TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 07.それは、精一杯だったのです。


「おはよーございます、玉名さん」
「あ、ミオ、はよー」

 今日は終業式です。と言っても、私は通知表を見せる相手もいないので、他のクラスメイトよりはのんびりと迎えられる気がします。
 昨年、お母さんに「もらったけど確認する?」と聞いたところ、「進級できるなら別に文句ないからいいわー」とのん気なお答えが返ってきたのです。
 バイト継続のために、平均点を死守していますからね。同じ目的で授業態度やレポート提出なんかも気を遣ってますし、少なくとも十段階評定のうち六は硬いですよ。

「ねー、ミオ。数学の宿題なんだけどさー」
「あ、数Ⅱも数Bも、一年の復習課題で助かりましたよねー。量は多いけど何とかなりそうです」
「うっわ、マジありえない! ぜんっぜん量多いじゃんよー」

 私は首を傾げました。
 そうでしょうか? 少なくとも、この間から入ったベクトルの単元に比べれば、かわいいものだと思います。確率なんて、最悪、数えれば何とかなりますからね!

「ないわー。マジないわー」
「そうですか? 一応、昨日だけで五ページ進みましたし、私としては物理や日本史の方が、その……」
「日本史はチョー☆ラクだと思うけどー? 書き込むだけじゃん?」

 そうですね、宿題を終わらせるだけならば、簡単な方かもしれません。
 でもですよ?
 夏休み明けにテストをすると言ってるのですよ?
 日本史は担任の瀬田先生なのですよ?
 中間・期末ではないにしても、うっかり平均を割ってしまったら、バイト継続に何らかのペナルティがありそうで怖いのですよ……!
 一応、私の経済状況を知っている人ですから、大丈夫だと思いたいのですが、あとあと無理難題を吹っかけられそうで怖いのです。不安の芽は潰しておくに限るのです。

「物理は数学に比べたら量も少ないし、ラクショーじゃん?」
「違いますよ玉名さん。一昨日確認したのですけど、分量が少ないと思わせておいて、面倒な文章題が多いのです。あれは時間を取られますよ」
「げ、マジでー?」

 ゲンナリとした表情を浮かべた玉名さんですが、ふと、手にした鏡から顔を上げました。(ずっとマスカラつけながら話をしていたのです……)

「何?」
「へ、何ですか?」

 突然、真面目な顔になった玉名さんに尋ねられ、私は間抜けな声を上げました。
 そして、気付きました。
 なんだか、廊下が騒がしくないのです。地方大会に出場する部活の壮行会も兼ねた終業式も終わり、あとはHRで通知表をもらって帰るだけの私たちは、夏休みに何をするか、なんて浮ついた話題で盛り上がっているのが当たり前です。
 先生が通知表持参でやって来た、というには空気がおかしいですね。静まり返るほど威厳のある先生なんて、この学校にはいませんし―――

ガララララッ

 私のクラスのお喋りが、ピタリと止まりました。
 連日気温が三十度を超える日々が続いているというのに、なんだか空気が冷えました。でも、汗が引くわけではありません。むしろ、ぶわっと出てしまいそうです。

「ちょ、なんでアイツが来るわけー? 去年はテストの時しか来なかったって聞いてたのに」

 こそこそと話しかけて来た玉名さん。何気に情報持ってるのですね。
 でも、そんなことを気にしている場合ではありません。だって、教室にのっしのっしと入って来た羅刹は、昨日、夕飯を一緒した仲ですから。

(ま、まさか、バレません……よね?)

 今の私は窓側の一番前の席です。対する羅刹は、窓から2番目の一番後ろの指定席です。
 あ、『羅刹の席』は、席替えがあっても固定なのです。でないと、久々に出席したときに本人が自分の席がどこか分かりませんからね。

 どすん、と自席に座る羅刹を、クラスメイトみんながこっそり窺います。何だか、変な空気になってしまいました。
 それを気にすることなく、羅刹はその怖すぎる目を閉じ、腕組みをしました。先生が来るまで寝るのですか? そうですか。
 肘のかさぶたは見えますが、手首は湿布をしていなくて大丈夫なのでしょうか。昨晩、けっこう腫れていたと思うのですが。

 そんなことを考えていたら、瀬田先生がクラスメイト全員分の通知表を抱えてやって来ました。なんだか、私だけでなく、他のクラスメイトも先生が来てくれたことにホッと安心したみたいです。

「よーし、夏休みの注意事項とかイチイチ説明するの面倒だから、ちゃっちゃと終わらせるぞー」

 瀬田先生は、佐多くんがいるのに気付いているでしょうに、いつもと変わらないテンションです。先生ってすごい人なのですね。
 ちょっと離れたところから「動じないって、瀬田ゴイスーだな」という恩田くんの呟き声が聞こえました。彼は最近、色んなものを業界用語ちっくに言うのがブームみたいです。今日も「サマバケはテルホのループでチャンネエとキャッキャウフフしてぇ」とか言う声が聞こえてました。意味はちんぷんかんぷんです。

 そんなこんなで、一人ひとり通知表を手渡され、――佐多くんが受け取る際に、通り道の近くの生徒たちの顔が引き攣ったことを除けば――何事もなくホームルームは終わりました。
 今日もアニマルセラピーなバイトが待っている私は、エアコンのある図書室で英語の宿題と格闘する予定です。
 え、昼食? 何ですか、それ? あぁ、英語にするとlunchですね、知ってますよ。
 もちろん今日もスルーの方向です。またバレて怒られる可能性はありますが、人間、一日二食でも生きて行けると思うのですよ。

「ミオ、この後モスドで一服してカラオケどう?」
「すみません、今日はちょっと残って宿題に手をつけていきます」

 玉名さんに丁重にお断りして、私はカバンに通知表とプリントを仕舞いこみます。というか、絶対にお断りすることを知っているのに誘ってくれる玉名さんは、それでも私に声を掛けるのをやめません。一応誘って断られるのが様式美だと言うのですが、その感覚はいまだに共感できません。

「なぁ、アンタ」

 突然、背中から声を掛けられて、私の肩が震えてしまいました。真正面に立っていた玉名さんは、「んじゃ、アタシ帰るねー」と脱兎のごとく逃げていきました。
 ……おかしいですね。既にクレーターのように私の周囲一メートルから人が消えています。

 はい、分かってますよー。私の後ろに立っている人がいるということは。
 跳ねている心臓を押さえこんで、私は振り向きました。

「私、でしょうか?」

 後ろに立っていたのは、羅刹です。凶悪な瞳でこちらを睨みつけています。石化しそうなので勘弁してもらえませんか。あと、バイトの「エリさん」だとバレそうなので、近づかないでください。今日もこの後、会うことですし。

「中間のときは助かった。―――これ」

 突然、私の胸に鉄拳制裁……ではなくて、ぐっと掴んだ紙袋を突き出しました。おそるおそる受け取って中身を見れば、消しゴムにシャーペン、シャーペンの芯に定規、ついでに三色ボールペンまで入っています。

「えと、こんなに渡されてしまうと、気が引けてしまうのですが……」

 ついでに腰はとっくに引けていますが。

「礼だ。受け取れ」

 反論したのが気に食わなかったのでしょうか、私をギロリと睨み付けると、そのまま背を向けて教室を出て行ってしまいました。
 途端に、教室にざわめきが戻って来ます。

「ちょ、須屋、大丈夫か?」
「恩田くん」

 遠くから様子を見守っていた恩田くんは業界語を使うのも忘れたようです。

「何入ってんの、それ。ヤバげなもの?」
「いえ、単なる筆記用具です」

 茶色い素っ気無い袋を覗き込んだ恩田くんは「普通、だな」と感想を洩らしました。

「普通で良いと思いますよ? 筆記用具は使うものですから、奇をてらう必要はありませんし」
「おいおい、普通、女子ってカワイイ文具にキャッキャするもんじゃないのかよ」
「そうですか?」

 せっかくですので、使わせてもらうことを考えれば、やはり実用性を重視した方が良いでしょう。カワイイものはカワイイなりに好きですけどね。
 相変わらず男前だな、と評する恩田くんを置いて、私は当初の予定通りに図書室へ足を運びました。
 あの様子では、私=エリということに気付いていないようですので、本気でホッとしましたよ。


「こんにちは、お疲れ様ですー」

 そっと玄関のドアを開けると、昨日に引き続き無人のようでした。
 また昨日のように物騒な会話をしながら帰って来るのを、びくびくと待てば良いのでしょうか。少し憂鬱です。
 まぁ、とりあえず着替えるとしましょう。

「アンタか」
「♀☆♂★$℃?!!!」

 すみません、耐えられませんでした。
 ビクッと身体を震わせるどころか、数センチぐらい飛び上がっちゃいました。
 仕事なんだからと、脅えたり怖がったりする素振りを見せないようにと頑張ってきたのです。これでも。

 でもですね?
 無人だと油断したところに、後ろからドスのきいた声で、なんて反則だと思うのですよ。
 というか、気配がありませんでしたよ?

「いらっしゃったのですね。すみません。てっきり誰もいないものだと思っ……」

 振り返って絶句しました。

 後ろに立っていたのは羅刹です。それは予想通りです。

 洗い髪から雫を滴らせて、腰にバスタオル一丁の姿でさえなければ、想定通りで驚くこともなかったはずなのです!!

「私、とにかく制服に着替えてきますので、お茶とかはその後で出しますからっ!」

 何とかそこまで言い切ると、着替えに使っている部屋に駆け込み、バタンとドアを閉めました。
 大した運動もしてないのに、吐息も荒く心臓はバクバクと自己主張をしています。
 ロッカーにカバンを置き、きれいに畳まれた制服を手にしたところで力尽き、へろへろとその場に座り込んでしまいました。
 出勤早々、とても精神ゲージが削れてしまいました。

チャ~チャ~チャチャ~ チャラリラチャ~チャチャ~

 突然、スマホが○岡越前のメロディを奏でました。うっかりマナーモードにするのを忘れてしまっていたようです。これではバイト失格なのです。
 私はさっきまでの衝撃を忘れる勢いでカバンからスマホを取り出しました。

「はい、もしもし」
『あ、ごめんね、ミオちゃん? そっちのバイト始まっちゃってる?』
「はい、急ぎの用件でしたら手短にお願いします」

 店長さんでした。
 明日の寸劇の台本に変更が出たので、今日の帰りに寄るか、明日早めに入って欲しいとのことです。
 とりあえず了解したことを告げて、通話を終わらせました。
 ありがとうございます、店長さん!
 あなたと会話したおかげで、平常心を取り戻せました。あれは事故だったのです。不幸な事故! 私は何事もなく仕事に徹すれば良いのですね?

 一度、腹を括ってしまえば、あとは迷う余地はありません。
 ちゃっちゃと着替えて、ちゃっちゃと台所へ向かいました。

 でも、そこには第二の衝撃が待ち受けていたのです。

『今日は遅れそうだから、狼のお世話をよろしく。おやつは冷蔵庫にプチシュークリームが入っています。
                      ハヤト』

 そこそこ上手な狼のイラストが描かれたメモがダイニングテーブルに置かれていました。ガオー、なんてイラストの下に書かれてますね。
 ……ふっ。
 大丈夫です。こんなことぐらいでは挫けませんよ。だてに高給取りじゃありませんから!

 冷蔵庫から一口サイズのシュークリームの詰まった箱を探し出し、お皿に盛り付けました。
 クリームは甘味が舌に残るので、さっぱりしたストレートティーが良いでしょうか。
 本音を言うと、今日のような夏をイヤでも意識させる暑い日は麦茶一択なのですけど、残念ながら、ここの台所には麦茶はないようなのです。なぜか冷蔵庫に麦酒は見つけたのですけどね。

コンコン

「失礼します」

 残念ながら室内からの返事はありませんが、そもそもノックしなくても良いと雇用主さんから言われているので、遠慮なくドアを開けてしまいます。そうでないと、トレイを乗せた左手がプルプルとしてしまいますし。

「お待たせしました」

 寝床にしているリクライニングソファではなく、テーブルを合わせて向かい合わせに設置されたソファセットに腰掛けている時点で、羅刹もお茶を待ち構えていたのだと分かります。
 こちらをギロリと睨むのも、きっと水分はまだかという催促なのでしょうね。何度も言いますが(※声に出してません)、怖いのでやめてください。

「今日は白桃烏龍茶です」

 二人分のカップにお茶を注ぎ終わると、なぜか、ぐいっと引っ張られました。その強い力に抗いきれずに転びそうになったところを、変な浮遊感に襲われます。

(はい?)

 気付けば、昨日と同じように羅刹の膝の間に抱え込まれるように座らされていました。
 気に入ったのでしょうかね。この体勢。
 動物を足で挟むようにして抱え込みたくなる気持ちは、まぁ、分からなくもないですが。私も黒ラブの平蔵を何度抱え込んだことか。甘えるように真っ黒な瞳で見上げられると、これがまた、たまらなく可愛いのですよ……!

 失礼。現実逃避し過ぎました。
 もう良いです。この羅刹の行動に理由とか年頃の娘に対する配慮とかデリカシーとかを求めても仕方ないと諦めていますから。

 ただ、ですね。
 髪をきちんと拭ってないせいで、落ちる雫が私の首筋に……冷たいのですけど!
 こんな空調も効いてる部屋では、そんな状態で放置したら風邪を引いてしまうのではないですか?
 まぁ、私も服が濡れてしまうので、風邪の危険性があるのですが、幸いに身体は丈夫な方なので大丈夫です。たぶん。

「あの……」
「何だ?」

 尋ね返しながら、プチシューを私の口元に運ばないでください、佐多くん。今はそれより先にやるべきことがありますから。

 立ち上がった私は、くるりと後ろを向くと、佐多くんの肩にかけられていた白いタオルを頭にパサリと乗っけました。
 あ、いい感じに影になって、視線が遮られました。これは良いですね。
 そんなことを考えながら、わしわしと髪の毛を拭っていきます。黒い髪だし、黒いTシャツに黒のジャージ姿という黒一色の出で立ちのせいか、だんだん平蔵に見えてきます。雨の日の散歩の後や、シャンプーの後は、よくこうしてタオルで拭いてあげたものでした。
 時折、タオルの隙間から真っ黒くて一途な眼差しで見上げてくるところなんて、そっくりで……す?

「……アンタ」
「は、はい?」

 わっしわっしと拭う手を止めました。そうです、これはラブラドール・レトリバーではなく狼でした。

「随分、手馴れてんだな」
「そ、ソウデモナイデスヨ~? 人にこんなことするのは初めてです」

 相手が犬だったら手馴れたものなのですけどね。

「じゃ、逆に全然男慣れしてねぇんだな。ハヤトがいねぇからって誘われてるんだと思った」
「……?」
「気付いてねぇんだな」

 見上げる瞳に何故か不穏なものを感じました。
 その輝きは、構って欲しいとねだる平蔵そっくりでした。なかなか構ってもらえないときは、とんでもないいたずらをやらかすのです。私のつま先を甘噛みしたり、いきなり後ろからのしかかってきたりとか、かわいいものでしたけど。

「目の前で揺れてるコレ、触って欲しそうなんだが」

 うひゃぁ、と悲鳴を上げた私を、誰も責められないと思います。
 何も考えずに、平蔵にしてあげている感覚で拭いていたものですから、すこん、と抜けていました。体勢を考えたらそうですよね、相手の目の前に私の胸がきますよね。ついでに揺れていましたか、そうですか。自分の体型が憎いです。

「アンタ、天然って言われるだろ」
「言われたことありません……!」

 一メートルほど距離を開けてしゃがみ込む私にそう指摘した佐多くんは、イイ笑顔を浮かべていました。
 あれ、笑顔?
 もしかして、私、佐多くんの笑顔を初めて見たかもしれません。かなりレアですか?

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