TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 16.幸せな未来(※クレスト視点)


「父さま!」

 俺に大きく手を振りながら駆け寄って来たのは、五才ぐらいの少女だった。両サイドに結った黒髪を揺らし、新緑の瞳をきらめかせて、まっすぐに俺を見つめてくる。

「お帰りなさい、父さま! お仕事お疲れさま!」
「あぁ、ただいま」

 がしっと、足元にしがみつくように抱きついた少女を、俺は両手で抱き上げた。
 すごい、高い、とはしゃぐ少女は、満面の笑みを浮かべてご満悦だ。その表情に、俺の口元も緩む。

「お帰りなさいませ、クレスト様」

 少女の後ろを追うように歩いて来たのは、俺の唯一のマリーツィアだった。豊かな黒髪を編んで結い上げたそのうなじに、ほつれた髪が一筋だけ流れている。
 ふと、そのドレスの裾にしがみついている少年がいることに気がついた。三才ぐらいだろうか。ふわふわの金髪を、マリーツィアの繊手が優しく撫でている。だが、不思議と嫉妬は感じなかった。

「父さま、聞いて! あの子ってばまた母さまに泣きついて!」
「ねえさま! ねえさまが『りふじん』なこと言うから!」
「ほら、『りふじん』なんて、子どもらしくない言葉つかって! 本ばっかり読んでるからよ!」

 年上の兄弟に言い負かされ、目を潤ませる少年は、何だかかつての俺自身のようだった。
 だが、非常に覚えのある構図に違いないものの、それは、俺の知る陰湿なものではなく―――

「クレスト様が呆れているわ。二人とも、そのくらいにしなさい」
「はーい、母さま」
「……はい」

 母親によって収められるケンカなど、俺が知らないものだった。
 俺は誰に助けを求めることもできず、父に助けを乞うても顧みられず、ただひたすらに逃げ、それすらも諦めて耐えて無視することを選んだ。

 ずくり、と胸が痛む。
 あの頃を思い出すと、いつも胸の奥にある氷塊を感じる。それは、決して溶けることのない氷だ。感情を凍りつかせることを選んだのは他ならない自分なのに、今はそれを歯痒く思う。

「クレスト様?」

 気付けば、マリーが心配そうに俺を見上げていた。

「どうかしましたか? 何だか、泣きそうな―――」

 彼女の指が、俺の頬に触れる。

「母さま、どこが? 父さまが泣くわけないじゃない!」
「そうだよ。いつも通りのむひょーじょーだよ?」

 下の方から聞こえる声は、先ほどまでケンカしていた少年少女だ。そこに険悪な雰囲気はなく、ケロリと仲良く俺を見上げている。

「マリーツィア」

 俺は、自分の頬を撫でる彼女の手を上から押さえるように包み込んだ。

「はい、クレスト様」

 じっと、真っ直ぐに俺を見つめるアメジストの瞳は、変わらず俺の感情を掬い取ろうとしている。
 あぁ、なんて、俺は―――

「―――俺は、幸せ者だな」

 マリーの桜色の唇が微かに震え、白い肌はじわじわと赤く染まっていく。

「く、クレスト、様?」
「母さま、真っ赤ー」
「顔、まっかっかー」

 はやしたてられて、マリーツィアの瞳がじわりと潤む。だが、俺から視線を逸らそうとはしない。

「お嬢様、お坊ちゃま、お邸に戻りますよ」
「えー?」
「えぇー?」

 俺たちの様子を見ていたのか、メイド――イザベッタが、子ども二人の手を引っ張り、抵抗されたものの、最後には文字通り回収していった。

「マリーツィア?」
「そ、その、クレスト様……」

 俺は腕を伸ばして、マリーツィアを引き寄せると、そのまま腕の中に閉じ込めた。

「マリー。幼い頃、俺には絶対に手に入らないものだと思ってたんだ」
「……何が、ですか?」
「こんな、幸せが、だ」

 不思議そうに見上げる彼女の額に、俺はそっと唇を落とした。くすぐったそうに受ける姿も愛らしくてたまらない。

「マリーツィア。俺の祈り。君がいたから、俺は幸せになれた」
「クレスト様……」

 俺の視線で察したのか、マリーは俺を見上げた姿勢のまま、目を閉じる。
 柔らかく重なる唇に感じるのは歓喜。彼女の唇から幸せを吹き込まれるようで、俺は何度も角度を変えて口付けを交わした。

「マリーツィア」

 ゆっくりと開いたその紫暗の瞳は、少しだけ潤み、染まった頬がいじらしくも可愛らしい。
 はにかむように微笑んだマリーツィアの可憐な唇が、俺の名を呼ぶ。その響きを永遠に閉じ込めるように、俺は再び彼女の唇をふさいだ。


 覚醒したのはその瞬間だった。
 夢の中とはいえ、あそこまで幸せを感じたことなどなかった。本当に夢であるのが惜しい。
 テーブルの上のオイルランプの炎がゆらめいていた。まだ朝には遠いのか、カーテンの向こうから差し込む光もない。
 先ほどの夢が光なら、ここは間違いなく闇の中だ。胸の奥の氷塊が、ずしりと重みを訴える。

「ん、……んぅ」

 そこで、自分の腕の中で身動ぎする存在に気がついた。とたんに氷塊のことなど意識から消え去った。
 他ならぬ、夢の中でも俺に幸せを与えてくれたマリーツィア。彼女も夢を見ているのだろうか。

「マリーツィア」

 囁くように名前を落とすと、掠れた声が届いたのか、彼女の口元が微笑みを作る。その様子に、胸に灯った温かいものが氷塊すら溶かす幻覚すら感じた。

 未だ婚約中の身だが、あの旅行があって以降、たまに自ら添い寝を申し出るようになった。それも、図ったように家族のことを思い出してしまった日や、騎士団で面倒な目にあった日に。
 マリーツィアは、おそらく俺が弱っているのを察知してくれているのだろう。そう思うだけで、幸せを感じるこの身は、愚かなのか、それとも……。

 俺は、彼女の顔にかかった黒髪をそっと払った。艶やかな絹糸のようなその手触りは心地よく、そのまま撫でたい気もするが、彼女をむやみに起こしてはいけない、と堪えた。
 だが、マリーツィアは、そんな俺を嘲笑うかのように、俺の胸元に顔を寄せると、すり、と擦りつけた。吐息が俺の胸を撫でるたびに、俺の劣情を煽り立てる。

 俺の忍耐を、どこまで試せば気が済むのか。

 それでも、これを耐え抜いた先に、あんな幸せな未来が待つと言うのなら。

「愛している。俺のマリーツィア」

 祈りの言葉ではなく、ただ愛しい君の名前を呼ぼう。

 ←前  おしまい♪


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