TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 8.ありえないセリフ


「マリーツィア、君には失望した」
「そんな……! イヤです、クレスト様! 捨てないでください……っ!」

 廊下にまで響いたその声に、運悪く通りがかったハールはぎょっとした。

「だめだ、マリー。俺にも許せることと許せないことがある」
「そんな、クレスト様……っ!」

 邸の主とその婚約者の会話は、日頃の二人からはとうてい想像もできないようなものだった。クレストはマリーを溺愛し、偏愛し、それこそ彼女が望むならば、と自らのテリトリーから離れること以外ならば何でも叶えてしまいそうな愛情の注ぎっぷりだ。そんなクレストの口から「失望した」という言葉が聞こえるなどと、ハールには到底信じられなかった。

「お願いです。クレスト様、それだけは」
「許せるはずがないだろう」

ドンッ、と強く壁に何かが当たった音に、最悪の想定をしたハールはすぐさま主の部屋を開けた。日頃であれば、ノックを忘れることのない家令の鑑のような彼だが、最悪―――マリーが殺されることまで想定したハールは、一刻も早くクレストを止めなければ、と礼儀をかなぐり捨てた。

「何事ですか、クレスト様、マリーツィア様」

 ハールの目に飛び込んで来たのは、両腕を頭上でひとつにまとめられ、壁に縫い止められたマリーと、彼女を押さえ込んでいるクレストの姿だった。クレストは鋭い冷気を漂わせ、マリーの両目には涙がたまっている。この状態で何もなかったはずはない。

「ちょうどいいところに。ハール、そこにある紙を即刻廃棄しろ」
「は……」
「だめです! 捨てないでください! お願いします!」

 どうやら、これが騒動の原因らしいと、ハールはクレストの指示に従うふりをしながら、紙を検あらためた。どうやら、手紙のようだ。ところどころ修行という単語が見えているのは……

「お願いです、クレスト様! アイクからの手紙を捨てさせないでください」
「マリーツィア。何度言えば分かる? それを許せるはずがないだろう」

 手紙、と言われて、ハールは内心、首を傾げた。郵送されてくるものをチェックして仕訳をしているのはハールだ。少なくともここ数日、マリー宛の手紙を受け取った覚えはない。

「俺の目を盗んで、他の男と手紙を交わすことが許されるとでも?」
「目を盗むつもりはありません! 直接、私に届いただけじゃないですか!」
「その場に俺が居合わせなかったら、君はそれを告げたか?」
「もちろんです! だって、かわいい弟弟子おとうとでしの修行の成果ですよ? 自慢したいに決まってるじゃないですか!」
「かわいい……?」
「傍で見守っていなくても、アイクは私の弟弟子です! それが遠く離れたここまで手紙を届けられるようになったんですよ? 手放しで誉めますし、自慢しますっ!」

 何とか壁に縫い止められてしまった両手首を外そうと、ぐいぐいと体重をかけたり踏ん張ってみたりするが、騎士をまとめる中隊長職のクレストはビクともしない。
 そんな二人の言い合いを見守っていたハールは、アイクからの手紙を丁寧に畳んでから口を開く。

「クレスト様、この手紙は私がお預かりいたします。―――マリーツィア様、お手紙をお読みになりたいのでしたら、クレスト様を説得されてからお声をお掛けください」

 痴話喧嘩レベルだと判断を下したハールは、手紙を手にしずしずと退室する。その背中に「廃棄で構わない」と追加の命令が下されたが、ハールは従うつもりはなかった。クレストの言うとおりに廃棄してしまえば、おそらくマリーは本気で怒るだろう。クレストはまだどこかマリーの行動力を侮っているふしがある。邸の中に留めておけるような人ではないのだ。今は、外で人形を操っての暮らしがあるからこそ、ここに留まっていられるのだと、ハールは判断している。

「クレスト様、どうしてそこまで手紙を読むことを許してくださらないんですか?」
「……自分の婚約者が、他の男と文通するのを許す男がいるとでも?」
「アイクは家族みたいなものです」
「だが、家族ではないだろう」

 クレストは歩み寄る気はないようだった。

「……クレスト様は、私が浮気するとでも思っているんですか?」
「―――思っては、いない」
「それなら、どうして手紙を」
「俺が不快だからだ。マリーツィア。君は俺の隣で俺だけを見て、俺だけのことを考えていてくれれば―――」

 ぷちん、と切れたのは、マリーが先だった。

「もう、クレスト様なんて知りませんっ!」

 ぐっと目の前の端正な顔を見上げたマリーの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれる。

「マリー……?」
「クレスト様の顔もみたくありません!」

 言い放つや否や、マリーの胸元のペンダントが光った。自衛のために唯一常に身につけることを許された魔術陣、障壁の魔術が発動し、クレストの手が見えない壁に押し戻された。
 拘束から逃れたマリーは涙も拭わずに部屋を出る。

「マリーツィア!」

 追いかけようと延ばされた手をすげなく弾かれ、クレストの目が大きく開かれた。それは間違いなく、彼の最愛であるマリーツィアからの拒絶だった。

「マリーツィア!」

 パタパタと軽い足音は、彼女の部屋へと向かっている。バン!と大きな音がして扉が閉められた。メイドのアマリアが「マリー様?」と困惑した声をあげているのが聞こえる。
 クレストはのろのろと足を動かし、そのまま彼女の部屋へと足を進めた。

「マリー様? どうされたのですか? マリー様?」

 部屋の前では、アマリアが扉をノックして中の様子を伺っていた。

「あ、クレスト様。先ほど、マリー様が部屋の中に駆け込まれて……」
「知っている」

 アマリアを扉の前から押し退けると、クレストは強めのノックで彼女の名前を呼んだ。

「クレスト様なんて知りません! 来ないでください! 顔も見たくありません!」
「マリーツィア。ここを開け―――」
「いやです!」

 扉を力任せに開けようとしたクレストの手を、ノブが弾く。ここにも障壁が張られているのだと気づいたクレストの眉がひそめられる。
 その後、しばらく粘っていたクレストだったが、とりつく島もないと分かると、とぼとぼと自室へ戻って行った。その後ろ姿はいつになく小さく見えたと、後にアマリアは語った。


 マリーの怒りは解けることはなく、彼女は食事もとらずに自分の部屋に籠城した。
 これに慌てたのは、クレストよりも、ハールやアマリエ、イザベッタやフェネル料理長だった。彼らは一時期の憔悴しきったマリーツィアを知っている。食事も僅かしかとらず、日々やせ衰えていった彼女の姿は悪夢のようだった。あの頃のマリーは何をどうしたらいいのか分からず迷走していた状態で、今の怒りが爆発している状態とは全く違うにも関わらず、食事をとらないということがある意味で使用人たちのトラウマを刺激した。

「クレスト様」
「分かっている。……明日の朝までにマリーを連れ出す」
「くれぐれも無理強いだけは避けてくださいませ」
「……分かって、いる」
「クレスト様?」
「大丈夫だ。―――ハール。あの手紙は?」
「こちらにございますが、まさかクレスト様、これを」
「もう捨てるなどとは言わない。だが、マリーを説得するためには必要だ」
「本当に捨てたり焼いたり破ったりしませんね?」
「くどい! しないと言っているだろう」
「誠に遺憾ながら、信用できません」
「信用できないなら、一筆でも何でも書く。とにかく寄越せ!」

 使用人からも信用されていないクレストが奮闘しているとは知らず、マリーは布団に潜り込んでいた。アマリアが夕食のために呼びに来たことは知っていたが、取り上げられてしまった手紙を取り戻す方が先だと考えていたのだ。
 頭の中では、クレストの説得に失敗した場合に、どうやって手紙を取り戻すか、色々な手段が浮かんでは消えていく。
 マリーの中では、早々に説得が失敗に終わることはほぼ確定していた。一度『他の男』として認定されてしまったアイクと、今後も手紙のやりとりをするにはどうしたらいいか。そして、奪われたままの手紙を取り戻すためにはどうしたらいいか。……これである。

「ハールさんが預かってくれたのは良かった、うん。それは間違いない。あとは、あの紙にアイクの残留魔力が残っていれば何とかなるんだけど」

 アイクが習得した魔術は、そのまま手紙を送るためのものだ。用件を書いた手紙に術をかけ、鳥にして飛ばすのだ。鳥ではなく別の獣に変えるものもあるらしいが、マリーも詳しくは知らない。何しろ、自分が使えない行使魔術の分野だ。
 この便利な術は、協会に所属している魔術師の間にも広まっていて、一般の人も魔術師に依頼して手紙を送ることもある、非常にポピュラーなものだ。マリーも一時期、魔術陣を使って同じようなことができないかと考えた時期があったのだが……

(いやなこと思い出しちゃった)

 それらしい陣は構築できたのだが、陣に魔力を込めた途端、紙が四散したのだ。要は、その陣を動かす魔力に、紙が耐えられなかったのである。師匠には「もう少し効率のいい陣を考えないとだめそうだね」と言われたが、結局、改良することもできずに断念した。もしかしたら、今なら紙に魔力を込めた石を埋め込むことで、何とかなるかもしれないが。

「必要なのは魔力探知。後は向こうから転移……? 着地点はしっかりしてるけど、出発点がうまく定まらないから、余計なものまで引き寄せちゃうかな」

 小さくぶつぶつと呟きながら、必要な陣を頭に構築していく。早く対処しなければ、残留魔力も消えてしまうかもしれない。そうしたら、手紙の場所を特定するのは不可能だ。

ガタン

「っ!」

 被っていた毛布を跳ね除け、マリーは音のした方を見る。この部屋で一人でいるときに、妙な物音がすると、過去に誘拐されたときのことを思い出して、恐怖に身が竦んでしまうのだ。

「マリー」
「……クレスト、様?」

 窓から入って来たのがクレストだと知って、マリーは強張っていた体から力が抜けるのを感じた。

(……って、いけないいけない)

 今はケンカ中だったことを思い出して、ベッドの上に座ったままで、ギッと睨み上げた。

「クレスト様、顔も見たくないと言いましたよね? あと、どうして窓から入って来たんですか?」
「俺は君の顔が見たかった。あと、ドアに鍵がかかっていたから別の場所から入って来ただけだ」

 根本的なところで噛みあってない返事をされ、マリーはむっと口を尖らせた。

「……」
「マリー」
「……知りません」
「これを、渡しに来た」

 差し出されたものを見て、マリーの表情が変わった。信じられないものを見るように、その手の中のものに釘付けになる。

「それ、……アイクの」
「そうだ。だが、そのままでは渡せない」
「……」

 じとっとした目つきで見上げたマリーに、僅かに口の端だけ持ち上げたクレストはそのままベッドに腰掛けた。

「俺と一緒に読むこと。それが条件だ」
「……どうして」

 マリーは自分の言葉の後に「許可がいるんですか」とつけるべきか「許してくれたんですか」と付けるべきか逡巡する。

「マリーツィア。君は自分の魅力を全然分かっていない」

 唐突にそんなことを言い出したクレストの真意が分からず、マリーはまじまじと隣を見た。

「君の愛らしさ、君の柔らかな仕草、君の涼やかな声、君の優しさ、君の―――」
「も、もう、やめてくださいっ!」
「マリーツィア、君があまりに魅力的過ぎるからこそ、俺は君を閉じ込めておきたくなる」
「それは……」

 決して自分を手放さないという発言をされ、マリーツィアは自分の中に湧き上がったどこか仄暗い喜びに、胸の鼓動が早くなるのを感じた。

「マリーツィア。それでも君は、この手紙を読みたいと思うか?」
「そ、それとこれとは、話が別だと思います。クレスト様だって、自分が目をかけていた部下の方の成長を見るの楽しみだったりしませんか? その手紙もそういうものなんです」
「……部下、か。マリー、君はそこまでアレを教え導いたとでも?」
「実際に手助けしたのは、数えるほどです。でも、同じ師についているからって、目をかけるのはおかしいですか?」

 言い募りながら、マリーは昼間と同じ平行線になりかけていることに気付いていた。きっと、このままではまた同じように、いや、仲裁役のハールさんがいないだけ、最悪の結果になりかねない。

「マリーツィア」
「……はい」

 クレストの声に、どこか苦いものを聞き取って、マリーはじっと彼を見つめた。全身に気を張り詰めて、彼の行動に備えるために。

「ここへ」
「……?」

 クレストが指で示したのは、彼の膝だった。

「あの……」
「ここへ座れ、マリー」

 首を傾げながら、一度ベッドから降りたマリーは、おそるおそるクレストに近付いた。近付けばそれだけ手紙を取り返すチャンスに恵まれるが、それだけ何かされる危険度も増すということだ。
 喉を絞め上げられた過去が頭を過よぎったが、今は違うはず、と覚悟を決めて彼の膝にお尻を落とす。すると、すぐさまお腹に手を回されて、ぎゅっと抱きしめられた。

「マリーツィア」

 耳元で熱く名前を囁かれ、彼女の首から頬にかけて朱が散った。

「ここでなら、手紙を読んでもいい。それが俺にできる最大限の譲歩だ」

 思ってもみないその言葉に、マリーはすぐさま後ろを振り向こうとしたが、あっさりと動きを封じられた。

「クレスト様?」
「なんだ」
「今、どんな顔をしてますか? これだと顔が見えません」
「見なくていい」

 すげなく断られたが、マリーには何となく表情が予想できてしまった。きっと僅かに眉を下げて、少しきまり悪そうにしているに違いない。

「手紙を読むんじゃなかったのか」
「読みたいです」
「それなら、読めばいい。俺も後ろから読ませてもらう」

 おそらく、マリーが逃げないように、というクレストなりに考えた譲歩案だったのだろう。
 マリーは、修行がきつい、師匠が鬼だ、と嘆く手紙を読みながら、くすくすと笑い出した。

「マリーツィア?」
「ありがとうございます、クレスト様」
「何がだ?」
「ちゃんと、こうやって考えてくれるクレスト様が、大好きです」
「……」
「クレスト様?」

 黙りこんでしまったクレストの様子を窺おうとしたマリーだったが、その項うなじに温かく湿ったものが押し付けられて、「ひゃぅっ」と間の抜けた悲鳴を上げた。

「マリー、君はたまに、ものすごく無防備で困る」
「? えぇと、どういうことですか?」
「いや、いい」

 クレストは後ろからぎゅうぎゅうとマリーを抱きしめながら、口の中で「あと1ヶ月」と呟いた。

―――それは、結婚式の1ヶ月前の、ささやかなケンカだった。

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