TOPページへ    小説トップへ    赤雪姫の惰眠な日常

惰眠5.はた迷惑な惰眠

 1.群青の空


「まぁ、ずいぶんと早いお帰りですこと」
 宮城の一角、執務室と呼ぶには狭い房に、おっとりと、それでいてトゲのある声が響いた。
「そう言うでない。わしとて、こんなにすぐ戻ることになるとは思わなんだ」
 なぜか頭を手巾で――それこそ盗人のように――覆い隠した人影が卓に突っ伏すように座った。
 手巾からは隠しようもない流れるような黒い髪、そこから覗く双眸はおよそ人のものとは思えない紅の輝きを秘めていた。
「お疲れのご様子ですわね。お茶でもお淹れしましょうか」
 この房の主である老婦人・星瑛は部屋の隅に置いてあった茶器に近寄り、「あらいけない、お湯をもらってこなくては」とわざとらしく呟いた。
「―――湯ならある」
 卓に伏していた人影が手巾を外す。そこに現れたのは十人に聞けば十人が頷くほど文句のつけようのない美女だった。彼女が軽く手巾を振ると、水差しの中があっという間にお湯で満たされた。
「本当に、お疲れのご様子ですこと。『息抜き』に夜盗退治でもなさったら?」
「それも良いかもしれんのぅ……」
 目の前でとても良い香りのするお茶が淹れられていくのを見ながら、美女はもの憂げに同意した。


 史家は言う。
 この灯華国には、神仙の加護があると。
 建国の祖である皇帝・章。彼は火を自在に操ることを得意とする神仙に師事した。
 彼は群なす兵を薙ぎ倒し、小国同士の諍いの絶えないこの地を統一した。
 彼の傍らには、花をこよなく愛する仙女が侍っていたと伝えられている。彼女は敵味方関係なく、戦死した者のために涙を落とし、花を贈った。
 火を操る皇帝。花を咲かせる仙女。
 皇帝は国に名前をつけなかったが、誰からともなく、火と花の国、灯華国と呼ばれるようになった。
 時を下った今もなお、皇帝の血筋は絶えることなく、その権威が失墜することなく国は存続している。
 時に愚帝が権力を握ることもあったが、そうした際にはどこからともなく、神仙が現れ、後始末をつけていったという。ある時は失政の尻拭い、ある時は愚帝の暗殺、そういった形をとって。
 神仙は権威の象徴でもあり、反権威の象徴でもあった。だが、その仙女は有事の際を除き、人前に姿を現すことはないと言う。
 それゆえ、仙女が存在するか否かは史家の議論の的となるのである。
 だが、有事を予見し、仙女は現れる。伝説となってしまった昔から、灯華国が続く今まで、それだけは変わらない。だからこそ伝説は引き継がれ続けるのだ。決して忘れられてはいけないと、繰り返し刻み込むように人の口に紡がれることを狙っているかのように。


「最初の頃は、それこそ爪が割れたと言っては、ここへ愚痴をこぼしに来ていましたが、すっかり大工仕事に慣れたようですわ」
「そうか、桜莉は元気なようじゃの」
「まだ、あなたを祀る社は完成してませんのに、何かありましたの?」
 その質問に、上機嫌でお茶をすすっていた美女=紅雪は眉をしかめた。
 まさか、懲りずに求婚してくる翡翠がうっとうしくなって逃げて来たとは言えない。
「大した用事ではないが、気になる卦があってな」
「また、神祇伯が動くことになります?」
 厳しい顔つきになった星瑛に「いや、それはない」と紅雪は慌ててひらひらと手を振った。
「国の安寧には直接関わらぬよ。――じゃが、少々気になったのでな」
 どこか奥歯の挟まった物言いに、星瑛はふっと先代神祇伯からの引継ぎを思い出した。
『仙女様は、あまり政情に口出しし過ぎてもいかんのだよ』
『まぁ、それはどうしてですの?』
『麦踏みのようなものだ。風雨全てから守ってしまえば、かえって弱くなってしまうからな。人ができることは人が解決せねばならん』
『まぁ、なんだか不親切ですのね。でも、納得はできますわ』
 きっと今回も、人の手で解決できることながら、やり方を間違えてしまうと面倒な結果になるような未来を予見してしまったのだろう。
「それでは、私個人が力になれることでも?」
「……いや、これは数日もあれば十分じゃ。桜莉の口からわしが来ていることも伝わるだろうし、の」
 その言葉に、星瑛は皇帝陛下の近辺での問題だと当たりをつける。少ない手がかりで問題を推測するのももはや慣れてしまった。この目の前にいる仙女と付き合うようになってから。
「桜莉様なら、あと半刻もせずにいらっしゃるでしょう。―――ところで、雪様」
「なんじゃ?」
「髪の毛、戻されましたのね」
 突然の話題転換に「まぁ、短いとアレコレ言う輩がおってのぅ」と思わず本音を洩らす紅雪。
「例の、愛を囁く若者ですか?」
「―――想像にまかせる」
 図星だったのか、紅雪はぷいっと視線を逸らした。まるで子どものような仕草に、星瑛は笑いを噛み殺した。
「私で良ければ、その若者の愚痴でもお付き合いいたしますけれど?」
「神祇伯の仕事はどうしたのじゃ」
「今はそれほど忙しい時期ではありません。星祭りもまだ先ですから」
 それならば、と珍しく乗り気になった紅雪だったが、何かに気づいたかのように首をめぐらし、「どうやら次の機会になるようじゃな」と呟いた。
 彼女の視線の先に思いを巡らせ、星瑛も「あぁ」と納得して新しい椀に茶を注いだ。
 ほどなく、ドタドタと緊急時のような沓音が近づいてきて―――
「聞いてくださいまし、星瑛! 木工寮の長官がひどいんですのよ!」
 嵐に遭遇したかのように髪を乱した女性が飛び込んできた。
「―――あ、あら、仙女様。ご機嫌うるわしゅう。みっともないところをお見せいたしました」
 執務室には星瑛一人きりと思い込んでいた来訪者は、慌てて取り繕い、深く頭を下げた。
「その様子では、まだ社の完成には遠いようだのぅ、――桜莉」
 息を切らして走って来た彼女は、紅雪の記憶にある彼女より、やや日に焼けたようだ。衣越しではハッキリ見てとれないが、上腕にも筋肉がついているように見受けられる。
「今日、ようやく柱が立ちましたの。ひどいんですのよ、長官ったら、かすがいが曲がってるだの、本来なら木工寮の技術の粋を集めるべきだの、あれでは姑ですわ!」
 皇帝陛下の妹君という地位ながら、嫁にも行かずふらふらとしていた彼女が神祇伯の後継に選ばれて一月経つ。最初の仕事が社の建設という、およそ高貴な女性の仕事ではないにも関わらず、仕事そのものよりも不満があるのが木工寮の長官の件らしい。
「元気でやっておるようで、何よりじゃ」
「仙女様には、お待たせしてしまって、本当に申し訳ありませんわ」
 そこまで言ったところで、桜莉は視線を上官である星瑛に向けた。
「いいえ、私たちの仕事ではありませんわ。些細な息抜きにいらっしゃっただけです」
 視線の意味をきちんと理解した星瑛は珍しくにこりと微笑んだ。
「元々が老猫そのもののグウタラなお方ですもの、惰眠を貪ったり、管を巻いたりしにいらしただけですわ」
「遠慮のない表現だのぅ、星瑛。―――桜莉。いまだ後宮に住まっておるようだが、正妃殿は変わりないか?」
 紅雪の言い回しに、何かを勘付いた星瑛の指先が小さく震える。だが、尋ねられた桜莉は「えぇ」と話題の裏を読むことなく素直に頷いた。
「蔡妃様とも顔見知りでいらっしゃいますの? 2日ほど前にお会いした時は、平時と変わらず穏やかに過ごしていらっしゃいましてよ」
「うむ、何度か茶を飲んだことがあってな。変わりないようで、何よりじゃ」
「蔡妃様は、話しているだけで癒される方ですもの。滅多なことでお変わりになんてなりませんわ。あの方が正妃でなかったらと思うと、今頃後宮はどうなっているかと考えただけでぞっとしますもの」
 やたらと我の強い(または権力欲の強い親類のいる)二妃、三妃を思い出し、桜莉は両手で自分の肩を抱きしめて震えるフリをした。
 紅雪は小さく息を吐く。
「そうそう、桜莉。しばらくこの房に滞在するつもりじゃ。よろしく頼むぞ」
 思ってもみない発言に、星瑛がぷるぷると拳を握る。そんな様子を紅雪はニコニコと微笑んで見つめた。
「この―――」
「いけませんわ!」
 ボンクラ猫娘、という叫びを、桜莉が遮った。
「このようなところで寝泊りしては、仙女様の御身に障ります! どうぞ、あたくしの房に来てくださいませ!」

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