36.水掛け論「マリーツィア」 帰って来たクレスト様は、部屋で大人しく読書をしていた私を見るなり、ほっと息をついた。 部屋に監禁されてから、もう五日目になるというのに毎日これだと私の気も滅入る。 「今日は何を読んでいた?」 「歴史書です。三代前のシュラム王には、第十二妃まで居たんですね。驚きました」 周辺国を併呑し、領土を拡大したシャマーン王の治世でさえ政略に基づき五人の妃を持つだけだったというのに、この王様は本当に好色だったらしい。王太子の頃から視察先でうなじのキレイな女性を見て声を掛け、城内で足首のきゅっと締まった女官とすれ違って声を掛け、そんな調子でどんどんと妃を増やしていったとある。側近はさぞや苦労したのだろう。 「聞き覚えがある。好色な王だったらしいな」 私の話を聞きながら、クレスト様は奥の寝室で騎士の制服から部屋着へと着替える。これもいつものことだ。部屋を繋ぐドアは開かれたままだが、もちろん覗きなんて、はしたないことはしない。逆にうっかり覗いてしまうようなことがあれば、相手に覗く口実を与えることに繋がりかねない。アマリアさんの協力の元、衝立の向こうで着替え、覗かれないよう死守している私にとって、それは避けたかった。 「政治的配慮もなく複数の女性を囲う人間の気が知れないな」 吐き捨てるように呟いたクレスト様は、着替えを終えて戻って来ると、私の隣に座る。 いつも通りの行動だから、もちろん私が動揺することもない。 することもない、のだけど―――。 (こんなの、何でもない質問なんだから) 少しだけ緊張して、手元の歴史書から顔を上げた。 「シュラム王の話を読んでいて思ったのですが、クレスト様はどうして私を引き取ったのでしょうか?」 「―――宴の席で見かけたからだが?」 残念ながら、質問の意図が通じていなかったらしい。 うぅ、どう尋ねれば疑問の答えが返ってくるのかな。下手に「私のどこが気に入ってるんですか」とか聞けば「全部」という参考にならない答えが返って来る上に羞恥で死にそうになって、骨折り損のくたびれ儲けになってしまうのは目に見えている。 そう、考え方を変えたんだ。 私の何に執着しているのかが分かれば、この状況を打開する策も見えてくるかもしれない、と。 「私はどこにでも居るような平民の娘です。クレスト様が、そんな私のどこに価値を見出しているのかが知りたいんです」 は、恥ずかしい……! でも我慢だ。我慢の時なんだ。 羞恥で頬が熱を帯びないよう、頭の端で魔術陣の構成を考える。目の前のクレスト様は、少しだけ碧玉の瞳を大きく見開き、次いで心底嬉しそうな微笑を浮かべた。 あまりに珍しく喜色を示すものだから、むしろこっちが驚かされた。 「俺のことをそんなに考えてくれたんだな、マリー」 違うっ! いや、違くないけど、全否定したい! あくまで現状打破のためにクレスト様のことを考えていただけで、決してそういう意味では考えていない……よね? まずい、だんだん不安になってきた。 困惑している間に、するり、と頬を撫でられた。剣だこのある手は少しざらついていて、否応なしに彼が鍛錬を積んだ騎士なのだと思い知らされる。 「マリー。―――マリーツィア。君の瞳だけが、俺の感情を掬い上げる」 いつにも増してキラキラと輝くエメラルドの瞳が、私の目を真っ直ぐに覗き込んだ。 近い! 近い! 顔が近いです! 「俺がずいぶん昔に小さな箱に押し込めた感情を、君は丁寧に拾い、磨き上げて俺に渡してくれる。そんな君が稀有な存在なんだと気付いたのは、愚かにも君が最初に姿を消した後だった」 さすがに正視できず、私は彼の手を拒んで俯いた。 やたらとキラキラしい詩的表現が並べられたもんだから、解読機能が追いつかないし、何より恥ずかしい……! コン、コン 遠慮がちなノックの音が、尚も追い討ちを掛けようとしたクレスト様の声を遮ってくれた。 何やら書類がどうの、という話で、呼びに来たハールさんと一緒に出て行くクレスト様の後ろ姿を見送って、はぁ、と息をついた。 あのままクレスト様の攻勢を受けていたら、思考が追いつかなくなるところだった。あの人は、自分の顔と声と言葉が作り出す三位一体の攻撃の威力を、一度じっくり省みればいいと思う。 「……さて」 意識して声を出し、頭を切り替えた。 さっきのクレスト様の言葉を、詩的表現を抜いたらどうなるかと考えてみる。 まず分かったのは、あの人が明確な執着を自覚したのは、私が最初にお師様のところに逃げ帰った時、ということだ。 (居なくなって、初めて分かる、か) そういえば、デヴェンティオでお世話になったトロンタンさんが、番犬のクメが蒸発したときに嘆いてたっけ。嫁に行った長女から押し付けられた犬だったのに、居なくなってしまった途端に寂しくなったとか。 私は犬を飼ったことがないから、ちゃんと共感できるわけじゃないけど、いつも身近にあるものがなくなった時の喪失感だったら分かる。私にとっての『マリー』だ。薬の調合中で手が離せない時に、ちょっとした雑用をこなしてもらったりもしたし、逆に薬液を煮詰める時に見張りに立ってもらったりと便利だった。今は本当に不便だ。全て自分の身体でこなさなければならない。まぁ、それが普通なんだけど。 話が少し逸れてしまったかもしれないが、日頃、手元にあったものがなくなってしまう喪失感というか欠乏感、うら寂しさは分かる。でも、これはどうすることもできない。私のいない生活に慣れてもらわなければならないところだ。 ―――で、もう一つだ。 確か、感情を拾って磨いて渡すとか言ってたよね。それって、どういう意味なんだろう? 自分の感情を磨くとか意味が分からない。 (……ん? 押し込めた感情?) そういえば、以前、アマリアさんから上の兄弟からのいじめのせいで、感情を表に出さなくなったとか聞いた。 そう、ひどいことをするもんだと思った。少なくとも生家では考えられなかったから。まぁ、兄弟をいじめるヒマがあれば、働けって感じだったと思うし。 まぁ、そんな理由で「氷の貴公子」なんて偶像ができてしまったわけだけど、私はクレスト様の機嫌の良し悪しを測るために、眉の上げ下げや、口の端の角度なんて些細な場所から彼の喜怒哀楽を読み取ることができる。そりゃ、必死で観察したもんだ。下手な時に下手なことを言えば、首をきゅーってされるしね! さっきのクレスト様の詩的表現を解読すれば、そういうことなのかもしれない。 クレスト様自身も曖昧になっている感情表現を、私が必死で読み取って、それをまたクレスト様に教えている? 自分の感情が分からない、なんてことがあるんだろうか? うーむ。 私は気分転換に外でも見ようと、ソファから立ち上がった。 途端、くらり、と視界の色が反転する。慌ててソファの背もたれを掴んだから倒れたりするようなことはなかったけど、眩暈が落ち着くまで、二、三秒はかかった。 最近、こういうことが多い。うっかり魔力をダイヤに込め過ぎてしまっているのか、単純に運動不足なのか。きっと後者だろう。 (せめて、庭を散歩できたらいいのに) ソファから窓まではほんの数歩しかない。こんなことでは、遠くないうちに足が衰えてしまうだろう。もしかしたら、それすらも彼の策なのかもしれないと思うと、ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。 (まさか、そこまでは……ないと思いたい) 眼下に広がる庭は、落ち葉も目立ち、すっかり秋の装いだ。落日で赤く染まる空は、庭すら赤く染め上げている。一通り歩いて、東屋で一服なんてことをしたくても、許可は下りない。 「マリー?」 戻って来たクレスト様は、窓辺に立つ私を後ろから抱きしめ引き寄せた。 私が窓の外を見つめていると、いつもこうだ。 また逃げるんじゃないかと不安になるらしい。まったく、心配性にもほどがある。今の状況で、どう逃げろと? あぁ、なんだか怒りがふつふつと沸いて来た。 最近は、自分でも情緒不安定になっている自覚はあるけれど、自覚があっても感情は抑えられるもんじゃない。 「部屋を出るのも認めてもらえないのに、外を見ることさえ制限するんですか?」 トゲを含んだ声に、クレスト様の腕が僅かに強張る。そんな些細な仕草でさえ、困惑と苛立ちが半々ぐらいなんだろうと測ってしまう自分が苛立たしい。 あー、あー、今日はダメだ。抑えられない日だ。 「もう十分でしょう? クレスト様の要求通りに、朝も一緒、食事も一緒、夜眠る時まで一緒にいるんです。居場所を制限されて、自由なんてほとんどない生活なのに、これ以上、私から外を見る自由まで奪うんですか?」 トゲトゲしたものを吐き出しても、心のイライラは治まらない。ダメだと分かっていたも、押し込められたストレスは、他の行き場もなく荒れ狂う。 腰に回された腕を、ぐっと掴んだけれど、離れてはくれなかった。 「離してください」 「だめだ」 クレスト様の即答に、私はぎりりと歯を噛み締めた。 「ダメだ、ですか? あれもダメ、これもダメ、どれくらい禁止事項を増やしたら気が済むんですか! それに、そもそも言葉の使い方が間違っているでしょう。ダメだ、ではなく、イヤだ、なんじゃないですか?」 腕の中で身を捩り、ぐっと睨みつければ困惑すら通り越して全くの無表情になってしまった美貌があった。 「マリー、何をそんなに怒っている?」 その、言葉に、頭のどこかで、「ぷつん」と切れる音がした。これが堪忍袋の緒というやつなのか、と冷めた視点で理解する。 何度も言葉を重ねているのに、それを理解しようとすらしないのか、と視界が真っ赤に染まった。 頑張って来た。 少しでも妥協点が見つかるんじゃないかと、そう思っていた。 おんなじ人間なんだから、話せばあるいは、と考えてた。 きっと説得できるポイントがあるんだと。 コンコン、とノックの音があったような気がした。心配そうなアマリアさんの声が聞こえたような気がした。 でも、そんなことも、本当にどうでもよくなってきた。 「出てってください」 「……」 「人の話も聞かずに、自分の都合だけ押し付けるあなたの顔なんて、見たくない。私がこの部屋を出てはいけないというなら、あなたが出てって!」 叫んだ瞬間、クレスト様の表情が初めて見るものに変わった。 「マリー……?」 「あなたを映さない瞳がイヤなら、抉り取ればいい! そうすれば、私もあなたの顔を見なくて済むわ!」 もう我慢の限界なんだ。 いつもの丁寧口調すらかなぐり捨てて叫ぶと、バタンと大きな音を立てて入り口のドアが開いた。 「クレスト様! 早まってはいけません!」 「マリーツィア様! ご無事ですか!」 入って来たのはハールさんとアマリアさん、その後ろに何人かの使用人さんが続いた。 ハールさんを筆頭に男性の使用人さん達が私からクレスト様を引き剥がすと、アマリアさんが私をぎゅっと抱き締めた。 「お二人とも、落ち着いてください」 大した抵抗もなく、呆然とした様子のクレスト様が部屋の外へと連れて行かれるのを、私は冷たい目で見送った。 もう、どうにでもなれ、と自棄を起こしていた。 ![]() 「落ち着かれましたか?」 アマリアさんに淹れてもらったハーブティを口にして、私はほぅ、と息を吐いた。 「……もう、無理です」 ぽろり、と弱音がこぼれる。 「どうしたら話を聞いてくれるのか、さっぱり分かりません」 アマリアさんは、そんな私を痛ましそうに見るだけだ。逃げたいと言っても味方にはなってくれないだろう。きっと、私に対する期待が残っているんだろう。だから、何も言わない。 「傍に居ろ、って強要するだけならまだマシです。あれもダメ、これもダメ、私にいったい何を求めているんでしょうか。あの人を嫌い抜いていたとしても、傍にいるだけで良いということなんでしょうか」 あの人の考えが本気で分からない。 さらに言うなら、……自分の気持ちも分からない。 出て行って、そう叫んだ瞬間の、彼の顔を見なければ良かった。後悔してももう遅いとは分かっているけれど。 あんな表情を浮かべるなんて、反則だ。 「マリーツィア様?」 長く黙り込んでいたせいだろう。アマリアさんが私の顔を心配そうに覗きこんでいた。 「……ごめんなさい。今日は、少し調子がおかしいみたい」 大丈夫だと笑顔を浮かべようとしたけれど、失敗して口元が引き攣ってしまった。 「そういう時もあります。ましてやこんな状況です。苛々してしまうのも仕方がないことですよ」 そういうときは、これですよ、なんてアマリアさんが差し出して来たのは、一口サイズのショコラだった。焦げ茶色の甘いお菓子は、最近王都で流行している新しい甘味だ。原材料を遠く南の国から輸入しているため、随分と値が張ると聞いたような気がするけれど…… 「クレスト様からのお土産です。本当は明日の午後にお出しする予定でしたが、今、お出しした方が良いと思いまして」 その言葉に、色々な考えが頭を巡った。 たとえばアマリアさんのセリフは、私がクレスト様を少しでも嫌わないようにという、また逃げることのないように、というご機嫌取りなのか、とか。 クレスト様も、一応、私に対して気遣いをしているのか、とか。 これを食べてしまったら、仲直りのきっかけにしなければいけないのか、とか。 やっぱり、今日は思考が下向きになっている。どうしても意地の悪い方向へと考えが逸れていくのを止められない。素直に謝罪のお菓子として受け取ればいいだけなのに。 コンコン 「はい」 アマリアさんの返事に名乗ることなく入って来たのは、クレスト様だった。後ろに少し慌てた様子のハールさんが居るということは、引き止めるのに失敗したということなんだろう。 「マリーツィア」 私は僅かに拳を握ってから、のろのろと彼に視線を移した。その表情はいつも私に見せるものよりも、幾分か強張って――つまり、いつもより無表情に見えた。 「……なんでしょうか」 視線がぶつかり合えば、僅かにエメラルドの双眸が揺れたような気がする。 「まだ、怒っているのか」 ふと、思う。 さっきの今で、真正面からこんなことを尋ねて来るなんて、よほどの正直者か、それとも――― (あぁ、そう) ふと、カルルさんしか友だちがいない、という話を思い出した。対人スキルは著しく退化しているのかもしれない。 (それでも、小隊長なんだから、部下や上司とはちゃんとした関係を築けていると思うんだけど) もしかしたら、仕事モードとプライベートモードで切り替えスイッチでもあるのかもしれない。 どちらにしても、ここは大人の対応で行こう。 「……先ほどは、声を荒げるようなまねをして申し訳ありませんでした」 私の言葉に何を思ったか、すたすたと近づいて来るクレスト様。無表情のままなので、私にもその意図は分からない。 何があっても良いように、と座っていたソファから立ち上がり、……また、くらり、と眩暈を起こした。 「マリー?」 一瞬の気持ち悪い浮遊感の後、真正面から抱き止められていることに気付いた。 「顔色が悪いな」 「少し、立ちくらみを起こしただけです」 見上げれば、少しだけ眉が下がって、安心してくれたのだと分かる。 「クレスト様、さきほど、私が言ったことは、紛れもない本心です。それだけは、忘れないでくださいますか?」 視界の端で、ぎょっとした表情のアマリアさんが見えた。せっかく落ち着いたと思ったのに、話を戻してしまってまた似たような展開になると危惧しているんだろう。 「……分かっている。前向きに検討するつもりだ」 予想外の答えに、私はまじまじとクレスト様の顔を見上げた。その言葉が本気なのかどうか、見定めようとする前に、ハールさんがアマリアさんを呼び寄せて何かを耳元で囁いている気配が分かった。 (―――まさか、ハールさんの言葉、そのまま私に伝えたり、とか?) 残念ながら、私が見上げるクレスト様の表情からは、検討する意思や、本気ですまなかったと思っているようなふしは読み取れない。 だんだんとハールさんの入れ知恵なんじゃないかという疑念は高まる。むしろ、そうとしか思えない。それでも、言質を取ったから、まず一歩だと考えてもいいと思ってしまった自分がいて、軽く絶望した。 でも、まぁ。 「そうしていただけると、嬉しいです」 にっこり笑って肯定すれば、なんだか胸を撫で下ろすかのように翠玉の瞳が和んだ。 後から思えば、私はクレスト様を許したわけではなく、あの表情を二度と見たくなかっただけなのかもしれない。 顔も見たくない。出て行って。 そう言葉を投げつけた瞬間、珍しくクレスト様の顔には素直な感情が浮かんでいた。 それは、例えて言うなら……どうしようもなくなった迷子の表情。 間違った道を選んでしまったけれど、今更後戻りはできないと気付いてしまったような、希望を失ってしまったような。 たった一人、どことも知らない場所に置き去りにされてしまったような。 私だって、そんな感情に覚えがないわけじゃない。 クレスト様の追っ手に脅えながら、どこで間違えなければ人並の幸せを掴めていたのか、なんて思い悩んでいた時、きっと似たような表情を浮かべていたと思う。 ただ、自分と同じあの感情を、クレスト様に味わってもらいたくはなかった。 あれはひどく、寂しいものだから。 | |
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