TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 35.それは、密会だったのです。


「えぇと、お久しぶり、ではないですよね?」
「そうねぇ、久しぶりではないわねぇ」

 私はすっかり空っぽになってしまったアパートの一室で、畳に向かい合って座っている相手をまじまじと見つめました。
 佐多くんのアパートへ連れて行かれる際は置いていった冷蔵庫や洗濯機など大物家電も既に運び去られています。このアパートを引き払うことになったのですから、当たり前ですよね。

「えぇと、とりあえず、それ、何なのです?」
「お茶よぉ?」

 相手の持参して来た水筒のコップを受け取れば、こぽこぽと茶色の液体が……くんくんと匂いを嗅いでみると、ただの麦茶のようです。

「いやぁねぇ、別に変なものを飲まそうだなんて思うわけないじゃない?」
「お母さんは信用できないのですよ」

 麦茶だと偽って「めんつゆ」を飲ませたことがあるじゃないですか、と過去の体験を持ち出せば、「あら、単純に間違えただけじゃない」とさらりとかわされてしまいました。めんつゆだけではなく、砂糖ではなく塩入りコーヒーを飲まされそうになったりとか、薄口醤油の代わりに黒酢を渡されたりとか、挙げていったらキリがないのですけどね!
 ……食べ物の恨みは根が深いのですよ。

「あんまり時間もないから、お互いに要点だけ確認しましょ?」
「……ソウデスネ」

 帰りが遅くなってしまえば、佐多くんや徳益さんから何かを言われてしまうでしょう。ただでさえ追跡アプリ入りのスマホを電源オフにしている状況ですし。
 お母さんの方も、まぁ、おそらく、ダーリンさんの目を盗んで出て来たのではないでしょうか。雰囲気だけで私が「蛇」認定したほどの人ですから、何かしら行動に制限があってもおかしくないです。

「お母さんは、その、……ドゥームさんのこと」
「こないだも言ったけど、すっごく好きなの。あの人だったら、少しぐらい束縛してくれても嬉しいぐらいに」
「……それなら、よいのですけど」
「ミオちゃん、無理しなくていいのよ?」

 こてん、と小首を傾げ、両手を広げるお母さんは、まぁ、かわいいと言えばかわいいのですが、自分の母親ですからねぇ、年齢も分かってるのですよ?

「お母さん。私はもうお子さまではないのですよ?」
「あらぁ、寂しいわ。でもね、母親にとっては、どれぐらい成長しても『娘』のままなのよ?」
「……はい、分かっているのですよ」

 おそらく、今までの私だったら、誘われるがまま母の胸に飛び込んで、―――もしかしたら泣いていたかもしれません。今の私がそうしないのは、もう、泣くことを終えてしまったからかもしれないですね。

「お母さんに聞きたいことがあったのです」
「なぁに?」
「宮地さんのことです」

 それまで、にこやかだった母の顔が一変しました。花を飛ばす勢いだったはずなのに、目頭に皺を寄せて口元を歪める様は、とてもとてもダーリンさんとマイエンジェルちゃんに見せられる顔ではありませんでした。

「聞きたいことは2つ、なのです。1つは、現状を宮地さんが知っているのか、ということなのですけど」
「……ダーリンが、アレのことを知ってるのよ」

 低い呟きには、アレと呼んだ宮地さんに対する嫌悪が溢れていました。そうですよね。私も被害を受けたとはいえ、一番の被害者はお母さんに違いありませんから。

「えぇと、ドゥームさんは、どのくらい知っているのですか?」
「ちゃんと確認したことはないけど、おそらく、全部……だと思うわ」

 ……全部、て。
 あれ、おかしくないですか?
 だって、ドゥームさんと会ったのって、ほんの2年ほど前ではありませんでしたっけ?
 それなのに、私が生まれる前から続くアレやコレやを把握しているってことですか……?

 私の二の腕や背中やら首筋がぞぞぉっと総毛立ちました。頬のあたりまで鳥肌が立っているような気がします。

 そんな私の心境を知ってか知らずか、お母さんはいきなりにっこりと花がほころぶように微笑みました。

「だからね、ダーリンはちゃんと守ってくれてるのよぉ?」

 上司だという権限も振りかざしているようですが、何より個人的なツテとやらで、宮地さんを牽制しているそうです。詳しくは聞きたくありませんが、とりあえずお母さんの安全は確保できているようで何よりです。このままあの人が引き下がってくれれば、もう言うことはありませんね。

「それで、もう一つはぁ?」

 ぐ、これを言うのは、少し、勇気がいります。
 でも、気になるのです。もしそうだったらと思うと、怖くてたまらないのです。

「その、お盆の頃に、一度、捕まってしまいまして」
「あぁ、佐多くんが助けてくれたってアレね?」
「はぁ、その時なのですけど、その……」

 うぅ、何をどう表現したら良いのでしょう。それとも、女同士だからと、そのまま言ってしまうべきなのでしょうか。
 言葉を選びあぐねて、麦茶を飲み干すと、すぐに次の一杯が注がれました。別に喉が渇いているわけではないのですよ、お母さん。

「その、宮地さんの口からですね、えぇと、お母さんの、その、―――処女を散らした的な話が」
「あぁ、あれ妄想だから」
「……え?」
「アレはね、過ぎたストーキング行為の果てに、とうとう記憶まで捏造し始めたのよ。アレに抱かれたことなんてないから安心してね、ミオちゃん」
「安心って、その……」

 え、『安心』って何を安心すれば良いのです?
 お母さんがアレに強姦されていないことを『安心』すればよいのでしょうか? それとも私の遺伝子にアレが関わっていないことを『安心』すればよいのでしょうか?

「はい、胸くそ悪いアレの話はこれでおしまい、よねぇ?」
「……はい」

 あれ、なんだかお母さんが妙にニコニコしています。
 すごくイヤな予感しかしないのですけど。

「ミオちゃんはぁ、もう佐多くんに抱かれちゃったぁ?」
「ふぁっ!?」

 ちょ、麦茶を取り落とすところだったのです。
 今、何と言いました?

「……お母さん」
「なぁに?」
「そういうことは、何かあっても責任を取れる年になってからの方が良いと思うのですよ」
「でもミオちゃんは、もう結婚できる年でしょ?」
「学生の身分で生計も立てられてないのに、責任が取れるわけないではないですか!」
「えー? だって、佐多くんはお父さんのお仕事手伝って、それなりに稼いでるんでしょ?」
「……それ、誰から聞いたのですか」
「えぇっと、ほら、何だっけ。……トクなんとかさんて人?」

 ……もしかして、アレですか。婚姻届の保護者欄を書く時にでも聞いたんですか。

「佐多くんは、かなりオススメ物件よ? 今のうちに予約しちゃいなさいな」
「予約って」
「あと数年もしれば、もっとイイ男になると思うけどねぇ?」
「……お母さんの言う『イイ男』は当てにならないのです」
「そうかしら? 保険営業を長いことやって、それなりに人を見る目は養って来たと思うんだけど?」
「それなら言い方を変えます。私とお母さんでは、好みのタイプが違うのですよ、きっと」

 私にはドゥームさんの良さはあまり分かりませんし。

「うぅん、そうかしらぁ? きっとミオちゃんにお似合いのタイプだと思ったんだけど。―――あ、でも」

 それまで、どこかふわふわとした柔らかい表情だったお母さんが、ふと、真剣な表情を作りました。

「もし、佐多くんと別れて暮らすことになっても、不用意にダーリンに話しちゃだめよ?」
「な、……んで、ですか?」
「うーんと、ダーリンは、他人の物には興味を一切示さないの。逆に言えば、『佐多くんのもの』でなくなったミオちゃんは、ダーリンにとっては義理の娘になるわけだし、……ちょっと監視がきつくなっちゃうかも?」

 すみません。未成年なのですが、自棄酒飲んでも良いですか?
 思わず遠い目になってしまったではありませんか。

「えぇと、それは、どのぐらいの確率で、ですか?」
「うーんと、九割ぐらい?」

 てへ、と舌を小さく出すお母さんは無意識なのか意識的なのか、どちらにしても、あざといですよね。……ってそんなことはどうでもよいです。

「ダーリンはねぇ、会社とかではミスターCO2って呼ばれてるんだって。何だか、クールを通り越して、ドライアイスぐらいに冷たいから」
「……先日会った人は、影武者か何かなのですか?」

 とてもにこやかで、(好意的に見れば)愛情深そうな雰囲気の人だったと記憶しているのですが。
 お母さんやレイくんだけでなく、私や佐多くんに対してもニコニコとしてました、よね?

「おうちのダーリンは別人28号なのよぉ。うちに来たトクなんとかさんも、なんだかダーリンをチラ見してはビクビクしてて、おもしろかったわよぉ?」
「徳益さんが、ビクビクしてるって、なんだか想像つかないのです」
「そお? こっそり『誰だよこの人コワ過ぎるだろ』って呟いてたわよぉ?」

 徳益さんがそこまで怯えるほどなら、本当に違うのでしょう。むしろ職場でのドゥームさんが見てみたくなりました。あんなに奥さん&息子にデレデレしてるのに、職場はピリリとしているのですね。
 ……今度、佐多くんに聞いてみたいところです。あぁ、でも直接の接点はないと言っていましたっけ。残念です。

ピピピピピピッ

 突然鳴った電子音は、母の持ち込んでいたキッチンタイマーでした。

「そろそろ戻らないといけない時間だわ。―――ミオちゃん。今日はこれでおしまいね?」
「そうですね。私もそろそろスマホの電源を入れないと文句を言われそうです」
「じゃ、また何か聞きたいことがあれば、……そうねぇ、駅の掲示板に『XYZ』って」
「書きませんよ」
「ちぇ、残念ー」

 アパートの向かいに住む川尻のおばあちゃんに、母娘そろって挨拶に行くと、「またいつでも遊びに来てナァ」と顔をくしゃりとさせて微笑まれてしまいました。
 川尻のおばあちゃんには色々とお世話になってしまったので、本当にありがたかったのです。一人暮らしの私に色々おかずを分けてくれたり、郵便物を預かってくれたり、人情が沁みるとはまさにこのことです。

「それじゃ、またねぇ」
「はい。お母さんも身体に気をつけてください」
「……っ! もう、ミオちゃん、それこっちのセリフよぉ」

 むぎゅっと抱きしめられてしまいました。
 一時は鬱陶しくも感じたこの遠慮ない抱擁ですが、なんだか離れて暮らしているせいか、今はそれほどイヤではないです。

 私は駅までお母さんを見送って、……別れたところで、スマホの電源をONにしました。
 さて、帰りますか。

ブィー、ブィー、ブィー

 スマホが震え出しました。えぇと、ついさっきONにしたばかりですよね?
 画面を見れば、佐多くんからの着信だと知らせていました。予想通り過ぎて泣けてきます。

「はい、もしもし?」
「ミオ、無事か?」

 すみません。どうやら心配をかけてしまったようなのです。

「カバンの中で電源が切れていたのに気付かなかっただけなのです。もうすぐに帰りますから」
「迎えに行くからそこ動くな」
「え? でも、別にここから大した距離では……」
「南側のロータリーで待ってろ」
「あの、歩いて帰れる距離なのですよ?」
「人通りの少ない場所に行くんじゃねぇぞ?」
「……はい」

 どうやら、こちらの意見は黙殺らしいので、おとなしく頷くことにしました。
 何故か機嫌が底辺を這っているようなのですが、何かあったのでしょうか? 今日は仕事の日でしたから、職場でイヤなことでもあったんですかね?

「甘いものでも作って、機嫌を取っておくべき、でしょうか?」

 今日の撤収作業でカバンの中には日持ちのする食材――小麦粉とひじきと切り干し大根、それに鰹節が入っています。さて、他に何を用意すれば良いでしょうか?


「待ってろ、って言っただろ」
「えっと、ここまで早く来るとは思っていなかったのですよ」

 駅地下ではなく、駅から徒歩2分ぐらいの安売りスーパーから戻って来たら、すでにロータリーには羅刹がスタンバイしていました。
 買い足すものはすぐに決まりましたし、それこそ小走りで買い物をしたのですよ? ちょっと速すぎませんか? 法定速度はちゃんと守りましたか?

「乗れよ」

 ヘルメットを受け取った私は、促されるがままに後部座席に跨ります。何というか逆らったらマズい予感しかしないので、小動物は自らの生存本能に従うしかないのです。

 ブロロン、と大きくエンジンを唸らせたので、慌てて佐多くんの腰にしがみつきます。私がちゃんと手を回したのを確認したかどうかさえ怪しいタイミングでバイクが急加速しました。振り落とされるわけにはいかないので、自然と腕に力がこもります。

 私、何もしてない、ですよね?

 自問自答してみますが、別に今朝はふつうに先に家を出る私に、声だけで挨拶をしてくれていましたし、そこからは会ってないので、機嫌を損ねるようなことをした、ということはありません。
 ですが、どうにも佐多くんの機嫌が悪いようなので、ちょっと怖いのです。もう5時になるので、甘いものを作るのは明日以降にしようと思っていたのですが、夕食を気にせずに作ってしまった方がよいでしょうか。まぁ、私の作る甘いもの程度で、佐多くんの機嫌が直るとは思いませんが、何もしないよりはマシなはずです。

 そんなことを考えていたら、いつの間にやらマンションの前に到着していました。
 やっぱり、法定速度を守っていないと思うのですが、厳しく追及する……べきではないですよね。だって、怖いですから。

「荷物、重そうだな」
「あ、大丈夫なのです。アパートに置いていた荷物を持ち帰って来ただけですから」

 お皿など、いくつか壊れものが入っていたので、持ってくれようと手を出した佐多くんの申し出を断ると、なぜか余計に不機嫌になった気がします。……なにゆえに?

「よほど大事なもんでも入ってんのかよ」
「えぇと、お手を煩わせるわけにはいかないのですよ?」

 エレベーターに乗り込んでからも、なぜか佐多くんは私の荷物をじっと睨むように視線を向けています。
 そんなに睨んでも食材と教科書ぐらいしか入っていないのですよ?
「なんで電源切ってたんだ」
「えぇ? で、ですから、カバンの中で揉まれているうちに、うっかりOFFになってしまったみたいだって、説明したではないですか」
「……アンタ、それを俺が信じるとでも思ってたのか」
「信じるも何も、本当のことなのですよ」

 こ、怖いです。
 でも、ここで押し負けたら、もっと怖いことになりそうな気がするので、頑張るのです!

「そ、そうだ。佐多くんは、甘いものは大丈夫ですか?」
「いつも食ってんだろ」
「そういえばそうなのです。それなら、クッキーとか焼いても大丈夫ですね」
「……アンタが?」
「はい」

 あれ、なんだか視線の印象が変わりました?

「もしかして、クッキーも作れない女子力ゼロの人間とか思ってたりします?」
「いや、生活費切り詰めて一人暮らししてたヤツが、家事オンチなわけねぇだろ」
「……1時間もあれば十分作れますよ? ここに材料もありますし」
「俺が食ってもいいのかよ」
「え? 毒なんて仕込みませんよ?」

ポーン

 あれ、なんだか「違う」とか「そうじゃねぇ」とか言われたような気がするのですが、到着のチャイムでよく聞こえなかったのです。
 エレベーターを出て部屋に向かう途中、ぼそりと佐多くんが「食う」とこぼしました。

「はい、作りますね」

 ちゃんと聞こえましたよ、という意味を込めて見上げると、なぜか睨まれてしまいました。あれれ、でも、食べるって言いましたよね?


 結局、小麦粉、砂糖、バター、くるみをさっくり混ぜて、トースターで焼き上げたクッキーは、その半分以上を佐多くんに食べられてしまいました。
 夕飯前なのに、大丈夫なのかと思いましたが、それも無用の心配だったようで、夕飯もきれいに完食していました。正直、バターの匂いにやられて私の方が残してしまいそうになりましたけど。
 うーん、やっぱり体を動かす職業の人はよく食べるのですね。
 また食べたいと言われてしまったのですが、トースターだと一度に焼ける量が制限されてしまうので、なかなか面倒なので、遠慮したいところなのです。
 正直にそう話したところ、「ハヤトにオーブン用意させる」という謎の言葉を頂戴してしまいました。
 ……つまり、また作れということなんでしょうね。
 まぁ、オーブンがあると別にクッキーにこだわらなくても良さそうなので、構わないのですが。
 とりあえず、小麦粉と砂糖は、荷物の奥にしまい込まずに取り出しやすい場所に置いておいた方が良さそうです。

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