TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 4.ただいま


 あれから四ヶ月。
 季節が春から晩夏に変わった頃、限界が訪れた。
 お邸の暮らしは良く言えば平和なもので、似たような日々が淡々と繰り返されていた。私が会話できる相手は基本的にクレスト坊ちゃんだけで、その他には身の回りの世話をしてくれるアマリアさんや家の中を取り仕切るハールさんを相手に、二つ三つの単語で終わる程度のやり取りが許されるだけだった。
 例外はたったの一回だ。
 クレスト坊ちゃんがお邸で過ごす日なのに、傍に居ないでも良いと言われた日のことだった。
 庭の散策を終えた私は、色彩豊かな花の季節が終わうとする季節を非常に残念に思っていた。体力作りのために、ほぼ毎日庭を歩いていたけど、目を楽しませてくれるものが減るのはすごく寂しい。夏の新緑はとてもきれいだけれど、やっぱり色とりどりの花の方が見ていて飽きない。刺繍のモチーフのヒントにもなるし。
「おや?」
 先に見つけたのは相手の方だった。
 私の印象は「好奇心が強そうな人だな」というどうでも良いものだった。元々くせ毛なのか、あちこち奔放に跳ねる栗色の髪をした彼は、クレスト坊ちゃんより一回り大きい体格をしていた。
 どちらにしても、私に話しかけてくるなんて珍しい。
「もしかして、君の名前はマリーシアというのかな?」
「どなたかは知りませんが、私の名前はマリーツィアと申します」
 やたらと友好的な彼に戸惑いながら、私はドレスの裾をつまんで頭を下げた。
「ふぅん、君がマリーか。クレストの女神様の」
「私は確かにマリーと呼ばれてますが、後半は初耳です」
 私は首を傾げて相手を眺めた。仕立ての良い服装に、何より坊ちゃんを「クレスト」と呼び捨てするからには、同じく貴族なんだろう。もしかしたら、見たこともない坊ちゃんのお兄さんのどちらかなのかもしれない。
「えぇと、お名前を聞いてもいいですか?」
 しまった、ここは「伺ってもよろしいでしょうか」と尋ねるところだった。気付いても、既に口から出てしまった言葉を引っ込めることはできない。
「オレはクレストの心の友でカルル・バルトーヴ。君の名前はクレストからよく聞いているよ。主に寝言だけど、ねっ!」
 突然、カルルと名乗った少年が前に、つまり私の方に勢いよく倒れ込んで来た。思わず避けてしまうと、そのまま廊下に敷かれた絨毯とキスをするようにうつ伏せになる。
「マリー、部屋に戻るんだ。こいつと話すと君が穢れる」
「ちょ、クレスト!」
 起き上がろうとしたカルル少年の頭を、クレスト坊ちゃんの足が踏みつけた。容赦がない。
 なるほど、気のおけない親友だからこそのじゃれ合いというやつなんだろう。仲が良くて羨ましい。友人どころか会話相手もいない私にとっては羨望の的だ。
「マリー?」
 重ねられた声の中に、僅かな苛立ちを感じた私は、そそくさと書斎へと向かうことにした。カルルという少年のことは気になるが、クレスト坊ちゃんの機嫌を損ねるのはよろしくない。
 結局、カルル少年と会ったのはあの一回だけだけど、あれは珍しくちゃんとした会話ができた良い思い出だった。基本的にクレスト坊ちゃんと交わすのは、ご機嫌を伺いながらの、当たり障りのない話題の、彼の機嫌を損ねない受け答えしか求められないものだし。
 禁止事項は相変わらず多くて、正直、息が詰まる。
 それでも、貴族の女性がみな同じような生活をしていると思い込んでいた頃は耐えられた。だけど、どうにもこの生活がおかしいと気付いてからは、耐え忍ぶ気も失せる。
 きっかけは、お邸の使用人たちの噂話だった。
「ねぇ、あの子のこと、どう思う?」
 刺繍にも飽き、気分転換にバルコニーに出たところで、その会話が聞こえて来た。
「正直、かわいそうな気もするよねー」
「でも、ある意味、坊ちゃんに愛されてるんじゃないかな」
「坊ちゃんが唯一興味を示す相手とはいえ、あそこまでされると、普通ドン引くわよね」
「確かに、坊ちゃんの印象変わったわ」
「あ、あたしもー」
「あの子もよく耐えてるわよね」
「分かってるんじゃない? 坊ちゃんの機嫌損ねたら追い出されるって」
「あたしは追い出された方が幸せな気もするけど」
「そうかしら? 一途に思われるのは悪いことじゃないと思うわよ?」
「程度によると思う」
「だよねー」
 私頭の回転が速いわけじゃない。それでも、『あの子』が誰を示しているのかは理解できた。
 耳に残った会話を反芻しながら室内に戻り、刺繍針を手に取る。
 気が乗らないままに刺繍をするフリをして考えることしばし、やはりこの現状がおかしいものなんだと理解した。
 このままお邸に残ることにメリットがあるのかと三日かけて考えてみたけど、やっぱりこのままではダメ人間になりそうな予感しかしない。
 第一、今はよくてもこの先どうするんだ。
 三男とはいえ伯爵家の子息と、農家の出の私が結婚できるわけでもない。そもそも坊ちゃんが私にそんな気持ちを持っているかも怪しいし。単に不憫な子がいたから保護した、ぐらいだろう。
 このまま坊ちゃんの庇護下でぬくぬくと過ごせば、読書と刺繍しか取り柄のない、ダメな大人の一丁上がりだ。
 それなら、と私は手首のブレスレットを見つめた。
 工房の外に出るようになって、お師さまから渡された護身用のブレスレット。簡単な手順で発動し、工房に帰れる優れ物だ。今までお世話になることはなかったが、これを餞別にくれたということは、お師さまはこうなることを予測していたのかもしれない。
 そこまで考えて、ふと気付く。
 手土産が必要だろうか?
 ついでに置き土産も必要だろうか?
 しばらく考えて、私は刺繍針を手に取った。


『誠に勝手ながら、お暇をいただきます。
 平民の私には勿体ない厚情を賜ったこと、とても感謝しています。
 残念ながら、私には平民の暮らしが身についてしまっていて、とても貴族のお邸で暮らすことはできないようです。
 直接、ご挨拶もせずに姿を消してしまって大変申し訳ありません。
 どうかクレスト様におかれましては、私の出奔についてお邸の皆さんを責めることのないようお願いいたします。
 私は私の意志でこのお邸を出るのであって、お邸の暮らしに不便や行き届かない点があったわけではありません。むしろ皆様にはとても良くしていただいたのに(以下、使用人の弁護)。
 重ね重ね勝手にお邸を出ることを決めてしまって申し訳ありません。どうぞ皆様、お体にお気をつけください。
     マリーツィア』

 その手紙に、アルージェ伯の家紋を刺繍したハンカチーフを添えて、私は姿を消した。


「おかえり、マリーツィア。僕の予想よりも2ヶ月も遅い帰宅だね。随分と我慢強くなったもんだ」
 戻って来た私に、お師さまはいつもの調子で言葉をくれた。
「お師さま……」
「随分と綺麗な服を着て、腕の傷跡もすっかりなくなってしまったね。とりあえず、いつもの服に着替えるかい?」
 黒い瞳が柔らかく和む。
 私の目はいつの間にか涙でいっぱいになった。
「お師さま」
「うん」
「ただいま、です」
「うん、おかえり」
 私は四ヶ月ぶりに、大好きなお師さまの腕に迎え入れられた。
「貴族の邸での生活はどうだった?」
「とても、窮屈でした」
「お坊ちゃんからは帰宅を許されたのかい?」
「いいえ、手紙だけ置いて来ました。あ、これささやかですがお土産です」
 私は白いハンカチを開いた。
「刺繍と読書しかすることがなかったもので、随分と腕は上がりましたよ?」
 記憶を頼りに刺したのは、防腐と冷凍保存の魔術陣だ。工房の台所で毎日目にしていたから何となく覚えていたけど、万が一発動してしまったらマズいと、あえて陣を取り囲む円を一部欠けさせてある。
「こりゃ、すごい。随分と上達したもんだね」
「でしょう?」
 ハンカチを広げ、様々な角度から眺めるお師さまに刺繍の腕を誉められ、私は胸を張った。
「あと一刺しで発動するよ、これ」
「え?」
 予想外の反応に、私は思わず聞き返した。
「元々マリーの魔力は強かったけど、まさか刺繍で魔術陣を描いちゃうとはね。魔力が強過ぎるから派手な行使魔術は暴走の危険もあって向かないと思ってたけど、付与魔術は相性が良いみたいだ」
「お師さま、それって……」
「せっかく安穏とした貴族の生活から逃げて来たんだ、本格的に僕に弟子入りしてみるかい、マリー?」
 たなからぼたもち。
 お邸の書斎で読んだ本の中、そんな言葉があったのを思い出す。
「もちろんです、お師さま!」
 私は満面の笑顔で弟子入り志願をした。


 付与魔術に適性があるというお師さまの指摘は、どうやら当たっていたらしく、私はそれこそ水を得た乾物のように知識を吸い込んで行った。
 残念なのは、行使魔術がどうにも扱いきれないため、お師さまが見せてくれた花火を真似することができないということだ。火花を放つ石は作れても、空中で制止させたり、円を描いて飛ばしたりができない。何度かお師さまにサポートしてもらって行使魔術の基本である発火(蝋燭サイズの火を作る魔術)を試してみたのだけど、案の定、暴走させてしまって、危うく山火事を引き起こしてしまうところだった。
「魔力が強いのは良いことだと思っていたけれど、強過ぎるのも考えものだね」
 私はお師さまの言葉に、深く頷くしかなかったのである。
 だって、うまく制御できないものは仕方がない。魔力が強いものだから、舟漕ぎ初心者が急流下りに挑戦するような無謀なものだと言われてしまえば、納得するしかないじゃないか!

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