惰眠5.はた迷惑な惰眠2.漆黒の猫「どうぞ、お座りくださいませ。紅の御方」 聞く者を和ませるようなおっとりとした声が、花で彩られた房に響いた。 「正妃殿は変わらぬのぅ。前に会ったのが十余年も前だと言うのに、あの時のままじゃ」 「まぁ、紅の御方にそう仰っていただけるとは、嬉しいですわ。貴方様もあの頃と変わりないお姿で、日々老いを重ねる身としては、羨ましい限りですわ」 上座に座った美女と相向かいに座り、微笑むのはこの灯華国の正妃・蔡 梅風。その姓をとって蔡妃と呼ばれるこの国一番の高貴な身の上である。その彼女を下座に置くことが許されるのは、彼女の夫である皇帝を除けば、この国を守る仙女のみ。 「どうぞ。その菓子は、わたくしが特に目をかけている侍女の作ったものなんですの。紅の御方の口に合えば嬉しいのですけれど」 紅雪は、遠慮なく卓に置かれた焼き菓子に手をつけ、「うむ、これはなかなかに美味じゃ」と頷いた。 蔡妃はニコニコとそんな紅雪の様子を眺めている。 生まれた時から、皇帝の妃たれと権威を夢見る両親に育てられ、そして親の望むままに後宮入りし、見事第一皇子を産み落とした蔡妃。彼女は皇帝の癒したれ、という母親の教えに従い、この後宮で穏やかな空気を醸し出している。 「前に言葉を交わしたのは、湘太子が生まれて間もない頃であったかのぅ?」 「えぇ、この子は長じてのち次代の皇帝になると仰っていただけて、嬉しさ半分、心配半分でしたわ」 自らの子が皇帝、すなわち自分が国母となるにも関わらず蔡妃は当時もおっとりと「そうなんですの」と微笑んだと、紅雪は記憶している。 「ふふっ、桜莉様から聞きましたわ。桜莉様が名実ともに神祇伯となるために、大工のようなことをしなければならないのですって」 「どうやら事実が歪められておるらしいのぅ。わしの働きへのささやかな褒美よ」 蔡妃が好んで飲んでいるという西方の甘いお茶をずずっとすすると、紅雪はその血のように真っ赤な双眸を細めた。 「ずいぶんと風変わりな茶を飲んでおるようだの」 「湘が、いえ、太子殿下が持って来てくださいましたの。血の巡りが良くなると言って。―――細かいところに気配りできるのは、さすが陛下の御子ですわ」 腹を痛めて産んだ子を、まるでずっと身分の高い人間のように話す様子は、紅雪自身、何度も見て来たものだった。だが、歴代の后妃と違うのは、そこに嫌味の欠片も感じられないことだった。ここに至るまでの蔡妃の感情の通り道に興味はあるが、紅雪は無理に暴き立てるようなことは無意味だと知っていた。 紅雪は、もう一口だけ甘いお茶を嚥下すると、「そういえば」と切り出した。 「灯華国の正妃を暗殺する企みがあるようじゃ。重々、気をつけるがよかろう」 「まぁ、そうなんですの。随分と物騒なことですのね」 言葉の意味とはちぐはぐに、茶の席は和やかな空気が流れている。 動じる気配のない蔡妃を、紅雪も至極当然のように受け入れていた。 「―――さて、馳走になったな」 「まぁ、もうお帰りですの? では、どうかこの焼き菓子をお持ち帰りください。そちらに包みを用意してありますので」 紅雪がこの房に入った時から置かれていた戸口の包みを手のひらで示すと、「ならば遠慮なく」と摘み上げた。 「もし、まだ滞在されるようでしたら、ぜひお立ち寄りください。今度はもっと別のお土産を用意できると思いますわ」 「うむ、興がのれば考えよう」 そうして、二人だけの茶会は最初から最後まで、穏やかに済んだ。 ![]() その日は綺麗な青空が広がっていた。ここ数日、雨が続いていて、社の建立に手をつけられない桜莉に仕事を教えていた分の遅れを取り戻すには持って来いの日和だった。 前日までとは違い、暖かい陽射しの差し込む窓辺で『猫』が昼寝をしていた。 卓の上に溜め込んだ書類を拳1つ分積み上げていた星瑛は、窓際の『猫』を見てため息をついた。 その『猫』は艶やかな黒い毛並みをしていた。伏せられた瞼の向こう側に、見る者の心を沸き立たせる紅の瞳があるのを知っている。無防備な姿で寝ているようにも見えるが、決して油断などしていないことも知っている。 その『猫』の名を、紅雪と言った。 「いっそ、本物の猫であれば、心も癒されるでしょうけど」 書類の山に目を走らせながら呟くと、次に顔を上げた時には、窓際で昼寝をしているのが人間ではなく黒猫になっていた。気を遣ったのか、揚げ足取りかを考える必要はない。もちろん後者に決まっている。 「休憩の時間までには人に戻っていてくださいね。大膳職の大夫から、次に仙女様が降臨なされた時のための供物の、味見をお願いしたいと申し出がありましたの」 星瑛の声に、黒猫が1度だけ尻尾をビタンと叩く。了解の意なのか、食べるまでもないという拒否の意なのか、推し量ることはできなかった。 (まぁ、食べるのであれば、人に戻るでしょう) 星瑛は再び手元の書類に視線を落とした。外から木槌の音と、低い怒号と、甲高い声が交互に聞こえてくる。今日も桜莉は元気に木工寮の頭に文句をつけられながら槌を振るっているようだ。 「……! 困ります!」 「どうか……なさって……さい!」 星瑛は何事か厄介事の空気を感じ取り、筆を置いた。見れば窓辺の黒猫も億劫そうに頭を持ち上げている。 「予想以上の大風じゃの」 猫から発せられた言葉に、星瑛は諦めて書類を卓の端にまとめた。 「どうぞ、お待ちになってください!」 張り上げている制止の声の持ち主に心当たりがある。この房の警備を努めている年かさの武官だ。 「神祇伯・星瑛! 執務中にすまんが急を要する話がある」 太政大臣などには程遠い地位ではあるが、まがりなりにも1省の頭を務める星瑛に、ここまで無礼な発言をできる人間は限られている。だが、その声は予想以上に若々しく、星瑛には闖入者の見当もつかなかった。 「たとえ高い官位を給う御方でも、名乗りがないのは感心いたしません。―――名乗られてより入室なさいますよう」 年に1度か2度しか出さない、とびきりの厳しい声音に「ひぃっ」と武官の悲鳴が聞こえた。お前が怖気づいてどうする、と後で一喝しておこう、と星瑛は心の帳面に書きとめた。 「失礼した。余は太子・湘である。護国の仙女について取り急ぎ確認したい。入室を許されよ!」 返事を待たずして、回廊に繋がる扉が勢い良く開け放たれた。 そこに居たのはまだ幼さを残す容貌の男子。年は十三。星瑛も顔を知るこの国の世継ぎであった。激しやすい性質とは聞いていなかったが、その表情は怒りに染められている。 「洪武官。仙女についての話であれば、あなたに話を聞く権限はありません。控えていなさい。―――湘太子殿下、狭苦しいところで申し訳ありませんが、どうぞ、お座りください。とりあえず経緯をお聞かせ願えますか」 よほどの変事であれば、無碍に追い返すわけにはいかない、と、星瑛は椅子を勧めた。 気の弱い武官の沓音が遠ざかるのを確認してから、口を開く。 「執務を中断しなければならないほどの、火急のご用件と考えても?」 「……いや、本来ならば夕刻まで待たなければならないところ、このような非礼をすまない。だが、桜莉叔母上の耳に入れたくなかったのだ」 どうやら詫びることができるぐらいには、正気らしいと知って、星瑛はほっと詰めていた息を吐いた。 「では、手短に済ませましょう。仙女について、何をお聞きになりたいのです?」 「―――仙女は、どうして母上をお守りくださらないのか?」 星瑛は、口を開くのを躊躇った。簡潔に説明すべきか、婉曲的な表現を使うべきか――― 「母上を抹殺せんという輩が動いているというのに、どうして仙女は忠告こそすれ、お守りくださらない……」 漆黒の双眸が、真っ直ぐに星瑛を見つめる。あぁ、だめだ。こんな眼差しをする相手に、直接的表現かつ簡潔な説明をしていいはずがない。 「殿下、それは―――」 「そのような約定を結んでおらぬゆえ、な」 窓際の黒猫が、いつの間にかちょこんと座ってこちらを見ていた。星瑛は舌打ちしたい衝動をぐっと飲み込む。 「星瑛、この猫は……」 「太子・湘よ。建国の折に章と交わした約定は、国と皇帝の血統を守ること。それも人の身ではどうにもならぬ厄災のみじゃ。皇帝の妻を権力闘争から守ることなどはせぬ」 淡々とした口調に、湘太子の冷えかけていた頭が再び怒りに沸騰する。 「では、母上を見殺しにするというのか!」 仙女の使いか何かと判断したのだろう。立ち上がった湘太子は窓辺の猫に詰め寄った。 「見殺しになどしてはおらぬ。そのつもりであれば、忠告などせぬわ」 火に油を注ぐように、カカカカカッと後ろ足で首のあたりを掻き、なめきった態度をとる黒猫に、星瑛は軽い頭痛を覚えた。 「正妃の暗殺で宮城が揺らぐのも面倒ゆえ、わざわざ伝えに出向いたまで。守りたければ、自分で守るがよかろう」 捕まえようと伸ばされた湘太子の手を軽々避けると、黒猫は本棚の上段に飛び乗った。 「自分で、だと?」 「そうじゃ。後宮に住まう息子が、同じ後宮に住まう母親を守るのに支障はあるまい? それとも、次代の皇帝殿は、12、3にもなって、自分のやりたいことも出来ぬ盆暗かのぅ!」 「よ、余を愚弄するか猫畜生が! もう仙女などには頼まん! 余は、余のやり方で母上をお守りしようぞ!」 手の届かない場所から見下ろす黒猫にギャンギャンと噛み付く太子を見ながら、あぁ、手のひらで転がされている、と星瑛はこっそり嘆息した。 | |
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