TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 34.焦燥(※クレスト視点)


 そこに到着した俺の目に飛び込んで来たのは、俺のマリーツィアに俗悪な視線を向けるゴミ二つと、彼らにその眩しいほど白く艶やかな背中を視姦されている彼女の姿だった。
「クズが……っ!」
 腰に佩いていた剣を抜くこともせず、鞘でゴミクズを昏倒させることに躊躇いなどなかった。殺すのも生ぬるい。マリーツィアに手を出すということが、どれほどの罪過なのか、骨身に叩き込んだ上でこの世の地獄を堪能させてやる。
「マリーツィア」
 俺の声が届いたのか、おそるおそる首だけをこちらに向けた彼女は、その紫玉の瞳に涙を湛えていた。
「クレスト、様?」
 俺は自分の上着を脱ぎ、彼女に被せた。正直、その姿は目の毒だ。彼女も自分の姿に思い至ったのか、顔を赤くして上体を起こし、俺に背を向けたまま引き裂かれた夜着を何箇所か結んで取り繕った上で俺の上着を羽織った。
 ようやく真正面から俺を見上げたマリーツィアの瞳は、まだ涙に濡れていた。そのアメジストの瞳に俺の姿が映った瞬間、何も考えられなくなって俺は衝動のままに彼女の細い身体を抱きしめた。


「―――クレスト様!」
 その夜、マリーツィアの身体を腕の中に収めた心地良い眠りを妨げたのは、見慣れた家令の顔だった。珍しく髪を乱し、狼狽した様子で俺の顔を覗きこんでいた。
「お休みのところ大変申し訳ございません。邸に何者かが侵入いたしまして――」
 妙だ。そう思った。
 いくらマリーツィアのぬくもりを感じていたからと言って、侵入者の気配を察知できないほど熟睡するだろうか。
「……被害は」
「金銭などが盗まれた形跡は見つかっておりません、が、一室だけ、荒らされております。そして、姿が見えない者が一人」
 俺は寝台から身体を起こしながら「誰だ」と呟いた。とりあえず、この騒ぎに脅えているだろうマリーツィアを早く見つけよう。
「マリーツィア様でございます」
「―――何だと?」
 俺は家令を押しのけるように立ち上がると、すぐさまマリーの部屋へ駆けた。これは悪夢か、何の冗談だ。
 だが、それは紛れもない現実だった。
 朝もまだ遠い時間、手燭の頼りない灯りの中でも、土足に踏み荒らされた絨毯が痛々しく目に映る。彼女が大事に使っていた刺繍の道具がその上に散らばっていた。今日、追及したばかりのバルトーヴ家の紋章が入ったチーフも無残に踏みにじられている。
「不審者を見た者は」
 俺の後ろについて来ていた家令は「門番が出て行こうとする三人の男と争い、負傷しております」と答えた。
 役立たず、と罵ろうとして気付く。それは俺のことじゃないか。ほんの数時間前まで腕の中にいたマリーツィアが攫われるのをみすみす逃してしまった。
「既に下男を走らせ、騎士団に通報させております」
 騎士団の中には王都の治安を守る隊も存在する。だが、伯爵家の三男坊の邸から、貴族でも何でもない娘が姿を消したからと言って、親身に探すようなものではない。
 それなら、と俺は右手の中指を見つめた。
 マリーツィアに与えたブレスレットと対で作った銀の指輪が手燭の炎に照らされ、オレンジ色に輝いていた。これを頼りに魔術で追跡させれば、と考えて一つの可能性に思い至った。
(協会が、一枚噛んでいる可能性はないか……?)
 マリーの存在を知り、かつ狙い打ちするような輩と言われれば、真っ先に思いつくのが協会魔術師の連中だ。だが、追跡させるには魔術師の力を借りる必要がある。こと魔術に関しては貪欲な連中だ、隠蔽などお手の者だろう。
 それならば、マリーの存在を伝え聞く筈もないはぐれ魔術師を頼るしかない。
 だが、それはそれで問題がある。マリーが最初に姿をくらました時、あのはぐれ魔術師の仕業に違いないと考えた俺は、王都にいるはぐれ魔術師たちを追い込んだ。それもあって、彼らからは蛇蝎の如く嫌われている。逆に協会魔術師と深いパイプを得る運びとなったが、それも最早邪魔でしかない。
「馬を準備させろ。バルトーヴの邸に行く」
「こんな時間にですか!? 先方に失礼となってしまいます……」
「相応の見返りを要求されるだろうが、今はマリーの安全が優先だ」
 着替えて帯剣した俺は、家令の制止を無視してカルルの邸に向かった。顔を見知った門番は、俺を勝手口から招き入れると、使用人の控えで待つように告げた。
 こうしている間にも、マリーが危険な目に遭っているかもしれないと思うと、焦りと恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
 夜明け前にたたき起こされたカルルには悪いが、寝ぼけ眼を擦りつつやってきたものだから、つい睨みつける真似をしてしまった。
「ちょ、落ち着けってクレスト。起き抜けにそのブリザードは色々と寿命が縮みそうで怖い」
「軽口を叩いている暇があるなら、俺の話を聞け。―――マリーが攫われた。魔術師協会が誘拐に手を貸している可能性がある。追跡の術を使えるはぐれ魔術師の伝手はあるか」
 途端に、カルルの藍色の目が細められた。真剣に考えている時のこいつのクセだ。逆に言えば、この表情をしているなら本気で考えているという証だ。
「クレスト、協会が関与しているという根拠は?」
「マリーの魔力の強さを知っている人間が何人かいる。独自の魔術陣を狙っている可能性もある。―――俺の寝所にこんなものが仕掛けられていた」
 俺はポケットに入れていた小さな紙片を取り出した。
「どんな効果の魔術陣かは分からない。だが、俺が邸内にみすみす侵入を許してしまった原因の一つかもしれない」
「あー、クレスト、お前ほんっとに寝てるのかってぐらいに眠り浅いしなぁ」
 カルルはなるほど、と親指を口元に当てて考え込んだ。
「無理が利きそうなはぐれ魔術師に心当たりはある。あまり使いたいカードじゃないけど、まぁ、他ならぬ女神様の危機とあっちゃ仕方ないな」
「いい加減、マリーツィアをそう呼ぶのはやめろ」
「はいはい。じゃ、ちょっと手配してくる」
 そう言って部屋を出たカルルは、ほどなく大きなティーポットとカップ二つを片手に戻って来た。
「お前のことだから、魔術師が来るまで休むとは言わないだろ」
 見透かしたように笑うカルルに苛立ちを感じないわけではないが、何故か俺の目はこいつの手にした陶器に目が吸い寄せられた。
「あれ、気付いた? いいだろ、これ」
「……茶会で見る物とは随分と違うな」
 くすんだアイボリーの地にきれいな緑の蔦が描かれているその陶器は形・素材ともに素朴な印象を受けた。ただ、緑の鮮やかさと、実を加えた鳥の深い藍色が目を惹いた。
「デヴェンティオって所で町おこしをやった時にね、ちょっと手に入れた。いい色だろ?」
 デヴェンティオ……マリーの居た町か。そういえば釉薬の件でこじれたとか言っていたな。あの町でマリーツィアがどんな風に暮らしていたか、調査報告が届いていたな。イヤリングの片割れが見つからないという箇所だけ拾って、全体に目を通すのを忘れていた。
「―――カルル。お前はどうしてマリーツィアを『女神』などと呼ぶ? お前の好みじゃないだろう」
 茶を受け取りながら尋ねると、目の前の男は驚いたように目を丸くした。
「今更かよ。……オレがお前を同じ人間として認識できるようになったのは、マリーのおかげなんだ」
「は?」
「クレストはさ、自分が無表情って自覚あるか? 美形の無表情って無駄に迫力あるし、怖いんだぜ? オレ、クレストのことクソ真面目な人形だと思ってたし」
 人形だと? ふざけるな。
 俺はバカ兄どもがやたらとちょっかい掛けて来るから、それを交わすのに冷たく蔑む目線を身につけただけだ。騎士見習いになってからも、人間関係が鬱陶しくて多用したことは否定しないが。
「そんなお前から感情とか引き出すネタがマリーだけだった。だから『女神様』なんだよ」
「待て、その話しぶりだと、お前にとっての女神ではなく」
「そうだよ。クレストにとっての『女神様』だ。おかしいな、ちゃんと君の部下にも浸透しているはずなんだけど。君が上機嫌になるのも不機嫌になるのも、たいていマリーが関わってるしな」
 絶句した。
 ちゃんと部下と意思の疎通を取らないとだめだよ。などと口うるさい悪友が、俺をそんな風に思っていたとは。
「あ、そうそう。今回の協力の報酬のことだけど」
 じろり、と睨みつけるとカルルは「睨むなよ」と苦笑いを浮かべた。
「マリーのピンチっぽいし、ふっかける気はないよ。ただ、ちょっと考えてることがあってさ」
「……」
「ただ、今ちょっとオレが構想を練っていることを実現化させる時が来ても、オレのことを間違っても兄呼ばわりしないで欲しいんだ」
 自然と眉間に力がこもった。いつも何を考えているのか分からないへらへらした男だと思っていたが、今は、いつにも増して意味不明だ。
「俺には姉もいなければ、お前に妹もいない。俺の家もお前の家も男子を養子縁組するような状況でもないだろう」
「うん、その通りなんだけど、詳しくはまだ言えない。そもそも構想段階だから―――」
リンゴーン リンゴーン
 小さな鐘の音に、俺は右手の指輪を見つめた。細かく振動し、僅かながら明滅を繰り返している。
「っ!」
 腰の後ろに挿した短剣を抜き放つと、無造作に横髪を一房切り落とす。
「カルル、万が一の場合は、これで俺の居場所を探してくれ」
「ちょ、なんだよクレスト。その指輪って、マリーのブレスレットと対になってるってやつだろ? 一体―――」
 慌てた様子のカルルに、一応説明しておくべきかと考えた俺は、要点だけを伝えることにした。
「マリーに渡したブレスレットには魔術が付与されている。どちらか片方を無理に外したり壊したりすれば、この警告音が鳴る。そして、もう片方もそうなれば、この指輪を付けている人間が、強制的にブレスレットの元に――マリーの所に転移される」
「な、聞いたことないよ、そんな魔術! それに転移だなんて向こうの状況も分からないし、どれだけ移動するかも分からない。長距離の転移魔術は双方に魔術師が必要なんだろう? 失敗したら」
「失敗したら、俺はあっちの世界とやらに取り残されるらしい。そう言われた。だが、マリーが攫われてから、まだそれほど経ってない。協会魔術師が関わっているなら、王都からそれほど離れさせないはずだ。――俺は、それに賭ける」
 そう、マリーツィアに会うために。
リンゴーン リンゴーン
 鳴り止まない鐘の音。いつになく険しい悪友の顔。
「……もし、お前が転移したら、オレは到着した魔術師にこの髪を渡して居場所を探せばいいんだな」
「あぁ、そうだ」
リンゴーン リンゴーン
 俺はお茶をくいっと飲み干した。
 鐘の音が鳴る中、しばし見つめ合う。
 あぁ、どうか。マリーツィア。無事でいてくれ。他には何も願わないから。


「なんて、無茶なこと、するんですか」
 俺がここへ来た方法を尋ねて来たマリーツィアは、その柔らかな唇を小さくわななかせた。
「転移は、着地点が本当に重要なんですよ? 過去にはうまく着地できなくて行方不明になった例がたくさんあるんです。なんでそんな無茶を―――」
「そのおかげで、間に合った」
 腕の中、俺を見上げるアメジストから、ほろり、と涙がこぼれおちた。水晶も真珠もダイヤモンドですら敵わない雫。
「マリーツィア。俺の『祈り』」
 俺の唇が、彼女の白く滑らかな額に触れる。すると、彼女は何故か目を丸く見開いて俺を見つめた。心なしか頬が赤いようにも見える。
「熱があるのか? この部屋は寒い。早くここから帰らなくては」
「――く、クレスト様。あの、もう大丈夫ですから、離してください」
「マリー、俺は君を離さない。少なくとも、邸に帰るまでは共に」
 俺は室内を見渡した。窓もなくここがどこなのかも見当がつかない。
「王都から北門を出て、山の麓にあるお邸です」
 ずっと意識はありましたから、と呟くマリーが、俺の腕の中で身を捩った。マリーの言う通りなら、貴族の別荘がいくつか点在している場所だ。首謀者が手持ちの別荘を使うとは考えにくいが―――
「そこで倒れてる人をどうにかしますから、本当に、離してください」
 マリーの瞳から本気を悟ると、俺は渋々彼女を抱きしめていた手を緩める。彼女は床に散らばったインク壷とペン、薄い便箋を手に取ると、慣れた様子でいくつもの魔術陣を描き始めた。俺の上着が大き過ぎるせいで、袖口を何度も引き上げる姿すら愛しい。
 だが、それと同時に、彼女が本当に魔術師なのだという実感が、俺の中にじわりと滲むような陰を落とした。マリーがその力を持っている限り、彼女を自分の手の中に閉じ込めるのが難しい、と。
「それは?」
「対象を四半日昏睡させる陣が二つと、逃げる時のための身体強化の陣、あと、万が一のための近距離転移の陣です」
 転がっている男の腰から短剣を取ると、マリーは器用に便箋を四分割した。
「先に、この人達の目が覚めないようにします」
 昏倒させるという陣が書かれた紙片を二枚手に取ると、地面に転がるクズの胸元に紙片を挟み、瞑目するように集中した。
「効果時間内は、何をやっても目が覚めないのか?」
「えぇ、基本的には……クレスト様っ!?」
 マリーツィアが驚きの悲鳴を上げたが、気に留める気はなかった。俺は、地面に転がったクズ野郎の腹を何度も蹴りつける。
「何をなさって―――」
「マリーの肌に触れた。本当なら手首を切り落としたいが、楽に殺してやる気はない」
 呆然と立ち尽くすマリーの髪を撫でる。そのついでに男の腕を踏みにじった。折れる感触が伝わってきたところで、少しだけ気が済んだ。
「頬を叩かれたのか? 赤くなっている。手首にも擦り傷があったな、他にどこをやられた? 何をされた?」
「や、その、そんなことより、早く脱出しないと―――」
「カルルが追って来る手はずになっている。無理に脱出しようとせず、ここで救出を待ったっていい」
 おろおろと慌てるマリーを見つめて、もう一度名前を囁いた。
 まず、マリーが何をされたのかを確かめなければ。
 そこに転がっている男、そして命令したであろう誰かに対する報復を考えるのはそれからだ。

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