83.それは、静穏だったのです。無事に『保護』された私は、犬飼さんに連れられ、監禁場所から出ることが叶いました。 ……考えてもみてください。捜索依頼の出ている十代女子が、通報を受けて警察が向かった先に居たのです。誘拐された時とは別の服装でしたが、足首には鎖、しかも頬は殴られた痕跡もあります。恩田くん風に言えば、『ポリスメーンにソッコーでおロープかけられる事案』なのです。 これで、あの人がもう私とお母さんの前に現れることがなくなる、と信じたいですね。 「ミオさん。とりあえず病院にお連れしますので、どうぞ」 「え、でも、私、元気ですよ?」 「万が一ということもありますし、その頬も治療が必要でしょう」 「冷やしておけば大丈夫だと思うのですよ……」 私は犬飼さんによって開けられた後部座席のドアを、ちょっと居心地の悪い思いをしながらくぐります。 と思ったら、突然、ぐいっと手を引っ張られました。 「ひゃぅっ」 車内に引きずり込まれるや否や、ぎゅむぎゅむと圧迫されます。いえ、誰かに抱き込まれているのです。 「……トキ、くん」 至近距離の羅刹は、とても不機嫌な顔をしていました。 私の心臓が、高鳴ります。……主に恐怖で? 「ミオ」 「……はい」 トキくんはじっと私を見下ろします。でも、何故か言葉を続けてはくれません。 「二人とも、とりあえず病院の方へ回しますので」 運転席に座った犬飼さんの声がしても、トキくんは返事もせずにじっと私を見つめています。 「……トキくん?」 「……」 えぇと、この不機嫌さの原因を誰か教えてください。私、何かやらかしてしまいましたか? 「トキ、くん?」 「……」 あぁ、でも、ちょっとダメかもです。 「あのですね、トキくん。とりあえず言いたいことがあるのです。その、助けて頂いたお礼とか、一番最初に言わないといけないとは分かっているのですけど、それより何より―――」 あぁ、トキくんの怖い顔を見たら、なんだか逆に安心してしまって…… 「おなか、すいたのです」 「あぁ?」 すいません至近距離でメンチ切らないでください、お願いします。ほんっと怖いです。慣れたと思っても、やっぱりビクッとしてしまうのです。 「……ほらよ」 トキくんは自分のコートをまさぐると、黄色っぽい缶を私の目の前に持って来ました。 コーンポタージュなのです! 思わず手を伸ばした私から、すい、と遠ざけると「そんな顔すんな。開けてやるだけだから」とか言われてしまいました。うぐぐ、どれだけ物欲しそうな顔を浮かべてしまったのですか、私! でも、本気でお腹空いているのです。 「こぼすなよ」 「ありがとうございます!」 ちょっと温めの缶を両手で持つと、私はそっと口をつけました。あぁ、沁みるのです。久々の水でない飲食物に、ミオさんの胃が小躍りするのです。 「ミオ」 「はい」 「……遅れた。悪かった」 え? 「と、トキくん?」 「アンタにキツい思いをさせた。もっと早く助けられる手筈だったのに手間取った。すまない」 と、トキくんが謝った? 自発的に?え? えぇ? 「え、と、とととトキくん? ちゃんと迎えに来てくれたではないですか?」 「あの部屋に突入するのだって、宮地に面が割れてない犬飼にさせるしかなかった」 「分かってます。そういう理由がなければ、トキくんが来てくれたのですよね? それに、犬飼さんと一緒にここまで来てくれたではないですか」 私はそっとトキくんの眉間に指を添えます。この深いシワさえなければ、もうちょっと心臓に悪くなくなるはずなのです。 でも、残念ながらシワが消えません。手を離して両手でコンポタ缶を持ち直して、こくり、と一口含みました。あぁ、沁みるのです。空っぽの胃に、温いスープが優しく流れ込むのを感じながら、ほう、と息を吐きました。 「トキくん。それに犬飼さんも。助けてくださってありがとうございます」 何も言わない犬飼さんですが、運転しながら苦笑した様子だけがバックミラーに映っていました。 私は黙り込んだままのトキくんの隣で、コンポタ缶をぐぐーっと飲み干します。粒のコーンが缶の中に残ってしまうのは、どうしようもないですね。一人なら指を突っ込んで掻き出す、なんてお行儀の悪いこともしてしまうのですけど。 少し残ったコーンを名残惜しく思っていたのがバレてしまったのか、トキくんに空の缶を取り上げられてしまいました。と思ったら、トキくんは缶を足元に転がしてしまったのです。 「あの、トキくん。車内にゴミをころがしたら―――」 「気にすんな」 低く呟いたトキくんの腕が、私を引き寄せます。抱きしめられている、と気づいたのは、すぐ後でした。じんわりと温かいぬくもりに、ずっと張っていた神経がゆるゆるとたわんでいくのが分かります。 あぁ、人肌って、なんだか落ち着くのです。 「ミオ」 「……はい」 「無事で、良かった」 「……ふぁい」 空腹が紛れて、温かくなったら……睡魔も襲ってきますよね。私はトキくんの声がだんだん遠ざかるのを感じながら、それでも、すっかり安心して寝入ってしまったのでした。 ![]() 目を開けると、そこは真っ暗闇でした。 「……にゅ?」 お布団の中、だと思います。自分の襟元に触れると、触り覚えのあるツルツル感です。襟ぐりのパイピングといい、これ、私の寝巻きですね。 ただ、どうにも体が動きません。話に聞く金縛りでしょうか? 「起きたか」 「ひゃんっ」 耳元で、突然ハスキーボイスが! ……って、この声、トキくんですよね? 何やら頭の上をごそごそと探っているのが音で分かります。ほどなく、ピッという電子音がして、部屋の照明が弱く灯りました。薄暗い中でも分かる室内は、とても見覚えがあるものなのです。 「……トキくん」 「なんだ?」 「ここ、トキくんの部屋、ですよね?」 「そうだな」 「どうして、私、ここで、寝てる、です?」 自分の口から、カクカクとした質問が洩れます。私の視界を信頼するなら、ここ、トキくんのベッドなのですよ! 「アンタがオレのこと離さなかったんだろ。覚えてねぇのか?」 「え? 私、そんなこと、……え?」 ちょ、ちょっと待って欲しいのです。 無事に救出されたのは覚えています。その後、病院に寄るって、病院……? 「病院に寄って、顔の手当てと血液検査したのは覚えてるか?」 「……」 あれ、なんだか溜め息が聞こえます。 血液検査をした、ということは、注射でぷすっと採血したはずなのですよね? それすら覚えていないのですけれど? 「アンタの意識も朦朧としてたからな。―――ほんとに覚えてねぇのか?」 「あの、さっぱり、なのです」 自分の記憶領域を掘削しても、さっぱりそんな覚えはないのです。これは、何メートルもポーリングしなければだめか、とさらに思い起こそうとしたところで、私のお腹がくぅぅぅ、と自己主張をしました。 「えぇと、聞こえ、ました?」 「そりゃ、これだけ引っ付いてりゃな」 うぅ、絶対に顔が赤くなっているのですよ。恥ずかしい! 「ハヤトがレトルトの粥を置いてったはずだ。ちょっと用意してくる」 「あ、私、自分でやります」 「レンジにかけるだけだ。待ってろ」 ぎし、とトキくんが立ち上がろうとしたので、私も慌てて起き上がろうとしたところで、それに気付きました。 「ミオ」 「えぇと、これ、何でしょう?」 返事はなく、呆れたようなため息が返ってきました。 「だから言っただろ。離してくれなかった、ってな」 「わわっ、すみません。すぐに離しま――――にゅっ?」 感じた浮遊感は、抱き上げられたせいです。というか、トキくんの腕の筋肉はどうなっているのでしょうか。両腕で姫抱っこをするのならまだ分かりますが、これ、片腕で私のこと持ってますよね? いわゆる幼児抱きですよね? 「そのまま掴んでろ」 「うえぇ? でも、重いですよ。下ろしてくだしゃっ」 「気にすんな。うちのヤツらに比べりゃ軽いもんだ」 うちのヤツら? もしかして、トキくんのお仕事上の同僚も、同じように持ち上げたりするのですか? そんな疑問に首を傾げていると、トキくんはスタスタとキッチンの方へ歩いていってしまいます。もちろん、私を腕に乗せたままで。 「あの、ほんとに下ろしてください。私、自分でやります。やらせてください!」 「しゃぁねぇな」 ひょい、と下ろされた私ですが、何故かトキくんの服を掴んだ手が離れません。仕方ないので、反対の手で強張った指を一本一本はがしていきます。 「もう放すのか」 「いやいや、ほんとすみません!」 指の関節がカクカクします。トキくんの言う通り、掴みっぱなしだったのでしょう。 「トキくん。せっかくですし、お茶いれましょうか?」 「あぁ? ……ま、そうだな。目も冴えたし」 「うぅ、重ね重ね申し訳ないのです」 電気ケトルをセットしてスイッチを入れると、レトルトのお粥をレンジに入れます。お皿に開けずにそのまま食べられるタイプなので、れんげだけ出しておきましょう。 あぁ、台所に立つと、なんだか日常に戻って来た、という感じがします。 「アンタがちょこまか動いてるの見ると、戻って来た、って感じがするな」 「トキくんもそう思いますか? やっぱり台所に立つと落ち着くのです」 二人分の湯のみやら急須やら茶葉を準備しながら、私もつい微笑んでしまいます。 あぁ、日常ってなんてすばらしい。 お茶とお粥の準備が整うと、リビングでテーブルを囲むことになりました。 ……訂正します。 いつものソファで、いつもの抱え込まれ体勢でお粥を食べることになりました。厚めのタオルの上に、あっためたお粥を乗っけて、タオルごと手のひらにのせて食べてます。ちょっとお行儀が悪いですが、トキくんとの攻防の末にこの形に落ち着きました。 だって、「オレが食べさせる」とか言うんですよ? 介助されるような病人でもケガ人でもないと言っても、聞かないのですよ! 「美味しいのです……」 ハヤトさんが用意してくれたお粥は、市販されているレトルトのものですが、私には絶品料理に思えたのです。空腹は最高のスパイスといいますが、あれ本当です。 あ、気が散るので頭を撫でないで欲しいのですよ。 「トキくん。やっぱり、私、車に乗ってからの記憶がないので、何があったか教えてもらえますか?」 「あぁ」 いつものように私を抱え込んだトキくんは、病院で腫れた頬の手当てをしたこと、念のために採血検査をしたことを教えてくれました。 「微妙に受け答えが怪しかったが、アンタ、ちゃんと自分で動いてたぞ?」 「そうなのですか?」 どうも、採血のときに自分から腕まくりもしたようです。私の体、いつの間にオートモードができるようになったのでしょうか? その後、盗聴器や発信機の類の持ち込みを防ぐために、病院でハヤトさんの用意した服に着替えたそうです。さらに、マンションに戻って来てからも、自分でパジャマに着替えた、と。うん、オートモードがすばらしいです。 「……って、そうなのです! 私、下着にいくつか道具を入れっぱなしにしておいたのですが―――」 「病院で着替えたときに、一式ハヤトに渡してただろ? それも覚えてねぇのか」 「うぐ、そ、それなら良かったのです。あれ、どう考えても危険物ですから」 ノコギリにナイフ、あとはガーターに取り付けられていたアレ。どれを取っても、一歩間違えれば殺人を犯せるシロモノでしたから。 「使わなかったんだな、あれ」 「使う機会がなかったことを、ちょっと感謝したいのです」 ノコギリとナイフよりも、ガーターに付けられていた精密機械が大問題なのですよ。正しい手順で動かせば、弛緩薬入りの注射針が飛び出す仕組みになっている、なんて、怖すぎます。致死量には遠い量だと説明はされましたが、同時に、射ちどころによっては十分に人を殺せるとも説明されましたから。 「まぁ、一番危惧してた貞操の危機にはならなかったみたいだしな」 「……盗聴器、ちゃんと作動していたのですか? ……そうです! もしかして内牧さんを抱き込んでいたのですか? そもそも―――」 「その話は食い終わってからな」 「むぐぅ」 後ろを振り向いて質問攻めにしたのに、無理やりに首を戻されてしまいました。お粥はあと半分。でも、ゆっくり味わって食べることにするのです。 | |
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