TOPページへ    小説トップへ    それは、通り魔的善行から始まったのです。

 68.それは、氷解だったのです。


「ん、ごちそーさん」
「はい。おそまつさまでした」

 うーん、多めに作ったのですが、鶏の照り焼きはぺろりと平らげられてしまいました。サラダもあっさり完食ですし、冷蔵庫に入っていたどこぞの名店の漬け物が僅かに残っているぐらいなので―――あ、今、最後の3枚をがばっと食べられたので、本当に完食です。

「ん? 食べたかったか?」
「いえ、ごちそうさまを言った後に食べるとは思わなかったので、びっくりしただけなのです」

 食器を重ねて片づけると、私はふきんを片手にささっと上を拭きます。いつもはトキくんにも片付けを手伝ってもらったりもしますが、さすがにケガ人なので、そこまでさせるのは、と遠慮してたりもします。脱走者ですが、ちゃんとケガ人という認識ですよ?

「食後にお茶とか飲みますか?」
「あぁ、煎茶かほうじ茶あたり飲みてぇな」
「はい、少し待ってください」

 やっぱり食後にお茶を飲むと口の中もさっぱりしますよね。食後は熱いお茶を所望されることも多いので、ちゃんとお湯は沸かしてあるのですよ。ここで暮らすようになってもう3ヶ月以上、さすがに慣れました。

「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね。……って、何でしょう?」
「座れよ」

 うーん、熱いお茶を出したばかりですし、隣に座っても別に抱え込まれるようなことにはなりません、よね? まだお皿を洗っていないので、小動物抱え込みの癒しタイムに入られると、ちょっと段取りが狂うのです。

「えぇと、それじゃ、失礼します」

 湯呑みをテーブルに置いて、エプロン姿のままで、拳1つ分だけ距離をとって腰掛けます。

「さっきは、何やってたんだ?」
「ふぇ? あ、今日は少し時間があったので、瀬田先生に進路相談をしてもらっていたのです。その資料なのですよ?」
「へぇ」
「そうそう、瀬田先生が、トキくんの進路も気にしていました。何でも理系の合格実績が奮わないとかで。―――あ、でも、法学部って言ってましたよね? やっぱりトキくんは来年文系コースなのですか?」

 私が文理系コースを選ぶので、きっと来年はクラスは別れるのでしょう。それはそれでホッとできるのです。来年も『羅刹係』とか言われたら、それはそれで面倒そうなので。

「……アンタは?」
「私ですか? 今の志望学部だと、文理系という中途半端な(くく)りに入れられるみたいなのです」
「志望学部、どこなんだ?」
「……えと、あくまで暫定なのですよ? 手に職をつけたいって思っただけなのですよ?」
「だから、どこなんだよ」

 あ、これ以上はぐらかすのはダメみたいですね。眉間にものすっごく(しわ)が寄ってます。怖いです。

「その、薬学部、なのです。薬剤師の資格が取れたら、食べるに困らないかなぁ、と」
「それなら、近くにいくらでも大学あるんじゃねぇか。……それなのに、地方に出るのか?」
「ぴゃっ!?」

 え? え? 私、そこまで話してないですよね?
 ちょ、がしっと手首掴まれて、逃げるに逃げられないのですよ!

「と、トキくん、その、なんだか顔がものすごく羅刹なんですけど」
「あぁ? 今、オレが聞いてんのはそんなことじゃねぇ。どうして地方の大学ばっかり視野に入れてんのかってことだ。そんないオレから逃げてぇのか?」
「え? 逃げる? トキくんから?」

 何を言っているのかわかりませんが、私が逃げるのは蛇からですよ? どうしてそんな話になっちゃっているのですか?

「なんだか、すごく誤解が……っ!」

 ぐいっと手首を強い力で引っ張られ、気づけばさっきまでトキくんが座っていた場所に頭を置いてしまっていました。そして、立ち上がったトキくんは、私を上から押さえつけるように拘束して見下ろしているのです!

「誤解じゃねぇだろ。卒業を機に逃げようって腹づもりか?」
「そりゃ逃げますよ! だって、卒業してしまったら、同居ルートから逃れられませんから!」
「そんなにイヤかよ」
「当たり前なのです! トキくんだって私が蛇を苦手なの知ってるではないですか!」
「……あぁ?」
「……え?」

 あれ、トキくんの顔から、少しだけ圧迫感が消えました。なんだか私のことをまじまじと見つめてます。ここまで至近距離だと毛穴も見られそうで恥ずかしいのですけど。でも、ゼロ距離で睨まれるよりは全然マシなのです。

「誰と、同居するのがイヤなんだ?」
「もちろん、ドゥームさんと、ですよ?」
「……ここから通えばいいだろ」

 一瞬、何を言われたのかわかりませんでした。それは、高校卒業後もこのバイトを続けろということなのでしょうか。いや、さすがにそれはどうかと思います。

「トキくん。お互いに大学生になれば、今とライフスタイルが変わってしまうと思うのですよ。今と同じようにバイトはさすがにできませんよ?」
「……アンタ、たまに鳥頭だよな」

 と、鳥頭なんて初めて言われたのです。
 それは、アレなのですか。3歩あるいたら全てを忘れてしまうオッペケペーな記憶力をしているということなのですか。たとえトキくんと言えど、許せない暴言もあるのです。

「その顔は忘れてるな」
「何を……なのですか」

 威圧は薄れ、どこか呆れた様子の表情になったので、羅刹の怖さは半減です。半分でも怖くないわけではないですが、そろそろミオさんだって至近距離の恐怖&脅威には慣れてきたのです。

「オレ、アンタに求婚してるんだが」
「……」

 どうしましょう。本当に忘れていました。
 いや、ほら、あれですよ。あれ。えぇと、若気の至りとかそういうレベルですよ。トキくんには、空港で見たような人前でチューしても恥ずかしくない彼女がいるわけですし。

「その様子だと、本気で忘れてたか、それとも本気にしてなかったか。本気じゃねぇのに、婚姻届とか書かせねぇからな?」
「―――えぇと、年齢的に若造と言われる程度なので、その件は丁重にお断りしたいと」
「理由は年齢だけか?」
「えぇと?」
「オレが嫌いとか怖いとかそういうことじゃねぇんだな?」

 あれれ? これ、妙な流れになってきてませんか?
 理由が年齢以外にもあるのならこの場で説明する流れですし、理由が他にないのなら、トキくんのことを、その、好き、だって言ったようなものではないですか?
 ちょ、なんという誘導尋問なのですかーっ!

「あ、あの、トキくん。それは早計というか、そのですね」
「何が?」
「ですから、その、お互いに結婚相手を探すには早過ぎる年齢だと思うのですよ?」
「へぇ?」
「ほ、ほら、トキくんなんて、まだ法定年齢にも達していないですよね?」
「……で?」

 うぅ、ごまかされてはくれないみたいなのです。この誘導尋問、偶然ではなく、意図的に作られた流れなのですか?

「結局、オレのことはどう思ってるんだ? 好きなのか? 嫌いなのか?」
「……嫌い、では、ないのです」
「イマイチ煮えきらねぇな。でも、この体勢をいやがるわけでもねぇってことは、期待してもいいのか?」
「この体勢から、トキくんをはねのけて逃げる自信はないのです」
「抵抗もしねぇじゃねーか」
「体力の無駄に終わるだけではないですか! 自慢ではありませんが、運動神経に自信はないのですよ!」
「へぇ。……で?」
「で?」
「アンタはオレのこと、どう思ってるんだ?」

 ぐ、ぐぐぐ、いつになくトキくんが強情なのです。いつもだったら、もっと早い段階で引き下がってくれるはずなのに。
 でも、トキくんだって、人のことは言えないはずなのです!

「ですから、嫌いではないと言っているではありませんか! トキくんだって、人前でチューしちゃう仲の人がいるくせに、そういうことを言えると思っているのですか」

 私の出来る限りの力でもってトキくんを睨み上げます。残念ながら、たいした眼力ではないと自覚があります。窮鼠が猫を睨むだけなのです。噛みつく? 無理に決まっているではないですか!

「チューって……アンタ、いちいち言い回しが可愛いな」
「今はそういうことを言っているのではないのです。はぐらかすということは、やましいことがあるということなのですね?」
「やましいも何も、身に覚えがないんだが?」

 トキくん、シラを切るなんて男らしくないのですよ! ここはスッパリ認めるのが(オトコ)というものなのです!

「修学旅行の初日、空港で髪の長い女の人にチューされるトキくんを見たのですよ!」
「……見た?」
「はい! おかげで初フライトの記憶が飛んじゃって台無しなのです!」
「何を?」
「ですから、トキくんが女の人と向き合って話してて、相手が背伸びしてチューをですね……」

 あれ、どうして長いため息なんてつくのですか。吐息が私に当たってこそばゆいです。

「あれを見てたのか……」
「見ていたのですよ?」
「とりあえず、オレは誤解を解いておいた方がいいのか?」
「誤解も何も、チューしてましたよね?」

 あれれ、また大きなため息なのです。呼気がくすぐったいのでちょっとは抑えてもらえませんかね。

「とりあえず、あれは部下だし男だしそもそもキスされてねぇ」
「はい?」
「仕事の関係で女装してた部下だ。報告の途中で視線を感じるとか言ってたが、あれアンタのことか」
「……団体の集合場所に近かったので、私だけではないかもですよ? 私だって待機時間中に見たのですから。―――男、なのです?」

 あれ、とってもお尻のラインがきれいだった印象があるのですが、まさかトキくん、嘘をついてたりしませんよね? あまりに衝撃的な事実に、つい語尾もおかしくなってしまうのですよ。

「アンタ、まだ疑ってるのか」

 そんな私の表情に気づいたのでしょう。トキくんはスマホを取り出すと、1枚の写真データを大画面にして私に向けてきました。

「アンタが見たの、こいつじゃねーか?」

 写真に移っているのは、髪の長い美人さんです。ちょっと化粧がキツ目な気もしますが、やっぱり美人さんです。
 そんなことを思っていたら、今度はその人の全身の写った写真に切り替わりました。あぁ、そう、このお尻のライン。間違いないのです。

「潜入操作を主にやってるヤツだ。工事もしてねぇ、れっきとした男だぞ? 何なら、今度会わせてやろうか?」
「……えと、ほんと、なのです?」
「あぁ、男だ。ついでに、そのときは声を潜めて『視線を感じる』とか言いやがったときだろーよ」

 会わせるとまで言い切られてしまっては、納得せざるをえないのです。まさか、仕事の部下さんだったとは……。
 うぅ、とんだ誤解だったのです。恥ずかしいのです。これはもう、穴を掘って埋まっていた方がよいレベルなのです。

「その、すみません?」
「あぁ」

 私が非を認めたせいか、どことなく不機嫌オーラの出ていたトキくんの表情から険が取れました。

「で、今の話、聞き違いじゃねぇよな?」
「何の話ですか?」
「初フライトの記憶がとんだとか何とか」

 あれ、そんなこと言いましたっけ?
 ……言ったような、気がするような、しないような?

「それは、それだけオレのキスの相手が気になったってことでいいんだな?」
「え」

 どうしてトキくんは、そんなにイイ笑顔を浮かべているのですか。

「それは、やっぱりオレに対する嫉妬と思っていいんだよな」
「……っふぎゃぁぁぁ!」

 慌てて逃げるべく暴れるも、あっさり押さえ込まれて、ついでに抱き込まれてしまったのです。
 メーデー、メーデー!

「アンタ、いちいち可愛いな」
「は、離してください!」

 うー、腕をこっちに持ってこうとすると、トキくんの左半身に当たってしまうのです。何とか右側を押して押して押しまくって逃げないと、なのです!

「……それ、わざとか?」
「何の話なのです! 私はいつだって本気なのですよ! とにかく離して欲しいのです!」

 ちょ、どうして人の髪をぐしゃぐしゃと撫でまくるのですか! もうちょっと加減とかそういうことをですね……!

「アンタ、普通はこういう時こそ相手の弱点を突くもんだと思うが」
「ケガ人のケガに配慮するのは、当たり前のことではないですか!」
「あー、やっぱわざとか。アンタ、優しすぎるだろ」
「い・い・か・ら・は・な・し・て・く・だ・さ・い!」

 もう、私が小動物だったら背中の毛を逆立てるぐらいのレベルで感情が沸騰しているのですよ!

「アンタに嫉妬してもらえるとは思わなかったな」
「激しく誤解なのです! 確かにちょっと動揺したりしたかもしれませんけど、激しく誤解なのですよ!」
「いい加減に落ちろよ」
「トキくんの言う『落ちる』の意味が分かりません!」

 ジタバタと暴れていたら、突然、トキくんが上からどいてくれました。……と思ったら、いつもの抱え込み体勢にされてしまったのです。まぁ、顔を見ない・見られないで済むのは助かりますけどね! 今、絶対に私の顔は真っ赤ですから!

「……なぁ、やっぱりダメか?」
「何の話なのですか?」
「結婚」
「―――ダメ、なのです」

 正直、結婚なんて考えられる年齢ではありません。まだバイトでしかお金を稼いだことのない人間が、所帯を持つなんて早すぎると思うのです。

「じゃぁ、恋人で妥協しとく」
「ふぁっ!?」

 ようやく冷えかけていた顔が、またぽぽーっとあったまってしまいました。いや、その、ちょ、ま?

「え、その、こい、恋人、ですか」
「嫌か?」
「あ、の―――」

 え、私がこんな時、どんな答えを出すか、なんて分かってますよね。

「保留で!」

 全身全霊を込めた宣言に、トキくんが不機嫌になったのは言うまでもありません、まる。

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