TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 39.訓戒(※クレスト視点)


「クレスト・アルージェ小隊長、少し時間はありますか?」
 小隊長に課せられた訓練日誌を提出に来た俺は、そう呼び止められた。
 書類仕事用の机に座ったその人は、少しくすんだ灰銀の髪を後ろで一つにくくり、目を細めて手元の資料に見入っている様子だった。忙しそうにしているから、提出と挨拶だけですぐに部屋を出ようと思っていたのだが、そうすんなりとはいかなかったらしい。
「できるだけ早く帰宅させていただきたいので、手短にしていただけるのでしたら」
 最近、マリーの様子がおかしい。
 いつもなら、俺が帰ると必ず愛らしく「おかえりなさい」と声を掛けてくれるのに、ソファに横たわったままのことが多い。
 体調が悪いのかと聞いても首を横に振る。医者もいらないと言う。
 だが、状態は日増しに悪くなるばかりだ。やはり無理にでも医者を呼びつけて―――
「君のかわいい女神様が待っているから、ですか? 相変わらずですねぇ」
 目の前のラウシュニング大隊長は、おっとりと微笑んだ。
 この人は変わらない。
 俺やカルルを熱心に指導してくれた変わり者だが、同時に頭の切れる人だ。話し方こそゆったりとしているが、剣技はまだ俺の及ぶところではなく、今度団長に内定したというのも納得の人柄だ。数少ない、俺が騎士団で尊敬できる人間の一人でもある。
「大隊長、からかいの言葉なら―――」
「ちょっとした面談ですよ。まぁ、座りなさい」
 いつもは細められた目が、僅かに見開かれたのを見て、俺は慌てて勧められたイスに座った。
 日頃穏やかな雰囲気を醸し出しているが、細い瞳が開いた途端、鬼教官に成り代わるのを何度も体験している。早くマリーの下へ帰りたいが、迂闊な行動をとれば逆に時間がかかってしまうということは嫌と言うほど知っていた。
「わたしが騎士団長に内定したという話は聞いているでしょう?」
「はい」
「そうするとですね、第三大隊の大隊長のイスが空くんですよ」
「……はぁ」
 何を当たり前のことを言っているのか。
 だが、ここで迂闊なことを口にすれば、妙に話が長くなりかねない。じっと堪える道を選ぶ。
「まぁ、大隊長の後任も既に決まっているんですけどね。でも、その人材がこれまで就いていたポストに空きが出る」
 さらに当たり前のことを畳み掛けられた。結局何が言いたいのかと考えを巡らせて……、一つ、思い当たるふしがあった。
「まさか、俺が―――」
「気付きましたか。まぁ、気付くまで延々と説明しようかとも思っていたんですけどねぇ。残念です」
 ラウシュニング大隊長はにっこりと微笑んだ。
「ですが、大隊長。順序を考えれば、俺ではなくベリル・マルセウスが昇進すべきでは?」
「残念ながら、彼は部下の心象が非常によろしくないのですよ」
 微笑んだままで、俺より四つ年上の小隊長を切り捨てた大隊長は、やれやれと肩をすくめた。
「どうにも下の者に厳しく当たる性格は矯正しきれないようで、――厳しいのも公平なら良いのでしょうが、自分の機嫌やお気に入りの贔屓があっては、ねぇ。上に立つ者としては、少々欠格と判断せざるをえませんねぇ」
 確かにベリルは権力を笠に着るタイプだ。あれを上司には持ちたくないので、大隊長の意見には賛成する。
「その点、君は部下に平等に厳しい。面倒見も悪くはない。一月前の闘技大会は、なかなかの好成績でしたしねぇ」
 騎士見習いの闘技大会の結果は、確かに良かった。それでも、マリーの頼みでなければ、あれほどきちんと稽古はつけなかっただろう。そう考えると、大隊長の評価は少し買い被りに思えた。
「闘技大会の成績を見れば、カルルも十分昇進に値するのでは?」
「彼が騎士団に腰を落ち着けるのであればねぇ。目端の利く、非常に得がたい人材ではありますが、あと一年もしないうちに彼は騎士を辞めるでしょう。そんな人間をこれ以上昇進させることはありませんねぇ」
 それに、と続ける大隊長の目が光った気がした。
「彼のところのスクアロも、君が稽古をつけたでしょう?」
 知っていたのか、とその情報収集力に舌を巻いた。
 きちんと稽古をつけたのは、マリーが見学に来ていた開放日だけだったのだが。まぁ、そういうのを見逃さないからこそ、団長に内定するのだろう。
「ご存知でしたか」
「別に見ていたわけではありませんよ。そういうのは、自然と耳に入って来るものですからねぇ。―――さて」
 穏やかな雰囲気を纏っていたラウシュニング大隊長が、最後のたった一言だけで、ぴり、と空気を引き締めた。
「本題に戻りましょうか。クレスト・アルージェ小隊長」
「はっ」
 はらり、とほつれた銀髪を耳にかけ、まっすぐに俺を見据えた。思わずこちらの背筋が伸びる。
「尋ねたいのは、君の大事な女神様のことですよ」
 なぜ、と俺は大隊長をまじまじと見つめたが、残念ながら、俺なんかに真意を悟らせるような人間ではない。俺は辛抱強く、その先に続く言葉を待つしかなかった。
「騎士団に入る際に、多くの領民の為でなくただ一人のために命を使いたい、そう宣誓しましたが、今もその言葉に偽りはありませんか?」
 その問い掛けに、俺は頷いた。言葉こそ選んだものの、あの時の気持ちは今も変わりない。
「そのただ一人は、……君の女神様のことでしょう?」
 大隊長のその言葉は、予想の範囲内だった。多かれ少なかれ俺の真意に気付く人間は居ると思っていた。カルルなど、即日気付いた。
 そう。最初から、国王などに命を捧げるつもりはなかった。あの頃から、俺の命は、守りたいと願ったマリーツィアのためだけに。
「君の女神様は、今はどうしていますか?」
「お言葉ですが、大隊長。それが俺の昇進に関わる内容とは思えません」
「わたしは君に質問を許しましたかねぇ?」
「―――失礼いたしました」
 どうして、このタイミングで。
 そんな考えが頭をよぎる。だが、何も答えないわけにもいかなかった。
「彼女は、俺の邸で過ごしています」
「仲は良好ですか?」
「大隊長の考える『良好』と同じかは分かりませんが、心穏やかに過ごしています」
 俺の回答がお気に召さなかったのか、ラウシュニング大隊長が大きなため息をついた。
「君のような嘘をつかない嘘つきの相手は面倒ですねぇ。真実の一側面しか話そうとしないから、こちらも気を付けていないと、すぐ見過ごしてしまいます」
 あぁ、これだから、この人は。
「質問の方向性を変えましょうね。クレスト、君は彼女と相思相愛の関係を築けていますか? 一方的な崇拝ではなく、彼女からも想いを返されていますか?」
 ずきり、と胸が痛んだような気がした。
 十日ほど前の口論を思い出す。珍しく彼女が声を上げて俺を非難した時のことだ。彼女は何と言っていたか。そう、自由を、と。
「正直なところ、分かりません。俺の考え方と、彼女の考え方は随分と違います。それでも、彼女は俺をきちんと見てくれている。こんな顔や、地位に惑わされずに。それだけは断言できます」
 そう、彼女の神秘的な瞳は、俺を真っ直ぐに見つめてくれている。俺自身でさえ気付かない俺のことまで、気付いて、教えてくれる。
「なるほど、騎士に叙勲された頃と変わりませんねぇ。それはまた、大問題ですよ」
「どういうことでしょうか」
「中隊長に上がれば、一番下の部下まで直接見ることはほとんどありません。配下の小隊長の報告を通して見ることが大半です。それだけ、人間に対する観察眼が要求されるということですよ」
 にこり、と微笑んでいるが、大隊長の薄く開いた黒檀の瞳は笑っていなかった。
「騎士は、必ずしも清廉でも、従順でも、真面目でもない。清濁併せ持った『人間』です。中隊長以上の人間には、それを上手に嗅ぎ分け、操縦するスキルが求められるのですよ」
 そんなことを言う大隊長に、俺の全てを見透かされているようで、居心地が悪かった。だが、まだ退室の許可が出ていない以上、ここから立ち去るわけにもいかない。
「君は、仕事の面では優秀ですから、それほど心配はしていないのですけれどねぇ。どうにも、女神様のことになると視界が曇っていそうですね」
「そ、そこまで言われる筋合いは」
「ありますよ。君はわたしの不出来な弟子ですから」
 そこを言われると辛い。
 商人上がりの貴族、しかも嫡男ということで風当たりの強かったカルルと、無駄に女性に好かれる顔立ちで独身騎士からの反感を持たれていた俺を鍛え上げてくれたのは、目の前の男だ。
 鬼のような指導を受けたおかげで、今の俺たちがいると言っても過言ではないぐらいの恩義を感じている。
 だが、あくまで騎士団の中での話で、マリーツィアのことまで言及する権利はない。そう思う自分も確かに居た。
 だが、別の自分が、今の自分とマリーツィアの関係に歪なものを感じているのもまた確かで、そこを目の前の恩人が標を教えてくれるのではないかとも期待していた。
「騎士見習いだった君から見て、彼女はどういう人間でしたか?」
「―――不幸な境遇に身を置きながら、素直な性格で、俺が守ってやらなければ、と思うほどか弱い子、でした」
 俺よりも二つ年下だという彼女は、少し痩せ気味でうっかりすると壊れてしまうのではないかと思っていた。事実、そういうふうに扱っていた。
 いつからか、俺をじっと見つめるクセができていて、その視線をまともに受けるのが怖かったほどだ。俺は、決してそんな目を向けられるほど上等な人間ではないから。
「では、今の彼女は? どういう人間ですか?」
「それ、は―――」
 ウォルドストウで女給をやっていた時は、表情もくるくると変えて楽しそうに仕事をしていた。群がる男の客の目を、全て抉り取ってやりたい焦燥にかられた。
 デヴェンティオで会った時は、少し、脅えた表情をしていたのが気になった。それでも、俺に何度も噛み付いてきて、同じ年頃の部下たちに見習わせたいと思ったものだった。いや、部下にはあの愛くるしさは不要か。
「口ごもる、ということは、今まで真剣に考えたこともなかった証ですね。ですが、君の表情で計れるものはあります。―――あぁ、無表情に戻らなくてもよいのに」
「別に、オレは……」
「君は本当に女神様のことになると、表情が年相応に戻りますね。騎士としてよいことか悪いことかは、置いとくとしても、……今まで、あまり自覚していなかったでしょう? 君が成長したのと同じように、彼女も成長したのだと」
 何だ。ラウシュニング大隊長はいったい何が言いたいんだ。
「年齢を聞く限り、彼女も立派な大人でしょう。平民出身と聞いたことがあります。それならば、なおさら、守られているだけの子どもではないのでは?」
 その言葉が、マリー自身からも語られたことがあったような気がして、胸がずん、と重みを増した。
「大隊長、この面談の目的はいったい何なのですか?」
 そもそもは中隊長昇任に関わる面談だったはずだと思い出し、何とか話の流れを変えようと口にすれば、何故かにっこりと微笑まれてしまった。
「わたしのささやかな餞ですよ。団長職はあれこれと忙しくて、君たちときちんと話せる時間も少なくなってしまいますからねぇ」
「餞というのは、むしろ俺から贈るべきものでは?」
「そうですね。でも、君の昇任は決定事項ですから、言葉の使い方は間違っていませんよ」
「大隊長!」
 やられた。
 思い返してみれば、目の前のこの人は、一度たりとも、この面談の結果を元に俺の中隊長昇任を検討するとは言っていない。全ては勝手な俺の憶測だ。
「他の中隊長、大隊長も承認しています。むしろわたしが反対していたぐらいですから」
 何故、というのは愚問だった。それは、ここまでの話の流れで十分推測できる材料は揃っている。
「君の口から彼女の名前が出るたびに、心配だったのですよ。心の拠り所として女神様を神格化するあまり、その彼女を一人の人間として見ることができていないのではないかと思いましてねぇ」
 君、よく祈るように口にしていたでしょう、と問われれば、自覚があるだけに頷くことしかできない。実際に、彼女は俺の祈りだから。
「マリーツィア。確かに古い言葉で『祈り』を表していますが、それはあくまで名前でしかありません。君が彼女とどういう関係になっていくかは分かりませんが、君は有能ですからね、悲観はしていませんよ。ただ、彼女ときちんと向き合えているのか、それだけが気になっていたのです。と言っても、女性の気持ちというのは、我々男にとっては謎でしかありませんけどね」
「既婚者である大隊長に言われると、真実味があります」
「そうですね。妻と連れ添って二十年、子も為した仲だというのに、いまだに謎で溢れていますよ」
 ラウシュニング大隊長が愛妻家だというのは有名な話だ。たまに公の場で夫婦揃って出席することがあるが、お互いを尊重しあう仲の良さに結婚に憧れる若い騎士も多いと聞く。
 俺は、マリーとそんな風になりたいと―――思っているのだろうか。
「さて、もう退室して構いませんよ。正式な辞令は近々下される予定ですが、口外はしないように。カルルにも、ですよ」
「了解しました。それでは失礼します」
 俺はイスから立ち上がると、一礼して部屋を出た。
 いつの間にか窓の外は夕闇が広がっていた。冬も近づき、日が落ちるのが早くなったと実感する。
(マリー……)
 俺は、何かを間違っていたんだろうか。
 身を切られるような想いをした誘拐事件の後、一度だけ口論をしたことを思い出す。
 俺に出て行けと叫んだ彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていなかっただろうか。
 自由がなくて息が詰まりそうだとも言われた。マリーの安全確保のためには仕方がないと、何度も説得したが、それすらも間違っていたのだろうか。
 ここ最近の、マリーの状況は異常だ。
 食欲も落ち、口数も少なく、反応も薄い。
 俺は、マリーが傍にいれば、それで十分だと思っていたことが、間違いだと思い知らされた。
 俺は、くるくると感情のままに話し、笑い、怒るマリーを見たい。そんなマリーに俺を見てもらいたいと思っている。
(オレが、間違っていたのか……?)
 東からじわりじわりと迫る宵闇が、まるで不安の象徴のように、その領土を増やして行く。
「マリーツィア」
 俺は、祈りの言葉を口にした。

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