TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 46.熱情(※クレスト視点)


 お前はどこか壊れてる。
 初めてそんなことを言われたのはいつのことだったか。
 度重なる長兄・次兄のいたぶりに、感情を表に出さないことを覚えてしまったのは、ある意味では失敗だったのだろう。
 それでも、後悔はなかった。あの時、取れる回避手段の中では、一番手っ取り早かったからだ。
 俺の無表情ぶりに、同年代の遊び相手も一人減り二人減り、結局、隣に居座ったのはたった一人だけだった。その一人も、俺の地位を目当てにしていたんだと、当人の口から聞かされている。
「お前、友達いないから、ちょっと仲良くなっておけば、全部で返って来るだろ?」
 十人友達のいる人は一割しか心を傾けないが、一人しか友達のいない俺は十割の心を返すというあいつの持論は、残念ながら俺には理解できなかった。きっと商家ならではの発想なんだろう。
 そいつも常に俺の傍に居るわけではないから、自然と、一人で読書することも多かった。
 当時、本邸に住んでいた俺は、書斎の隅で隠れるように騎士物語を読むことが多かった。兄に何かとちょっかいを出される俺は、弱い者を守る騎士に憧れを抱いた。領地を持つ貴族の次男・三男の立場はたいてい決まっていて、俺も例に漏れず長兄の補佐をさせられることは目に見えていた。自分より劣る相手に仕えるなんて、そんな愚かな将来に希望など抱けるはずもない。
 ただ一人の友が、親の教育方針で騎士見習いになると聞いた時、これだと思った。騎士として身を立てれば、あの暗愚な長兄の補佐などしなくても済む。
 彼女に会ったのは、そんな頃だった。
 同じく騎士を目指す同年代の男に誘われて――確か、妹がどうとか言われた気がする――出向いた先の小さな夜会。
「それじゃ、マリー。悪いけどいつもの」
「はい、分かりました。お師さま」
 やたらと妙な目線を寄越す少女たちに嫌気が差して、途中で帰ってしまおうかと広間を出た俺の耳が、そんな遣り取りを拾った。
 いたいけな少女の声で「お師さま」という不似合いな言葉が紡がれたことに興味を引かれて、俺は会話の漏れ聞こえる部屋をそっと覗き込んだ。
「っ」
 あどけない少女が、小さな痛みに声を洩らす。その手には短剣。腕から流れ落ちる赤い液体。
 だが、痛みに顔をしかめた少女が、保護者とおぼしき男に向けた全幅の信頼を寄せる笑顔に目を奪われた。
 少女に労いの声を掛けるも、話の流れから察するに、少女が自傷に至ったのはその師の命令に他ならない。それなのに、少女は自らの痛みを苦にすることなく、彼に笑顔を向けている。その光景にかつてない衝撃を受けた。
 なぜ、どうして。
 虐げられている少女が、虐げている者に笑顔を向けるなんてことがあるのだろうか。
 それとも卑劣な策か何かで、笑顔すら強いられているのだろうか。
 もしくは、かつて自分が感情を隠すことを選択したように、少女も負の感情を笑顔で隠しているのだろうか。
 どこか呆然としたまま広間に戻ると、「お師さま」と呼ばれていた男が出て来た。あの少女の姿は見えなかったが、これから余興を見せるのだと言う。
「将来を担う紳士淑女に幸あれ」
 黒に見事な銀糸の刺繍が施されたローブを身に纏った男の声が、室内に綺麗な虹の橋をいくつも作り上げた。途端に広間のあちこちから感嘆のため息と歓声が聞こえる。
 俺は、まやかしの虹なんてどうでも良かった。
 いくつものグラスをトレイに載せた給仕を見つけ、慌ててその袖を引く。
「あの男はどういう人物だ?」
 俺の顔を見て、一瞬呆けたような顔をした給仕の女は、再び同じ質問を繰り返すと、ようやく望む答えを返す。
「エミリア様のお気に召すようにと、派手な術を使える魔術師を呼んだと伺っております。シーズンを挟んで冬の終わりから初夏にかけて余興を見せに王都にやってくるはぐれ魔術師は、数こそ少ないものの珍しくはございません」
「―――あいつの名は?」
「魔術師のイスカーチェリ様と伺っております」
 情報はそれだけで十分だった。
 まだシーズンは始まったばかり。王都にいるなら、また会うこともあるだろう。そうのん気に考えた。
 後日、いやというほど後悔することになるとも知らずに。
 俺は魔術師に対する認識が甘すぎたことを知る。王城の警護に限らず農業の発展まで広くこの国を支える魔術師たち。その一部が、不足する魔力を補うために魔力の強い人間を飼い殺すということを聞いたのは、あの少女に会った翌日のことだった。
 魔力は人の身体を巡る。血はその最たるものなのだと言う。つまり、あの光景は、まさに少女があのはぐれ魔術師に酷い目に遭わされている瞬間だったのだ。
 そこからは、早かったと思う。
 それまで頑なに断っていた誕生日のパーティを許可すると、父親は飛び上がって喜んだ。そして当日の珍しい「おねだり」にも頷いた。
 父の力を借りることは避けたかったが、俺はまだ十四になったばかりの騎士見習い。一刻も早く少女を救うには、これしか方法が思い浮かばなかった。
 そうして引き取った彼女だが、俺は彼女をどう扱えば良いか分からなかった。
 自由に解き放てば、きっとあの魔術師に囲われてしまうだろう。あの少女を守るためには、どうしたらよいかと。
 とりあえず、危険から遠ざけるために、と考えて、邸の中から出さないように言いつけることにした。
 その時の俺の魔術師の認識が、ひどく甘いものだと思い知らされるのは、四ヵ月後。


「う……ん」
 俺の隣で眠る彼女が、ころり、と寝返りを打った。腕の中から逃れるように離れることすら許さなかったのは、昨日までのこと。
 もう、自分から逃げることはないと確信しているからか、背を向けてしまった彼女の黒髪をするり、とすくい上げる。さらさらと指の隙間からこぼれる感触が、過去を思い出して波立っていた俺の心を落ち着かせた。
 俺に群がる貴族の令嬢たちは、俺を見ているようで、俺の顔と地位にしか興味のない連中ばかりだった。
 マリーだけが、無表情・無感動・無愛想・無口の四無しと言われる俺の気持ちを読み取ってくれる。
 それがとても稀有な反応なのだと気付いたのは、愚かにも彼女が家紋を刺したハンカチーフを置き土産にして、俺の元から去ってしまった後のことだった。
 時には俺自身も気付かない感情を掬い上げて見せてくれたマリー。悔しいが、カルルがそう評したように、彼女は俺の女神なのだろう。
 今はもう使われていない古い言葉で「祈り」を表す少女の名前。今は隣で眠る女神に、俺が祈りを捧げよう。
「んぅ…」
 小さく震えた彼女が、再びころん、と寝返りを打った。
 俺の胸元に頬を寄せる。その足先と指先が冷たくなっていた。気付かなかったが毛布から外に出てしまっていたらしい。
「マリーツィア。寒いから、あまり俺から離れるな」
 囁くように注意しても、眠りの淵にある彼女は返事をせず、小さく身動ぎするだけだ。
 何度も夜を過ごすことで、こうした無防備な身体を晒すようになったのは俺のせいだ。初めの数回は緊張しきっていた様子だったが、同じことを繰り返すうち、俺を安全な男だと認識したようだ。
 今日も、予想外の告白につい浮かれて唇を奪うどころか口内まで堪能してしまったというのに、彼女はこうして身を寄せて来る。
 婚約者という間柄になったのだから、このまま美味しく食べてしまおうか、という欲望が頭をもたげる。
 だが、せっかく自分から寄って来るようになったのだから、もう少しだけ待ってみようかという理性が働き、大きく息をついた。
 一時期は、このまま逃げ続けられるぐらいなら、手の中で命を絶ってしまおうかとも思っていた俺が、何とまぁ、余裕が出たものだと思う。
 もしかしたら、いつかラウシュニング殿に指摘されたように、彼女を一人の人間として見ることができていないせいだったのかもしれない。
『―――私、クレスト様のことが、……好き、です』
 あの深いアメジストの瞳に真っ直ぐに射抜かれ、そう告げられた時、俺は一度死んだ。そう思った。
 ようやく呼吸を思い出すと同時に、信じられないと自分の耳を疑った。
 だが、あの神秘的な瞳はただひたすらに俺に訴えかけてきた。
 嘘ではないのだと確信して、俺は緩んだ顔を見られたくなくて慌てて顔を背けてしまったが。
(あの瞳は、反則だ)
 俺の無表情の仮面をやすやすと剥ぎ取るような。
 いや、違う。そんな仮面なんて、彼女の瞳の前では意味を為さない。あの紫紺の泉に己の身を映せば、心を偽ることも隠すこともできないのだから。
 聞こえる穏やかな寝息に耳を澄ませながら、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
 できれば、君の声で目を覚ましたい。そう願いながら……。


 腕の中で柔らかく温かいものが、もそもそと動く気配に意識が浮上する。
「ふぇぁっ?」
 珍妙な悲鳴とともに、俺の腕から急いで逃れようとするそれを、ぐいっと抱きしめた。
「あ、……の」
 寝起き特有の甘い声。あぁ、涙や唇だけでなく、声まで甘いのは本当にずるい。俺の忍耐を試しているのか。理性の箍がガタガタと揺さぶられる。
「く、クレスト様……、起きてますかー……?」
 小さく囁かれる声は、俺を起こしたいのか寝かしておきたいのか判断がつかない。
 そして再び、腕の中に閉じ込めたものが、むにむにと抵抗を始める。俺の顔に温かい何かが触れた。
 もっとその柔らかい感触を楽しみたくて、絡めた腕に力を込める。
「ひぁんっ」
 いつになく艶を含んだ悲鳴に、俺はゆっくりと重い瞼を押し上げた。
「クレスト様? あの、放してください」
 懇願する彼女の声は、少し上から聞こえていた。目の前に広がっているのは、白く滑らかな彼女の肌。
「もう、少し……」
 堪能したい。この眺めを。
 俺は彼女の背中に手を当てると、そのままぐい、と力を込めた。なけなしの抵抗でのけ反る彼女の鎖骨に、唇が当たる。
 堪えきれずに洩れた小さい悲鳴が、俺の中に炎を灯した。
 そのまま唇を下に下にと動かせば、まろやかな二つの膨らみを感じる。夜着が邪魔で、すべてを暴くことはできないが、なだらかな谷間を覗くことはできた。
 このまま、すべてを奪ってしまおうか。
 熱に浮かされ、下半身に血が集まっているのを感じる。
 欲望のまま吸い付き、赤い花を作り上げれば、小さい悲鳴と必死の抵抗が返って来た。
 あぁ、でも、急がなくても熟れて落ちてくる実だと分かっているなら―――
「おはよう、マリーツィア」
 何事もなかったかのように、彼女の潤んだ瞳を見上げ朝の挨拶を口にする。
「お、……おはようゴザイマス」
 顔を真っ赤にした彼女が、ちゃんと応えてくれた。
 夢にも見なかった、理想の朝の風景だった。
「クレスト様。そ、その……こういうのは、困ります」
 濡れた瞳で見つめられることの方が困る。
 そんなことを考えながら「何が?」と聞き返した。
「こういうことって、ちゃんとけじめが必要だと思うんです」
 恥ずかしいのか、ぷるぷると震える彼女が、まるで捕食される寸前のうさぎに見えた。
 再び「何が?」と尋ねれば、よほど決意を込めた発言をするのか、ぐっと身体に力が入った。
「正式に結婚するまでは、添い寝は固辞させていただきますっ!」
 思いもかけないその言葉に、俺は慌てて説得を試みたが、残念ながら出勤時間までに彼女の意見を翻させることはできなかった。
 少し、やり過ぎた。
 今夜までに説得できなければ、実力行使で添い寝に持ち込もう。もはや、彼女のぬくもりなしに寝ることなどできないのだから。

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