TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 67.それは、進路相談だったのです。


「まぁ、大丈夫だろうけどなぁ……」

 瀬田先生が私の真正面に座って、ポリポリと頭を掻いています。前半の「大丈夫」はよいのですけれど、後半の「だろうけどなぁ」に続く言葉が気になるのですよ。そんな奥歯にものの挟まったような言い方をしないでいただきたいです。
 トキくんはあと2日ほど入院するということで、ゾンダーリングの方のバイトもない火曜日、先日行ったばかりの母の所にそう日参することもないと考えた私は、こうして担任の先生と膝を突き合わせて話をしています。
―――え? 何の話か、ですか?
 考えても見てください。高校2年生の2学期、担任と話をすることなんて、たった1つです。

 そう、進路なのです!

「なぁ、須屋。本当に第一志望はここでいいのか?」
「はい」
「……でもなぁ、他にもっと近い大学があるだろ? たとえばK里大とか」
「4年間も通う大学なのですから、自分の性格に合ったところが良いと思うのです。その点、こっちは設備も充実していますし、何より国立大ですから」
「けどなぁ……。親御さんには相談してあるのか?」

 ふ、この場合の『親御さん』に義理父は含まれるのでしょうか。まぁ、ニュアンスとしては含まれるのでしょうけどね。スポンサーですし。

「まだ、ですけど。先に学力的に見て可能かどうかを確認したいと思っていましたので」
「まぁ、問題ないがなぁ……。理科の方は大丈夫か?」
「大丈夫です。物理は、まぁ、見ての通りなのですが、生物と化学は好きですし、数学も今の所大きな(つまず)きはありません」
「んー……。それならなおのことK里大を薦めたいんだけどなぁ。一応、指定校推薦枠があるんだぞ?」
「それはその大学に行きたい人のために空けておいてください。私はこっちに進みたいと思っていますので」

 私が指さした大学の資料に、瀬田先生が眉間にしわを寄せて「むむむ」とうなりました。
 えぇと、偏差値的にムリな範囲ではないと思うのですよ? この学部で国立を探そうと思ったら、まぁ、ちょうどよいのがこの大学だっただけなのですよ―――というのは、建前ですが。

「とりあえず現状の志望校がここってことは了解した。まぁ、まだ受験まで1年あるし、ゆっくり考える時間はあるわな。それなら須屋は、来年は文理系クラスだな」
「文理系? 理系ではないのですか?」
「あぁ、須屋は部活にも入ってなかったっけな。縦の繋がりがないんなら、聞いたことないか。うちの学校の3年理系クラスは数Ⅲを取るヤツらだけなんだ。須屋の志望校だと、数学はⅡまでだろ?」

 数Ⅲ……そういえば、風の噂で微分・積分が頭おかしいことになっていると聞いたことがあるのです。

「もしかして、理科も物理と化学、なのでしょうか?」
「いや、これはまぁ、あとでHRでも説明する予定だが、理科と社会は科目選択制で、同じクラスでも選択科目によって別々の授業になるんだ。――――ところで」

 瀬田先生がぐい、と身を乗り出しました。何やら真剣な顔でこちらを見てくるのですが、イヤな予感しかしないのです。

「須屋、お前、佐多の進路とか聞いてたりするか?」
「進路……ですか? 以前、法学部がどうとか言っていたような気もしますけど」
「っかー! やっぱりか! 理系の合格実績上げたいっていう話を他の先生方としてたところなんだが、やっぱ無理だよな」

 正直、私にすらすらと物理を教えてくれたトキくんなので、ある程度の大学なら受かりそうな気もするのですが、とりあえず曖昧(あいまい)に微笑んでおきましょう。だって、下手なことは言えませんし、迂闊(うかつ)なことを口にしたら、トキくんが大変なことになるのです。

「あぁ、あと、佐多がどうして休んでいるのか聞いてるか?」
「……瀬田先生、おそらく差し出がましい話になると思うのですが」

 私は大げさに溜息をついて見せました。
 このぐらいのパフォーマンスを見せないと、また似たようなことが何度もありそうなのです。さすがに『羅刹窓口係』を続ける気はないのですよ?

「ある特定の生徒の動向について、他の生徒経由で聞き出そうとするのはどうかと思いますよ?」
「そういうなよ。須屋と佐多の仲だろ?」
「そこに瀬田先生は微塵(みじん)も関係がありませんよね?」
「いや、お前らの担任だから」

 ……だからと言って、さすがにこれはプライバシーの侵害だと思うのです。

「瀬田先生。とりあえず、学校側とト……佐多くんとの取引については何も聞かなかったことにしますし、できるだけ学校に来るように説得したりもしますけど、私にも受け入れられるラインっていうものがあるんですよ? それとも、これ、セクハラとかパワハラとかモラハラとか呼んでもよい行為ですか?」
「……はぁ、須屋は心が狭いな」

 少しカチンときました。そういうふうにアピールするのでしたら、こっちだって手段を変えるのですよ。

「個人的な交友関係に関することですから。以前、津久見さんから不適切かもしれない交友関係に口を出されたとき『教師である前に個人だから、個人のプライバシーには立ち入らせん!』とおっしゃってましたよね?」
「……須屋、もしかして、聞いてた?」
「すぐ近くに私と諏訪くんが立っていたのにも気づかなかったのですか?」
「――――はぁ、参った。分かった。佐多のことについては無理に聞かない。これでいいか?」
「はい。これでよいのです」

 本当は、津久見さんから事の顛末(てんまつ)を聞いたのですけど、そこは黙っておきます。夫を持つ女性と駅の飲み屋街で歩いていた姿を目撃したとかしないとかいう話は、吹聴しても楽しい話ではありませんし。津久見さんも、その女性の夫の方が経営している楽器屋さんに通っている身でなければ気付かなかった、という話だったわけなのですが、この先どう転んでも気持ちのよい話にはならないのでしょう。

「須屋、そんなにお前イイ性格してたか?」
「夏からこっち、義理父含めて色んな人と接する機会があったので、自然と話の持って行き方が変わってしまったのかもしれないのです」
「……義理の父親とうまくいってないのか?」
「どうなのでしょう? さすがに腹を割って話すことはできていませんが、あちらも受け入れようとはしてくれていますし、こちらも譲歩はしています。親子ゲンカ、のようなものもしましたから、大丈夫ではないでしょうか?」

 なんて口では言えますが、うまくいっているわけがないのです。私にできるのは、ひたすらに避けて、言質を取られるような会話をしないということだけなのですから。あの蛇に比べたら、瀬田先生の相手なんて、楽ちんなのですよ。いや、楽ちんは言い過ぎですね。

「それなら、まぁ、いいんだけどな。再婚なんて子供にとって見たら、家庭内の環境が大きく変わる一大事だから、と思ったが、1学期に比べて元気そうだから問題ないか」

 ……1学期は、リアルに貧乏暮らしをしていたので元気に見えなかったのでは? 今の暮らしに慣れてしまったので、もうあんな生活には戻れそうにないのです。空調の利いた部屋に、使いたい放題の食材、ふかふかのベッドに、使い勝手のよい座卓。うぅ、卒業後のことを考えると、今から心配なのです。

「とりあえず、近日中に進路希望の紙は配布するから、ここらへんの資料持ち帰って、ちゃんと親御さんに話しとけよ」
「はい」

 反対されそうなので、もちろん母親にしか話しませんとも。


こつ、こつ、こつ

「う~ん?」

こつ、こつこつ、こつ

 スマホの画面をタップしながら、私はさらさらとルーズリーフに数字を書きこんでいきます。
 想定される家賃、光熱費、食費、通信費はもちろんのこと、初期費用である引っ越し代や敷金礼金の問題もあるのです。確実に寮に入れたら良いのですけど、こういうのって毎年倍率が変わりそうですし、年次が上がると新入生優先で追い出されたりするらしいですからね。

「何やってんだ?」
「ふわひゃっ!」

 私は広げていた資料を、ババババッと固めて1つにまとめました。
 そして、振り向きざまに怒鳴ります。あ、ここポイントです。振り向いて顔を見てしまうと、とても怒鳴れません。振り向きながら言うのがコツなのです。

「どうしてここにいるのですか!」
「あー……自主退院?」
「トキくん! ケガ人の自覚はあるのですか!」

 さすがにこれは怒っても良いところなのです。お見舞いの時に、傷口のいくつかは大きいので、テープを貼って留めていると聞いたばかりなのです。最近は縫うよりもテープで留めることが多いらしいのです。びっくりなのです。

……って、そうではなくて!

「どうやってここまで帰って来たのですか!」
「普通にタクシーで」
「……つまり、入院にかかったお金は踏み倒しているのですか?」
「あのオッサンが何とかしてんだろ。毎回、1日や2日程度は早めに自主退院してるし、病院の方も慣れてるはずだ」
「毎回? 入院は今回が初めてではないのですか?」
「入院なんて毎年何かしらやってるな。あ、去年は珍しくなかったか」

 信じられないのです! 入院が毎年ということもそうなのですが、毎回自主退院とか!

「病院の方だって、早めにベッドが空くのは助かってんだろ」
「そういう問題ではないのです! 普通は、担当医がチェックして問題なしと判断してからようやく退院なのですよ? こういうのはちゃんと専門家に判断を委ねて―――」
「あぁ? オレの身体のことは、オレが一番知ってるに決まってるだろ。レントゲンも見たし、所見も聞いた。ついでに痛みの度合はオレが一番よく分かってる。判断材料としては十分じゃねぇか」

 ぬぐぐ、何なのでしょう。この敗北感。何をどう言い返せば良いのか分かりません。

「で、アンタは何やってたんだ?」
「卒業後の進路について考えていただけなのですよ! とりあえず、自主退院については何も言いませんから、自分の部屋で安静にしていてください!」
「へぇ、どこ行くんだ?」
「トキくん、人の話を聞いているのですか!」
「おー、怖い怖い。アンタ、あの病棟に居た看護師そっくりだ。人が動くのを見て目の端吊り上げるのなんて、特にな」

 相手はけが人なので、手をあげてはいけないのです。我慢なのです。

 私が必死で憤りを堪えているのを、トキくんは何を思ったのか、突然ぎゅむっと抱きしめてきました。

「あー……、やっぱこれがねぇとな」
「トキくん、人を何だと思っているのですか」
「小動物」
「……」
「オオカミの世話係だったか?」
「……」
「あとオレの」
「すいません、それは却下させて欲しいのです」
「ちっ」

 ちょ、耳元で舌打ちとかやめてください! なんだかぞわぞわって鳥肌が立つのですよ。

「やっぱ、しばらく離れてると、小動物は人の顔忘れるってのは本当か」
「トキくん、さすがに失礼だと思うのですよ? 人の顔を忘れるって、別に私は―――」

 ふと、フラッシュバックが起こってしまいました。
 まざまざとよみがえってきたのは、長い髪の女性の後ろ姿です。不機嫌そうに話すトキくんの正面に立ったその女性は、ぐっと背伸びをして、顔を近づけて……

「っ!」
「っってぇ!」
「す、すみません! やだ、え、本当に申し訳ないのです。傷口を押してしまったのですよね?」

 慌てて謝ったのですけど、長く伸ばした前髪から覗く目は、不機嫌な獣そのもので、つい先ほど湧き上がった言いようのない嫌悪感なんて裸足で逃げ出してしまったのです。

「口先で謝ったからって、許せると思うか?」
「いやその、突発的な事故といいますか、その、悪意のない行動で」
「許せると思うか?」

 うぅ、私が悪いとは分かっているのです。けが人に対して乱暴な行為をした私が悪いのです。

「……すみません」
「このわびに、そうだな、何か作ってもらうか。腹減った」
「はい?」
「アンタは夕飯食ったのか?」
「あ、まだ食べていないのです」

 そういえば、計算に夢中ですっかり忘れていました。今さら一食抜いたところでどうなるとも思えませんが、別に夕食を食べなくても死にはしませんし。
 時計を見れば、あぁ、もうこんな時間だったのです。

「い、一時間! ご飯が炊けるまで一時間待って欲しいのです! あぁ、でも、冷凍しておいたご飯があるから、もうちょっと時間が短縮できるはずなのですよ!」

 唐揚げ用に漬け込んでおいた鶏モモを使うとして、今から揚げるのも面倒だから照り焼きに、味噌汁は油揚げがあったし、大根も野菜室に入っていたはずなのです。野菜は、うぅ、何があったのか思い出せません。少なくともブロッコリーとキュウリは入っていたはず!

「別にそこまで急がねぇ。アンタのメシが食いたかっただけだ」
「……うぅ、そう期待されても、あのお弁当に比べたら、美味しいなんて言えないのです」
「アンタの作ったメシが食いたい。病院はメシがマズいんだ」
「それは嘘ですね! 配膳されているのを見たのですけど、美味しそうでしたよ?」
「阿呆。塩分から何からきっちり管理されてるんだぞ? 薄味過ぎて食った気がしねぇ」
「うーん、薄味でも出汁がきいていれば美味しいと思うのですけれど」

 私はイスにかけておいたエプロンを掴むと、とりあえず急げとばかりに台所へ向かいました。
 慌てていたせいなのでしょうか、普段なら先にトキくんを私の部屋から出すようにしていたのに、今日ばかりはそれをすっかり忘れてしまっていたのです。
 それを後悔するのは、少し経ってからのことなのですが、少なくとも今の私は降ってわいた夕飯調理に頭がいっぱいだったのです。

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