06.それは、美味だったのです。「お疲れ様でーす……」 緊張しながら玄関の鍵を開けて入ると、人の気配はありませんでした。 徳益さんや狼さんがいない時でも、入って着替えて待機していて欲しいとは言われてましたが、まさかの二日目からそんな状況なのでしょうか。 何もしないでお金をもらうのは気が引けるのですけど。 とりあえず、一昨日と同じように黒地のワンピースとエプロンという制服に着替えます。あれ、洗濯されてますね。たった二時間しか着ていないのですけど、誰が手配しているのでしょうか。 念のため、佐多くんが寝ていた部屋を覗き込んでも、誰もいません。 とりあえず、帰って来たらすぐにでもお茶を出せるように、キッチンでティーポットとカップを準備します。 ……さて、以上で、今できることは終わってしまいました。 こんなことなら、今日渡された夏休みの宿題でも持ち込めば良かったです。 窓の外を眺めれば、真夏の入道雲が見えます。残念ながら、高い位置にあるせいか、セミの鳴き声は聞こえません。 あれ、そういえば、この部屋って涼しいですよね。誰もいないのに冷房きかせていたのでしょうか? エアコンがどこにも見当たらないのですが、もしかして、噂に聞く「全館空調」というやつなのでしょうか。貧乏性な私は、誰もいないのに冷房をつけるなんて勿体無いと思ってしまいますが、こんな駅近くの(家賃も位置エネルギーも)高いマンションに住むような人は、そんなこと思わないのかもしれません。 ポーン 聞こえて来たのは、エレベーターが止まる音です。 「何考えてやがる、このクソ野郎」 「あぁ? てめぇこそ、しっかりヤれっつたろ、このバカ。変なところでしくじりやがって」 とても不穏な会話なのですが、私、この二人をお出迎えしなければならないのですよね。 怖いので逃げていいですか? あ、逃げ道はありませんか。そうですか。今急いで逃げても鉢合わせしますもんね。 ガチャ 「あ、お疲れ様です。お帰りなさいませ」 会話は聞こえてませんでしたよ。今あわてて玄関に来ましたよ、という体を装って、私はぺこり、と頭を下げました。 「……」 あれ? 何か間違えましたか? 顔を上げると、佐多くんが人一人殺せそうな表情で、こちらを睨みつけています。 「とっとと入れよトキ。――あ、エリさん、もう来てたんだね。悪いけど、トキを部屋に連れてって、右肘の消毒と右手首に湿布よろしく」 徳益さんに「連れてって」と言われた私は、言葉の条件反射というべきか、佐多くんに向かって手を差し伸べてしまいました。 相手はちっちゃい子じゃなくて、羅刹なのに。 でも、気を遣ってくれたのでしょうか。佐多くんは、私の手を握りました。 そのまま、何となく無言であの部屋まで向かいます。 もしかして、これってすごくレアな光景なんじゃないでしょうか。 身長百四十五センチの小人な私が、身長百八十オーバーの羅刹・ザ・ジャイアントを引っ張るような感じですよ。 ……すみません、現実逃避をし過ぎました。 実際は、今にも食らい付かれそうな子羊と、でっかい狼の図です。お仕事ですので、表面には出していませんが、心の中ではぷるぷると震えています。 無事、何事もなく部屋に到着すると、救急箱を探す私を置いて、佐多くんがキャビネットから小さめの箱を取り出しました。 あぁ、それが手当て道具なのですね。 リクライニングソファに腰掛けてもらうと、私は「失礼しますね」と消毒液を右肘の裂傷に噴きかけました。垂れそうになった所だけ、ガーゼでちょいちょいと拭います。 さらりと流しましたが、裂傷です。擦過傷ではありません。すり傷じゃなくて抉れたようになってます。見ていて痛々しいのですが、消毒液が沁みて絶対痛いはずの佐多くんが無表情を保っているので、私も表情に出さないように努めています。 続いての手当ては右手首です。 確かに腫れてますね。本当に、何をしてきたのでしょうか。今日も学校には来てませんでしたし。本当に謎です。 まぁ、謎を解明しようという気持ちはまったくないのですが。 湿布を適当な大きさに切った私は、その上からネット上の包帯を手袋のようにはめてあげました。 これで手当ては終了です。 救急箱をキャビネットに戻した私は、じっとこちらを見つめている佐多くんの近くに戻りました。 私に何か言いたいことがあるようなのですが、残念ながら、口を動かしてはくれません。二、三人殺したような凶悪な表情で私を睨むだけです。怖いです。 さて、どう声をかければ睨むのを止めてくれるのでしょうか。 ―――お茶を入れてきますね? うぅん、逃げるのには良いかもしれませんが、これでは戻って来た時に元の木阿弥でしょう。 ―――今日はどこかに出かけていたのですか? これはこれで、何だか詮索している気がしますね。得体の知れないお客様には、深入りしないのがトラブルに巻き込まれない生き方というものです。 「傷、大丈夫ですか?」 一番無難だと思われる言葉を掛けてみました。 すると、何故だか珍しいものでも見るかのように、さらにじろじろと睨まれました。いえ、観察されました。 「アンタ、何も言わねぇんだな」 「……はぁ」 それは傷の事情についてですか? それとも不登校についてですか? 言葉が簡潔すぎて、さっぱり理解が追いつきません。 「えぇと、お茶、入れてきますね……わひゃぁっ!」 ななななな、何事ですか? ちょ、どうして私、持ち上げられてますのこと? というか、というか、さっき手当てした傷とかは痛くないのですか? そんでもって、顔が近くて怖いです! 私を軽々と持ち上げた佐多くんは、そのまま二人がけのソファの方に移動すると、どかっと座りました。 私は、と言えば、その膝の中に居ます。 行儀悪く大股開きで座った佐多くんの、足の間に納まるようにして、ちょこんと座っております。 逃げようにも大きな両腕で囲い込まれた挙句、私の頭の上に佐多くんの顎が乗ってます。 メーデー! メーデー! トトトツーツーツートトト トトトツーツーツートトト SOS! SOS! 私がパニックを起こして固まっているのに気付いているのかいないのか、佐多くんは動こうとしません。 「おや、まるで抱き人形だね」 トレイに三人分のお茶のセットとお菓子類を乗せて姿を見せたのは、徳益さんでした。 彼は、私たちの向かい側に腰を下ろすと、慣れた手つきでお茶を入れます。 私を助けてくれる気配はありません。一応アイコンタクトを試みているのですが、分かってて無視されているような気がします。 あぁ、狼さんが小動物をどうしようと関与しないのですね。決して味方ではないのですね。深く心に刻み込んでおきます。 「ほいよ、お茶。エリさんもどうぞ」 「あ、どうも」 差し出されたお茶に手を伸ばそうとしたら、何故か長い腕がにょっと伸びて、ソーサーごと私の手元に持って来てくれました。そこまでして解放したくないのですか、佐多くん。 芳醇な香りの紅茶にそっと口をつけると、少しだけ落ち着きました。あったかい液体が喉から胃に向かって流れるのを感じ、あ、と気付いてそれ以上飲むのをやめました。 私の動きに気付いたのか、佐多くんが再びソーサーごとテーブルの上に置いてくれます。 「あれ、口に合わなかった?」 「あ、いえ、おいしいです」 ただ、胃が空っぽな時にストレートティーを飲むと、洩れなく腹痛がついてくるので遠慮しただけです。 バカ正直に言うのも憚られて、何となく語尾を濁すと、真後ろの佐多くんが私の顔を覗き込むようにしてきました。 何度だって言います。怖いのでやめて欲しいです。この距離はドキドキします。ヒヤヒヤします。命の危険的な意味合いで。 ぐぅぅぅ~ へ、部屋が静かなのも困ったものですね! 予想外に大きく響いてしまいました。 もちろん、私のお腹に住んでいる子の鳴き声ですよ? ちょっと紅茶なんてものを胃に導いてしまったせいで、寝ていたところを起こしてしまったようです。 「アンタ、腹減ってんの?」 「えぇ? そんなことは―――」 ありませんよ、と続けようとしたところに、私の腹の虫が再び鳴いてしまいました。我が眷属ながら、タイミングを図るとは、知能犯です。 少しだけ目を細めた佐多くんが、お皿に盛られたブランデーケーキを私の口元に突きつけてきました。甘い香りが、わたしの空腹中枢をこれでもかと刺激します。 向かいに座っている徳益さんは、にやにやと面白いものを眺めるように様子を伺っています。 これは、もう、諦めるしかないですね。どうせ、一昨日も同じように餌付けはされましたし。 ぱくり、とブランデーケーキを咥えた私は、そのまま両手で押さえてもぐもぐと咀嚼しました。向かいから「ぷっ、ウサギっぽい」などと失礼な声が聞こえたような気もしますが、雇用主サマの言うことです。スルーします。 それにしても、ここのお菓子は本当に美味しいです。今朝の塩むすびからこっち、水しか入れていなかった胃袋も小躍りして喜んでいます。 「一昨日も美味しそうに食べてたみたいだね。腹ペコキャラなんだ?」 続いて口元に差し出されたフィナンシェを頬張っている私に、向かいの徳益さんがとんでもない評価をしてきました。 「ふぃがっ……、んぐ、違います。少し、その……エンゲル係数を見直している最中ですので」 「もしかしてダイエット? そんなの必要ないと思うよ?」 「いえ、痩身には特に興味はありません。スリムにしたいのは、食費の……いえ、何でもありません」 こんな所で身の上話をしてどうするのですか。これはお仕事です。あまりプライベートなことに話を持っていくのは良くありません。無闇に立ち入らず、立ち入らせず、です。 「エリさん、ずっと気になってたんだけどね? 切実にお金が欲しい事情があるわけ? キミのことは、武蔵塚からは苦学生としか聞いてないんだけどさ」 店長さん、そういうふうに説明していたのですか。 いえ、間違いではないのですが、苦学生という言葉で括られると、なんだかこそばゆいです。 一応、ぼんやりと事情を説明しておくべきなのでしょうか。そうしたら、もう少し稼がせてもらえるのですかね。 むむむむー。 「悩むぐらいなら、全部話せ」 うわぁ、真上から命令が降って来ました。 あの、重低音ボイスでいきなり言われると、思わずビクッと反応しちゃうのを堪えるのが辛いので、事前予告をください。 「……はぁ。その、親の経済的な事情がありまして、昨年から仕送りが滞っていまして。それでも、まぁ、食費と光熱費は何とか自力で賄っていたのです。―――なのですが、先日、前期の授業料も納金していないという連絡がありまして、何とか払ったのですが、ちょっと手持ちが心もとなく……」 「アンタ、昼メシ何食った?」 「……」 佐多くん、無駄に鋭い質問を投げかけるのはやめてもらえませんか。あと、何故か不機嫌オーラが混ざっているので怖いです。あなたに囲い込まれて逃げ場がないので、本当に勘弁してもらえませんか? 「何食った?」 「……えぇと、ですね」 「食ってねぇな? なら朝は?」 「あ、朝はちゃんと、おむすび食べましたよ」 今朝の塩むすびは、重量にして三分の一合ぐらいでしょうか。お茶碗一杯にも満たないちっちゃいものでした。 「―――ハヤト」 「はいよ。……エリさん、好き嫌いは?」 「ふぇ? あ、特にありませんけど」 立ち上がった徳益さんは「それなら安心だね」と部屋を出て行きました。 「今日はメシ食ってけ」 「え? いや、それは―――」 「晩メシの予定が?」 白いごはんとキャベツの塩もみを食べる予定でした。とか言える雰囲気ではないですね。これ。 「今、エリさんの分も運ぶように頼んだから」 「え、そんな―――」 戻って来た徳益さんのセリフに、私は慌てて立ち上がろうとしたけれど、後ろの羅刹に押し留められてしまいました。 「狼のお世話はキミの仕事だけど、キミの体調管理はアニマルセラピストの俺の仕事」 「いいえ、体調管理ぐらい自分で」 「じゃぁ、こう言った方がいいかな? キミがきちんと食事を取るのを見届けないと、そこの狼がすっごく不機嫌になりそうだからね。キミはトキと一緒に夕食を食べること」 「え…――」 「業務の一環だし、別に食事代を給与から天引きするつもりもないよ」 心配している点はバレていましたか、徳益さん。 私は、ちらり、と佐多くんを見上げました。どこかムスっとした表情で徳益さんを見ていましたが、私の視線に気がつくと、不機嫌オーラそのままでこちらを睨んで来ます。何度だって言います。怖いです。 とりあえず、逃げることもできなさそうですし、私は「では、お言葉に甘えさせていただきます」と頭を下げることにしました。 感想。仕出しのお弁当はとても美味しかったのですけど、一緒に食べている佐多くんの視線が怖くて、胃が痛くなるかと思いました、まる。 あと、いつの間にか、勤務時間が一時間ほど後ろに延びて、毎回夕食を一緒することになってました。未だにこの流れがよく思い出せません。仕出し弁当に気を取られ過ぎていたのか、佐多くんの視線に震え過ぎていたのか、食事時にそんな話を持ち出した雇用主さんは、知能犯だと思いました、まる。 | |
<< | >> |