16.それは、虚勢だったのです。「わ、私に用なのですか?」 これ以上ないぐらいに勇気を振り絞って、私は一歩前に踏み出しました。それでも、佐多くんの手が届く位置です。 し、信頼していますからね、佐多くんっ! 「初めまして、須屋ミオさん。わたしは佐多ソウジ。トキトの父親です」 「は、初めまして……」 当然のように名前が知られています。まぁ、でも、そのぐらいは予想の範囲内です。大丈夫。 「まずは、貴女に謝罪を。息子を煽るためとは言え、部下に貴女を冒涜するようなことを口にさせたのは、わたしですから」 「てめぇの差し金かっ!」 今にも噛み付きそうな狼を、私は慌てて止めました。 だめです。目の前の人は蛇さんなのです。迂闊なことをしてしまえば、後で手痛いしっぺ返しが来るのです。 「そうだよ、トキト。彼女のことを『誰にでも股を開くアバズレ女の娘』とか『母親譲りの淫蕩さでトキトにも取り入った』とか愚弄するように命令したのは、わたしだ」 「……っ!」 「さ、佐多くん、落ち着いてください! 私は平気ですから! 私が知らない相手に何を思われようがどうでも良いのです! それに、そんなこと嘘だって佐多くん自身が知っているじゃないですか」 今にも掴みかかろうとしていた佐多くんを慌てて止めました。 あぶないです。本当に危ないのです。 「はははっ、本当に彼女が大切でたまらないんだね。そういうのは表に出すなと教えただろうに」 「もう知られている相手に隠したところで、意味がないだろ」 なんだか、佐多くんが不憫になって来ました。こんな父親が居たら、そりゃ性格も歪みますよね。常に人を寄せ付けないオーラ出すようになっても仕方ないですよね。 「えと、とりあえず、私は気にしていませんから。謝罪を受け入れます」 とりあえず、相手の欲していそうな言葉を口にしました。佐多くんとお父さんとの会話を切り上げないことには、板挟みで胃がギリギリと軋んでしまいそうなのです。 こういうタイプって、ちゃんと言質とか取って置きたいタイプでしょうから、さくさくと会話を進めましょう! 「君のような聡明な女の子が傍にいれば、きっとトキトも人間として成長できるだろう。これからも是非お願いするよ」 そう言ったお父さんは、右手を差し出しました。社会人の嗜み、シェイクハンドですね。 ただ、私の右手、血が付いてしまっているのですが…… 「え、えぇと、無理のない範囲でしたら」 えいやっと差し出してみれば、にこやかに握手されました。え、気にしないのですか? 「随分と度胸のあるお嬢さんだね。血まみれの手で握手するなんて」 「むしろ拒否されると思っていたのですが……、後でちゃんと手を洗ってくださいね」 やっぱりこの人、怖いです。 あちらから握手を拒否させようと思ったのに、気にせず握って来ました。さすが、倒れている部下さんを踏んで歩くだけのことはあります。 「あ、あの、そろそろ迎えの車が来る頃ですので、これで失礼します」 「そうだね。それでは、また、かわいらしいお嬢さん」 にっこりと笑うお父さんに、私は僅かに頭を下げて――― パァンッ! 小気味良い音が静かなフロアに響きました。 続いて、私の視界がぐるんっと回って、ゆっさゆっさと揺らされます。 「息子のモンに手ぇ出すんじゃねぇ、オッサン」 佐多くんは、私を文字通り荷物のように小脇に抱えて歩き出しました。 お父さんは、それ以上手を出す気はないみたいで、私が佐多くんに運ばれているのを、小さく手を振って見送っています。 チーン やって来たエレベーターに、私は乗せられます。 「あ、あの、ありがとうございました。佐多くん」 「悪ぃ、遅れた」 そうなのです。 頭を下げようとしたその時、何故かお父さんが私の顔の方に手を伸ばして来たのです。 びっくりして思わず手をはたいてしまったので、ちょっと左手がジンジン言ってます。 その後、佐多くんが私を運び出してくれました。緊張し過ぎて歩くのも普通にできそうになかったので、有り難かったです。 エレベーターを降りると、黒いセダンが停車していました。徳益さんが運転席にいるので、安心して乗り込みます。 訂正です。荷物な私は後部座席に、ころんと転がされました。 徳益さんからウェットティッシュをもらい、血のついた手を拭った私は、発進した車の中で佐多くんの手にそっとウェットティッシュを押し当てました。 「痛かったら、すみません」 「別に」 ティッシュを五、六枚使って手を拭い、服の肘やら膝やらについた血を軽く叩き取ると、私は大きく息を吐きました。 「うぅ、血の匂いで酔いそうです」 「え、ミオちゃん大丈夫?」 「た、たぶん……」 ウェットティッシュ特有のスゥっと抜けるような香りと錆びた鉄の臭いが混ざって、車内の空気は淀んでいます。 私は少しだけ窓を開けてもらって、やや上を見上げながら浅い息を繰り返しました。 十分ぐらいでマンションに到着すると、遠慮する私を無視して佐多くんが私を抱き上げます。さっきの荷物を運ぶような体勢ではなく、いわゆるお姫様だっこの状態なので、とても恥ずかしいのですけれど……! 「大丈夫か」 「は、はい……」 思えば、バイクでぐるんぐるんされましたし、体力的にもいっぱいいっぱいだったのではないかと思います。 十八階のマンションの部屋に到着し、セラピールームでようやく降ろされた時には、本当にふらふらでした。 「ちょっと、着替えて来ますね……」 「大丈夫か?」 「大丈夫ですよ。血で汚れた服は早く洗わないとですし……」 そんなことを言いながら、自分の部屋へと入った私は、心配した佐多くんがうっかり突入して来ないように鍵まできっちりと閉めました。 そしてキャミソールの上に羽織っていたパーカーと、デニム地のハーフパンツを脱いで、着古して柔らかくなったロングTシャツに頭と腕を通します。 そこまででした。 もう、手足に力を入れることすらできなくなって、部屋の真ん中にペタリと座り込んでしまいました。 バイト中に、いきなり「緊急事態」とか言われて怖かったのです。 バイクでびゅんびゅんと飛ばされて怖かったのです。 どことも知れないビルの前に置き去りにされて怖かったのです。 血まみれになって低い声で「殺すか」なんて言う佐多くんが怖かったのです。 知らない男の人がたくさん倒れ伏しているあの部屋が怖かったのです。 そして、あの蛇みたいな目の人が、すごく怖かったのです。 思い出したら、指先がぶるぶると震えだしてしまいました。 いいえ、指先だけじゃありません。全身が震えています。 深呼吸しようと口を開ければ、なぜか歯がガチガチと鳴ってしまいました。 どうしましょう。落ち着かないと。でも、どうやって? だって怖かったのです。たくさん怖かったのです。 心臓がキリキリと痛み、視界がくらくらとします。 「ミオ、もう着替え終わっただろ」 いけません。そろそろ部屋を出ないと、佐多くんに怪しまれてしまいます。 でも、脱ぎ捨てたパーカーとハーフパンツを拾うことすらできません。指先が震えて手に力が入らないのです。 何という弱い身体なのでしょう。不甲斐ないです。 「ミオ?」 ドンドンと、大きなノックの音が聞こえました。そういえば、少し拳の関節のところを切っていたみたいなので、佐多くんの傷の消毒をしないといけないのです。 立て! 立つのです、私の足! 「ミオ!」 ほら、心配しているじゃないですか。このままですと、ドアがノックで叩き壊されてしまいます。だから、立って歩くのです! ガンガンと勇ましく鳴っているのは、ドアなのか、それとも私の頭なのかも分かりません。胸は痛いし、呼吸は上手くいかなくてヒュウヒュウと喉は鳴るし、本当に虚弱な身体なのです。 あれ、妙に視界が暗いような狭いような……? 「ミオ!!」 あれ、目の前に佐多くんの顔が? って、痛い! 痛いです! 魂が口から搾り出されてしまいます! 「痛、い、です」 「シャンとしろ! おいハヤト!」 「はいよ、……って、トキ、ドア壊すんじゃねぇよ」 なんだか遠くで会話しているみたいですが、何を言っているのか、よく分かりません。聞こえてはいるのですが、耳を上滑りするというのでしょうか、意味がよく理解できなくて困ります。 「とりあえず、これ乗せてあげなよ」 ひゃぅっ? おでこが冷たいのです。ひんやりするのです。 あぁ、でもじんわりと気持ち良いですね。なんだかハッカみたいな良い香りもしますし。 「ミオちゃん? 起きてるかい?」 「はい、生きていますよー?」 「……うーん、まぁ、大丈夫そうかな? トキ、俺は後始末に出かけるから、何かあったら連絡寄越せ」 「分かった」 「襲うなよ?」 「るせぇ」 んー……? なんだか物騒な会話がありませんでしたか? いつの間にか閉じていた瞼をゆっくり持ち上げると、心配そうに覗き込む平蔵の顔があります。ふふふ、ビクターの犬みたいですね。 「あ、へいぞう? そんな顔しなくても大丈夫ですから。そんなにヤワなミオさんじゃないのですよ?」 がしがしと少し乱暴に頭を撫でると、くすぐったそうに目を細めます。あぁ、平蔵は本当にかわゆいのです。 やたらと重く感じる腕を持ち上げ、額の上に乗っていた濡れタオルを目の上にずらしました。あぁ、気持ち良いです。 「平蔵……、聞いて欲しいのですよ。あの人にそっくりな人に会ってしまったのです。あんな目をした人は、あの人だけで十分なのに、言動までそっくりでイヤになります」 思い出したら、また身体が震えそうになりました。 「こんなに怖い思いをした日は、平蔵と一緒に昼寝したいですね。百歩譲って小兵衛さんでも良いです。ぬくもりが傍にあるだけで、随分と落ち着けますしね……」 なんだか頭がぼーっとしてますし、ここらでうたた寝と洒落込むのが一番です。 「誰だよ」 あれ、なんだか聞き覚えのある重低音ボイスが。 ついでに、とても怒気を孕んでいる様子です。 「ヘイゾウとかコヘエとか、誰だっつってんだろ」 私は慌てて目の上に乗せたタオルを取り払いました。そこに居たのは黒ラブの平蔵ではなく……夜叉? いいえ、羅刹です。 「さ、佐多くん……、ずっと、そこに居ました?」 「あぁ」 というか、どうして私、ソファに寝転がった挙句、佐多くんに膝枕されているのですか!? いつもと反対じゃないですか! 「す、すみません、すぐどきまぷっ!」 額を大きな手で押さえつけられ、立ち上がることができません。目の前には見下ろす鬼神の怖い顔があります。え、もしかして、人生最後の日ですか? 「で、誰?」 「え、えと、何の話でしょう?」 「ヘイゾウとコヘエ。男か?」 「あ、まぁ、男? そうですね、二人とも男の子で――」 「外見教えろよ、今すぐぶっ殺しに行くから」 は、はい? ちょ、何を言ってるのですか? 「何を、言ってるのですか! あんなカワイイ子たちを殺すなんて」 「……へぇ、カワイイ系の男が好みかよ」 なんだか室温が二度ほど下がった気がします。 ……。 …………。 だ、誰か! 助けて欲しいのです! 助けてください! 助けてください! 「ど、動物虐待は、ダメです! ダメったらダメなのです!」 「人間も動物だってか?」 「あ、あんなカワイイわんこを殺すなんて、ダメなのです!」 「あぁ? 犬みてぇに尻尾振るような従順なヤツがいいのか?」 「ら、ラブラドール・レトリバーは賢いし、ちゃんと認めた人にしか従順にはならないのです! ロングコートチワワは、まぁ、よく吠えることがありますが、小さい身体なので虚勢を張るのも仕方ないのです! だから殺しちゃダメなのです!」 「……あぁ?」 「で、ですから、犬を殺すなんて、その」 「犬?」 「はい。犬です」 あれ、眉をしかめたまま、あさっての方を向いてしまいました。 でも、怒りのオーラが消えたような気がするので、動物虐待は良くないと分かってくれたのでしょうか? 「犬かよ……」 「はい。かわいいのですよ?」 写真もありますよ? 無料オンラインストレージという所に写真を全部入れてもらったので、スマホを初期化しようがいつでも見られるのです。見るためにはネットワークに接続しなければならないので、できるだけ見ないようにしていますが。 あれ、なんだかベシッと頭をはたかれてしまいました。 | |
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