応できるようにならないといけないわけですぅ。……それでぇ、たまにスイッチの切り替え練習みたいなのをぉ、しないとですねぇ~」 「あー、なるほどな。こうやってチェックするわけか」 「はい~。分かっていただけましたぁ?」 実を言えば、ディアナ自身、道場の門弟を相手にするまでは気づかなかったことである。これまでは、マックスやダファーといった、あるレベル以上の人間としか手合わせをしていなかったが、エレーラとして相手にするのは、何もハンターばかりではない。ヤードや警備の人間と切り結ぶことも十分にあり得るのだ。 (まぁ、アニキがここまで考えてたかどうかは知らないけど) 「じゃ、その見返りに、多少の解説ぐらいは求めたっていいわけだな」 「はい~、そのくらいしかできませんからぁ~」 和解の糸口が明確になった、とディアナはほっと一息ついた。ここで道場の門弟相手に険悪なムードになれば、道場主(の夫)であるサミーに迷惑をかけるだけでなく、ここで生活をしているリジィにまで影響が届きかねない。 「そんじゃ、さっきの話だ。重心を不安定にしない、ってのは一朝一夕に無理だってのは分かる。もうひとつの予測を外すってのはどうなんだ?」 ゼインの問いに、ディアナはちらり、とサミーを見た。どうやら面倒な解説を肩代わりする気はないらしく、あっさりと視線を逸らされてしまった。 「えぇっとぉ、人間の行動にはぁ、予測がすっごく重要ってことは分かりますよねぇ~?」 「あぁ、そりゃな。人間、多かれ少なかれ予測を立てて動いてる。それこそ日常的にな」 と、ゼインは自分達のやりとりを見る門弟の大半が微妙な顔をしているのに気づいた。 「あー……、だから―――」 ゼインはコップに例えて話をした。 テーブルの上にコップがあるとする。 コップの中には水が入っている。人はコップの材質を予測してコップを掴む力の強さを加減し、コップと水の重さを予測して持ち上げる力を加減する。持ち上げる力が強過ぎれば、コップは勢い良く跳ねあがって中身がこぼれてしまうだろうし、弱過ぎればコップは持ちあがらない。 「予測ってのは、そういうことだろ?」 「うわぁ、すっごくわかりやすい説明ですぅ。ゼインさんってぇ、人に教える才能があるんじゃないですかぁ?」 ディアナの賞賛にゼインは短く「バカ言え」と答えた。 「それでぇ、ちょっと身体の重心の話にも関わってきちゃうんですけどぉ……」 ディアナは何気ない仕草で右足を一歩踏み出してみせた。 「この右足に、体重がかかっているかどうか、の予測はどうでしょう~?」 「まぁ、一歩踏み出した時点じゃ、重心がそっちに偏るのが道理だな」 「はいぃ、でもでもぉ~、足を踏み出すときにはぁ、私の重心は変わらないんですぅ。いえ、ちょっとは変わりますけどぉ」 そのセリフにゼインの頬がピクリ、と引きつった。 「それは歩くときにもってことか?」 「はい~。詳しいことは『秘伝』なんで言えませんけどぉ、薄い氷の上でも歩けるぐらいに体重の偏りをなくしているんです~」 「そいつは、水面を歩くのと同じか? ほれ、右足が沈む前に左足をついて云々ってやつだ」 「まっさかぁ? そんなことできませんよぉ~」 ぱたぱたと手を振って見せるディアナにゼインは嘆息した。 「ま、どっちにしろ、俺の感じた船酔いみたいな感覚は、それのせいってことか」 「そうかもしれませんねぇ~」 ほややんと微笑むディアナは、師父と始めて手合わせをした時のことを思いだして頷いた。 「んじゃ、それを踏まえて、もう一試合かな」 「はいぃ、よろこんでぇ~」 二、三歩下がって、ディアナは一礼をした。だが、その後すぐに構えるゼインと違い、まったく『立っているだけ』の体勢でいる。 「あ、そちらからどうぞぉ? それともまた待ちの体勢に入りますぅ?」 「……さてな」 ゼインは、答えを曖昧にして、じりじりとディアナに近付く。 (あー、ちくしょー。隙がねぇな) もう一回なんて言うんじゃなかったとは、思っても言わない。彼には彼なりの矜持がある。自分よりも若く見える、さらに非力だと自分でも言う女に、手も足も出ないというのもつらいものがあった。 (せーめーてー、一矢ぐらい報いねぇと) 心意気はしっかりとしているのだが、いざ対決するとなると、どこから手を出していいものか迷う。 だが、その迷いが、彼に光明をもたらした。 ディアナの視線が、何かを見つけたように彼の後ろに逸れたのだ。 (まさか、フェイクじゃねぇだろう!) フェイクだとしても、賭ける価値は十分にある、そう計算した彼は、力を使わない関節技をかけようと、彼女の腕を掴もうと、手を伸ばす。 「リジィちゃん!」 ズダンッ! 彼女の叫びと、ゼインが道場の床に叩きつけられる音と、彼が負けを覚悟したのはほぼ同時だった。 背中をしたたかに打ちつけ、一瞬息ができなくなったゼインの上を、ディアナが軽々と飛び越えていく。 「あれ、姉さん、なんでここに……っ!」 苦しそうなリジィの声と、門弟達のどよめきの中、上半身を起き上がらせたゼインが見たのは、『遠い船出から戻った夫に抱きつく妻の図』だった。 「わぁん! リジィちゃぁん!」 名前を呼びながら、弟の首にぶら下がって離れようとしないディアナを、リジィは困惑した表情で受け止めている。 と、痛いぐらいの視線に気づき、「あ、どうも、姉が迷惑かけませんでしたか?」と尋ねるリジィは、門弟達の視線が「このうらやましいヤツめ!」となっていることに、あえて気づかないフリをしているようだった。 「あー、リジィちゃん? とりあえず、別の部屋でディアナちゃんと話し合っていらっしゃい。―――さぁ、いつまでも稽古の手を休めないの!」 パンパン、と手を叩くサミーに、仕方なくもそもそと動き出す門弟達。それを確認して、リジィはディアナをぶら下げたままで道場を去ることにした。 ![]() 「あら、ディアナちゃんだけ?」 一通りのシゴキを終えて、道場から母屋へ戻って来たサミーは、長子ベルナルドの部屋で、ぼんやりと座るディアナを見つけて声をかけた。 「うん、ちょっと抜けて来ただけだからって、また戻っていったわ」 遊び疲れて寝ているベルナルドの隣に座ったディアナは、サミーを見上げ、ディアナでない口調で答える。 「はい、これ。渡してくれって頼まれたの」 ディアナの差し出した封筒を、サミーが受け取る。 「ディアナちゃんは中身見たの?」 がさごそと四つ折りの紙を広げたサミーに「確認したわ」と短い返事が届いた。 ざっと、中を流し読みすると、サミーはそれを胸元にしまった。 「……お話、できた?」 「うん。それでちょっと落ち込んでるところ。やっぱりアタシはリジィちゃんの邪魔してたのかなって」 眠るベルナルドの頬をぷにぷにと触って、大きくため息をついたディアナを、サミーは何も言わずに抱きしめた。 「そんなことないわよ。ディアナちゃん。リジィちゃんがあんなにいーオトコになったのも、ディアナちゃんが守ってたからでしょ?」 「そう、かなぁ」 「リジィちゃんも、昔のディアナちゃんに似て、頭に血が上りやすいから、初めから全部話してたら、とてもここまで育たなかったと思う。これはアタシの勝手な予測かもしれないけどね」 ディアナはサミーの背中に腕を回してぎゅっとしがみついた。 「サミーお姉ちゃん。……大丈夫よね? リジィちゃんはあたしを置いていかないよね?」 泣いているのかと疑うほどのか細い声で、ディアナが呟く。 「大丈夫よ。アタシもマックスもウォリスも付いてるわ。大丈夫だから、ね?」 ディアナはこくりと頷いた。 きっと、マックスもウォリスもこんなディアナを知らないに違いない、とサミーは思う。 師父が新しい弟子として連れて来た時には、他人を頼ろうとしないディアナが出来あがっていた。こんな弱さをさらけ出すのは、住み込んだ最初の夜に悪夢で飛び起きたディアナを、サミーがなだめたからだろう。 ディアナが、自分の両親を殺されたときの夢を見て、涙を流していたのは、師父と一番弟子であったサミーだけの秘密である。 サミーは、ディアナの髪をそっと撫でた。 「ごめんね。明日にはちゃんといつものあたしに戻るから」 「いいのよ。どうせマックスやウォリスには泣きつけないでしょ? こんな平らな胸でよければいつだって貸すわよ」 実際は、詰め物のおかげで平らでないことを知っているディアナが、くすくすと笑う。 「最初はびっくりしちゃったぁ。てっきり女の人だと思ってたからぁ~」 ディアナの口調を取り戻し、また堪えきれずにくすくすと笑う彼女の頭を、サミーが自分の息子にそうするように優しく撫でた。 「そうね。部屋がなかったとはいっても、アタシと相部屋にするんだもん。あれは師父の策略ね」 空気が和んだのを感じたか、サミーの顔に微笑みが浮かぶ。 「うん。大丈夫ぅ~。私は私だしぃ、リジィちゃんはリジィちゃんだもんねぇ~。うん、よしっ! 元気出たぁっ!」 ぐっと気合いを込めて自分を鼓舞するディアナを、サミーがまぶしいものでも見るかのように、目を細めた。 まだ、言葉で自分を叱咤するものの、それでも一人で立ち上がった『妹』が、その兄弟子達にとってかけがえのない宝物であることを、果たして自覚しているのだろうか。 「もう一汗、かいてくるねぇ~。まだいるんでしょぉ~?」 「そうね、明日は早いんだから、ほどほどにね」 にっこりと微笑みを取り戻して道場へと足を向けたディアナは、何かを思い出したようにくるり、と振り向いた。 「えへへぇ~。泣いたらすっきりしちゃったぁ。ありがとぉ~」 お礼を言ったことが恥ずかしかったか、そのままパタパタと駆けて行く『妹』を見送ると、サミーは手持ち無沙汰になっていた手を、まだすやすやと眠る息子の頭に、そっと乗せた。 | |
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