59.それは、カレーだったのです。「はぁ、やっぱり偉大なのです」 キッチンに立った私は、くつくつと良い音を立てている鍋の前でうっとりとしていました。 「あの人がいるだけで、本当に安心できるのです」 さっと茹でた小エビを湯切りして冷水にひたせば、ぷりっぷり感が増す気がします。これは、サラダに最後に乗っけましょう。 「ずっと傍に居てくれたら良いのですけど、……はぁ、人気のある人ですし、そう簡単にはいきませんよねぇ」 ご飯も炊けましたし、あとはトキくんが帰って来たらレタスとベビーリーフとエビでサラダをちゃちゃっと作れば完成です。うーん、でももう一品作った方が良いでしょうか? 育ち盛りの男の子ってどのぐらい用意すれば満腹になってくれるのでしょう。 「あの人に、もっとたくさん居てもらうためには、どうしたら良いのでしょう。やっぱりもっと頑張って働かないと―――」 「誰の話だよ」 「ぴゃぅっ!」 いつの間にか、トキくんが帰って来ていたみたいです。……あれ、どうして迫力が3割増しなのでしょうか? 「えっと、お帰りなさい?」 「ああ」 「お仕事、何か、ありました?」 「別に」 「不機嫌そうに、見えるのですが、何か―――」 「……」 な、なぜにして怒っていらっしゃいますのでしょうか、この羅刹様は……? えぇと、カレーをお供えしたら少しは怒気を抑えてくれたり、しませんかね? 「と、徳益さんから聞いたかもしれませんが、今日から私が夕食を作ることになったのですけれど、……カレー、嫌いでした?」 「別に」 「お腹、空いてますか?」 「それなりに」 「……その、不機嫌そうにしている理由を聞きたいのですけど」 とりあえず手をさっと洗って、エプロンの裾で拭ってから、恐怖で逃げたい気持ちを抑えつつトキくんの前に立ちます。 でも、こちらを睨みつけるだけで、トキくんは何も言ってくれません。察しろということなのでしょうか。 いつもと違う点と言えば、夕食の件だと思っていたのですが、他に異なっていることは――― 「あ! すみません! 台所に立つのに、ウサ耳カチューシャは邪魔なので外しているのですよ! すぐに取ってきますね!」 アニマルセラピーをしたかったに違いないのです! そう思って自室に取りに行こうとした私を、トキくんがいきなり抱き上げました。しかも、幼児にするように両脇の下に手を差し入れるような形で。思わず足もぷらーんとしてしまいます。 「アレはいらねぇ。とりあえずアンタの言う『あの人』について、ゆっくりじっくりとっくり聞かせてもらおうか」 のっしのっしとリビングに向かうトキくんの声は、なんだか地獄の獄卒がピッタリ、といった感じです。いえ、鬼灯マークの鬼人さんでしょうか。 「あの人、ですか?」 「アンタが言ってたろ。ずっと傍に居たいとかなんとか」 「……」 「あぁ? オレに言えねぇのか?」 どうしましょう。 私、思わず、口に出していたみたいなのです。 は、恥ずかしくて、穴掘って埋まっていたいのですけれど! 誰か、数分前の私を消去してください! いつものソファにどっかと座ったトキくんは、私を自分の膝の上に乗せました。ただし、いつもと違って、対面になるように、です。至近距離で羅刹・怒りの面を見せられるとか、心臓が破裂しそうなのです。 「ミオ?」 「あ、の、……トキくん、さっきの私の発言は忘れていただけないでしょうか?」 「……そんなにそいつが大事かよ」 大事か、と言われれば、私はこくりと頷きました。 「へぇ? で、そいつの傍に居たいって?」 「傍にいたいというよりは、傍に居て欲しい、というか、ですね。……あぁ、もう、この話はもう良いではないですか!」 「ダメに決まってんだろ。―――で?」 「で?」 「誰のことだよ」 ぐ、ぐぐぅ! 私の口からそれを告げろと、どんな羞恥プレイなのですか! トキくん、さてはSな人なのですね! 「……ミオ」 どうしましょう。トキくんの顔がいつになく凶悪です。たとえて言うなら、犯罪係数オーバーでドミネーターにロックオンされてしまうぐらいなのですよ! 「あの、トキくん。その、ですね、言っても怒ったり呆れたり笑ったりしない、ですか?」 「……アンタ次第だな」 「せ、せめて形だけでも頷いてくれたってよいではないですか!」 「できねぇ約束はしない主義だ」 うぅ、確かにもっともなのです。私もできるかどうかわからないことを約束はできません。奇しくも今日ドゥームさんに話した通り、信用に関わることですから。 「えぇと、その、みんなに好かれている人なので、私だけがどうこう、というわけではないのですよ?」 「あぁ」 「その人がいるだけで、『大丈夫』なんて安心感を持つのも、みんな一緒だと思うのですよ?」 「……」 「できるだけ、多く居てもらいたいと思うのも―――」 「だから誰だっつってんだよ」 はぁ、どうあっても言わないといけないのですね。 「福沢諭吉さんです」 「……あぁ?」 え、聞き返すなんて、もう一度言えというのですか? うぅ、トキくん、ちょっとサドっ気が過ぎるのではないのでしょうか。 「ですから、福沢諭吉です! 一万円札の!」 「……ちょっと待て」 私を睨んでいた目を閉じたトキくんは、眉間のしわをほぐすように揉み込みました。 「みんなに好かれて」 「はい」 「いるだけで安心感があって」 「はい」 「多くいてもらいたい奴」 「そうなのです」 あれ、どうしてため息をつくのですか? って呆れたんですね、わかります! 「べ、別にお金の亡者というわけではなくてですね、その、お財布に一人いらっしゃるだけで、安心できるというか。それに、たくさん居てくださるだけでもう嬉しいものですし、でも、みんな大好きなので、そうそう私だけのものにはならなくて―――」 「あー、うん、いい、ちょっと黙れ」 再びトキくんが大きく息をつきました。 「話は分かった。とりあえず、樋口一葉や野口英世と同格なんだな?」 「価値は等しくありませんが、同じぐらい好きですよ?」 「新渡戸稲造や夏目漱石とも同格なんだな?」 「さすがに伊藤博文までさかのぼりませんよ?」 「なんで金の話になったんだ?」 「……その、今日、徳益さんと仕事内容変更の相談をしていたので、在学中にどれだけ稼げるのかざっくり計算をしていたのです」 「あぁ、それでか」 「あと、相談の帰りにスーパーに寄るという話をしたら、今日の食材購入の足しに、と福沢さんをいただきまして……あ! 今日は豚肉のカレーなのです。国産豚なのですよ!」 「……あー、うん、もういい」 私を膝から下ろしたトキくんは、「先にシャワー浴びるな」と言いおいてスタスタと自室に荷物を置きに行ってしまいました。 さすがに、ちょっと、はしゃぎ過ぎてしまったのでしょうか? とりあえずは、シャワーの後にすぐにでもご飯を出せるように準備だけはしておきましょう。 ![]() 「とまぁ、そんな感じだったのです」 私は毎度恒例となった本日の報告中です。……トキくんの膝の間で。 「ち、ハヤトの野郎……」 「もういいのですよ。上司に逆らえない立場というのも分かりますし、私なりに報復もしましたし」 「アレでか」 「はい、アレで、です」 トキくんが親指でくいっと指し示す先にはピコピコハンマーが立てかけられています。あれも立派な凶器なのですよ。ちなみにハンマー部分が衝撃で破れてしまったので、早々に廃棄処分の予定です。まぁ、使うことはもうないでしょうし。 「で、アンタは大丈夫なのか」 「何がなのです?」 「今まで宮地やドゥームに会った後は荒れてただろ」 「……その節はご迷惑をおかけしました」 「いや、見てておもしろいから構わない。ただ、今回はないな?」 「そうですね……。慣れてしまったのでしょうか?」 こてり、と首を傾げると、なぜか頭の角度を戻されてわしわしっと頭を撫でられました。カチューシャを付けていないので、角度を気にせず撫でられ放題なのです。 「慣れたのなら、あっちで暮らせるか?」 「無理です!」 そこは即答です。とんでもない無茶を言わないで欲しいのですよ。 「今日だって、本当にギリギリだったのですよ。だいたい、自分のことを苦手かもしれない人間に対して、苦手かどうかなんて直球で投げてくるとか信じられないのです!」 「……あぁ。で、具体的には何て答えたんだ?」 「口から出任せなのですよ。今まで父親という存在がいなかったから戸惑ってる、って。とっさにしては、よく答えたものだと自分で自分を誉めてあげたいぐらいなのです」 「とっさに、というか、本音じゃねぇの?」 「え?」 「本音が含まれてたからすんなり口から出た。本音が含まれてたからドゥームも受け入れた。―――そう考える方が自然だけどな」 言われてみれば、確かにそうなのかもしれないのです。 父親なんて、生まれてこの方いないわけですから。それに、自己推薦な父親が、そりゃもういけ好かない蛇だったというのもありましたし。 って、そうでした。 「あの、トキくん。知っていたらで良いのですが」 「なんだ?」 「宮地さんは、今、どうしてるのでしょう? ここのところ、音沙汰がないのが逆に怖いのですけど」 「さてな。別に名前は聞かねぇから、普通に仕事やってるんだろーが」 普通に仕事。 本当にそうなのでしょうか。 ドゥームさんが抑えているから、ドゥームさんが囲っているから、それだけでお母さんを諦めるような人なのでしょうか。 「気になんのか?」 「気になります。だって、それこそ、私が生まれてからずっと、いえ、生まれる前からお母さんにつきまとっていた人なのですよ。動きがないと言われると、すごく……怖いのです」 きっと、ドゥームさんと結婚したことは掴んでいるのでしょう。徳益さんを使って私を会う場所をセッティングしたということは、既に会社で私との関係を隠すつもりはないということでしょうし、ドゥームさんからしてみれば、隠す必要がないぐらいにお母さんを守る準備が整ったと思ってよいはずです。その点だけは蛇を信用します。 だからと言って、もう1匹の蛇はどうなのでしょう。もしかしたら、何か画策しているのではないでしょうか。すべてをひっくり返すような策をその腹に抱えながら…… 想像しただけで、ぶるぶるっと体が震えてしまいました。私なんかがいくら考えても、対処できるものではないということは分かっています。でも、警戒だけはしておくに越したことはないのです。 「ミオ」 「……」 両手をそっと胸に当てます。 学校を出る時間、帰るルート、お母さんのところに寄り道するルート、買い物をするルート、それらをもう一度考え直した方がよいのかもしれません。もしくは、メイク道具一式を学校に持ち込んで、バイト先へ直行するルートも追加して――― 「ミオ」 頭の上から、強い声が落ちてきました。 「大丈夫だ。オレが守る。万が一何かあっても助けに行く」 「……トキくんに、そこまでご迷惑を」 「迷惑じゃねぇ。オレがそうしたいだけだ」 「トキくんは、優しすぎるのですよ」 「アンタを手放したくないだけだ」 トキくんの両腕が私を囲うように回されて、そのままぎゅむっと抱きしめられます。身長差もありますし、そもそも腕の太さからして全然違うので、もちろん抗うこともできません。 「ミオ……」 ぎゅむぎゅむと抱きしめてくるトキくんの声が、なんだか切ない響きを含んでいるような気がします。 が、それよりなにより――― 「さすがに苦痛、なのです」 「!」 トキくんの腕が、ピシリと固まりました。 私はトキくんの腕から逃れるべく、もぞもぞと動きます。あ、ようやく腕を少し緩めてくれました。 「アンタがどう思おうが、オレは手放す気は―――」 「力加減が間違っているのですよ」 あ、すみません。トキくんが何か言いかけてたの遮ってしまいました。 でも、本当なのですよ。たまにトキくんは私をサンドバッグか何かと間違えているのか、と思うぐらいにぎゅうぎゅうと締めてくるのです。そのうち圧殺とか笑えないのですよ? トキくんの腕に手を添えながら、そんなことをつらつらと並べ立てれば、上から困惑したような溜め息が吐きかけられました。 「あー……。悪ぃ」 「気をつけて欲しいのです。関節がミシミシ言ったり、掴まれたところが痣になったり、時々シャレにならないのですよ?」 「それは気をつける。アンタを壊すなんてとんでもねぇからな」 「壊す……って、人に使う言葉でしたっけ」 「あ? よく使うだろ」 あれー? おかしいですね。人は傷つけることはあっても壊すことはないと思っていたのですけど。やっぱり私の常識とトキくんの常識にはどこかズレがあるみたいなのです。 「ミオ」 「はい」 「……カレー、うまかった」 「おそまつさま、なのです」 それはもう、輸入肉ではなく国産黒豚を使いましたから、美味しいと言ってもらわないと黒豚さんの立つ瀬がありません。 私は体を捻って、トキくんの顔を見上げました。珍しく眉が少し下がってあまり怖くない表情を浮かべています。 「こういうものが食べたいとか、何かリクエストはありますか?」 「別に、何でもかまわねぇ」 あ、そこは予想通りなのです。やっぱり食にそれほど頓着しない人なのですね。 「あ、一つだけあんな」 「なんでしょう?」 あれ、なんだかトキくんが悪い顔を浮かべています。イヤな予感しかしません。 「ミオが食べたい」 ―――もちろん、全力で却下しました。 | |
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