TOPページへ    小説トップへ    未来はいつだって霧の奥

 2.和を以て貴しとなす


殺し屋(キラー)ショウか……」
 その少年は、一人で使うには広すぎる部屋でノートパソコンをいじっていた。まだ、いくらか青いその顔には、画面から目を守る眼鏡がかけられている。
 下半身をベッドに(うず)めたままで、彼はひたすらにキーボードを叩き続けていた。
「四年間も仕事をしていないようだが、いったい、何があって再び……」
 画面には「キラー・ショウ」という殺し屋の実績が――いったいどういう情報源なのかは知れないが――表示されていた。
 十年前から四年前までの六年間で、いわゆるスマートな殺しをおよそ五十件。失敗はたった一度だけだった。その失敗も標的以外の人物を殺してしまったというだけの、失敗にもならない失敗だ。
 その失敗の直後から、四年間、沈黙を守り続けている。
「或いは偽物(カタリ)か?」
コンコン
「失礼します」
 少年が反応するより先に、来訪者はすぐに部屋へ入って来た。
「悟様、本日より悟様の護衛をなさる方をお連れしました」
 悟と呼ばれた少年の目が、この館の見慣れた監督役に連れられて入って来た女性に向けられる。艶やかな黒髪を惜しげもなく短く切り揃えているその女性は、ネズミ色のスーツの上下を身に着けていた。少年に向かって愛想笑いを浮かべてはいたが、彼女の目は少年を油断なく値踏みしているようだった。
 そんな女性を連れて来た監督役の方は、いつも通り黒いスーツをきっちりと隙なく着こなしている。七対三で分けられた髪はムースか何かで固められていて崩れる様子もない。
「どうも、摩耶・安威川よ。よろし……」
「失せろ」
 悟は挨拶を切り捨てると、監督役に顔を向けた。
「僕は護衛などいらないといった筈だぞ、羽谷」
「いえ、ご当主様の意思でもございますので」
 その当主の孫に対して、慇懃無礼な調子で言葉を返した羽谷という監督役は、摩耶にもう少し悟の近くに行くよう促して来る。
 二、三歩足を動かし、悟の持つノートパソコンの画面を覗き込んだ摩耶は、そこに映し出された情報に小さく肩をすくめた。
「確かに、不十分な情報を見て判断してるのには、助言の一つや二つも言いたくなるけど。―――これは、偽者の(かた)りなんかじゃないわ」
「……どうして、そう言い切れる?」
「ショウは騙りには容赦がないの。過去に彼の名前を騙った者は、全て自首させられているわ」
 摩耶は真っ直ぐに悟を見据えて答える。その目が「護衛対象は大人しくしていろ」と如実に語っていた。
「そんなの、データにはないが」
 苦々しい悟の呟きを、摩耶は挑発的に鼻で笑い飛ばした。
「はん、当たり前でしょう。あくまで業界内での情報なんだから。―――ところで、羽谷さん?」
 いきなり話を振られたにも関わらず、「はい?」と平然と答える羽谷には、微塵も慌てた様子はない。
「このクソ生意気なガキのどこが『か弱いおぼっちゃま』かしら?」
 摩耶はこの館に来て初めて「おつかい犬」の上司、羽谷に会った。彼は淡々とした声音で言ったものだ。どうか、か弱いおぼっちゃまをお守りください、と。
「それはもう、……毒のせいとはいえ、まだ顔色も悪くていらっしゃいます。何しろ、この邸に子供はお一人だけですから、それだけでもか弱く見えてしまうものですよ」
 まるで用意された台本を読むように無感動に答えた羽谷に、摩耶は尚も食い下がろうと口を開きかけ―――
「えぇ、(おっしゃ)りたいことは重々承知しております。それでは詐欺だと目が語っておられますから。あぁ、そんなことを仰りたいわけではないのですね? なぜ、この広いお邸に子供が一人きりなのかと。しかし、一般家庭で子供が家に一人きりというのは、少子化の進む昨今では珍しくないということは存じておりますでしょう。しかし、何しろ今はご容態がおもわしくないので、自宅で療養というのは、至極当然の流れと思いますが。あぁ、それも違いますか。そうですね、わたくしは別に安威川様に今年で十歳になられた悟様と同年のご息女がいらっしゃるから子供の扱いも慣れていらっしゃるだろうなどと考えているわけではございません。もし、そのような理由で依頼を持ちかけると致しましたら、安威川様は四歳児のご息女を持っていらっしゃる方々と同格かそれ以下ですから。もちろん、正看護婦の資格を持っているため、悟様のご容態を見ていただくのに大変便利という理由でもありませんし、なぜそのような資格をふいにしてまでSPというご職業を選択されたのかということも、一切詮索するつもりはございません。まさか離婚した方が医者であったからとかそういう単純な理由の筈がございませんから。あぁ、わたくしといたしましたことが、いささか舌がよく滑ったようでございます。では、ご夕食の時間になりましたらお呼びいたしますので、それまで悟様とゆっくりお話しになり、信頼の土台を築いて下さるようお願いいたします。それでは」
バタン
 摩耶はしばらく羽谷の黒いスーツ姿が消えたドアを魂の抜けた瞳で見つめていた。
「おい、大丈夫か?」
 悟が声を掛けてみるが、反応らしい反応を返さない。
「……僕の護衛をする前に、死ぬなよ」
 冗談めかした呟きに、ぴくり、と彼女の指が動く。ようやく茫然自失の状態から気を取り戻したらしい。
「な、なんなの、あの羽谷っていう人は」
「この館の管理者だ」
 呟きにも律儀に答える悟に、摩耶は少し含み笑いを洩らした。
「まぁ、ビジネスだから、一度引き受けたからにはやるわよ、護衛は」
 摩耶の憎まれ口に反発するかと思われた悟は、しかし、布団の上に握り拳を作り、こう言った。
「守りきる前に、……死ぬなよ」
「は?」
「いい。……なんでもない。だから、とっとと出て行け」
「ちょ、ちょっと」
「出て行け!」
 聞き返した摩耶に、悟はしっしっと手で追い払う仕草をする。だが、激昂(げっこう)して叫んだ彼は、突然口元を押さえて、身体を「く」の字に折った。ゴボッという水気を含んだ(せき)とともに、嘔吐(おうと)する。
「や、胃液が混じってるじゃない! 大丈夫? 誰か!」
 黄色い物が混じった嘔吐物が、少年の手の隙間からぽたぽたと酸っぱい匂いとともに零れ落ちた。
バタンッ!
「悟様!」
 威勢よく開いたドアから飛び込んで来たのは羽谷だった。
「羽谷さん、タオルか何か拭くものを―――」
「安威川様、これをお使いください」
 摩耶に綿のタオルを渡す羽谷の手には、用意周到なことに少年の寝巻きもあった。
「ほら、こっちに吐いて!」
 口の中に溜まった物を全て吐き出させると、手で受け止めた吐瀉物(としゃぶつ)を丁寧に拭っていく。昔取った杵柄と言って良いのか、その行動には迷いはなかった。
「―――この部屋には監視カメラでも仕掛けられているの?」
 胃の痙攣(けいれん)も落ち着いてベッドに横になった悟から一歩離れると、摩耶は羽谷に向かって詰問した。いや、確認を求めた、という方が正しいのだろう。
「唐突に言ってくれますね。一応、なぜ、とお聞きするべきでしょうか?」
 眉一つ動かさずに答えるその態度は、どう見ても肯定にしか思えない。
「あたしの声を聞きつけたにしては早かったし、症状も分からないままに、替えの寝巻きとタオルは持って来られないわ」
 厳しい追究にも、彼は無表情のままで「どちらでも良いように解釈してください」と名言を避ける。
「まぁ、いいけどね。それと、このガキ……いえ、悟、くんが二度も『死ぬな』みたいなことを言っていたけど、何か理由があるの?」
 その言葉に、羽谷の右眉が小さく持ち上がった。
「悟様のご両親は、五年と三ヶ月前に行方不明となっており、生死不明の状態でいらっしゃいます。そして、先だっての毒騒ぎの際に、料理人が責任を取って自殺未遂を起こしてしまったことも、精神的なショックを与えてしまったのでしょう」
 それを鎮痛な面持ちで言ってくれたら、摩耶も素直に受け止めたのだが、羽谷の表情はいつも通りに変わらなかった。
「それでは、引き続きお仕事をよろしくお願いいたします」
 謎の励まし(?)を残して彼が退室すると、摩耶はベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた。
 上掛けから抜け出した弱々しい細い腕が痛々しい。嘔吐はおそらく、神経性のものだろう。
(殺し屋に狙われてるんじゃ、気の休まる暇もないわよね)
 おもむろに子守唄を歌い始めた。優しい声音が広い部屋に満ちる。ついでに曲調に合わせて悟の胸を布団越しに、ぽん、ぽん、と軽く叩いてやった。
 子守唄を口ずさみながら、部屋の中を見回す。窓から侵入された時は? ドアから身内を装って来た場合は? 様々なケースを頭の中でシミュレーションしていく。
(この子が病人であるうちは、かなりキツいわ。ベッドの周りはほとんど開けていて、障害になるものもない)
 あの時(・・・)は、いとも簡単に包囲網を抜けられてしまった。
 口を閉じて立ち上がった摩耶は、自分の鞄を持って再びベッドサイドに戻った。
 何度も見返したせいで、端の縒れてしまったその図面は、かつてキラー・ショウと当たった仕事の後に、ベテランのボディガードに当たった人に頼み込んでもらったものだった。
 黒い紐で括られた書類をくるり、と裏返すと「圭一・遠藤」と神経質な楷書で署名がされている。当時三十八歳だった彼は、今もどこかで同じ仕事に励んでいるのだろう。
「本当に、無駄のない配置だわ」
 思わず呟きが洩れた。
 標的は小学生の娘と誤解したフリをして、家全体に警備網を敷いていた。本物の標的である父親は、表向きは手薄な警護だった。摩耶も真の標的を知らされず、娘のすぐ隣で神経を尖らせていた。
 しかし、よりによって夫婦と娘、三人が一つの部屋に居た時に、キラー・ショウが仕事をした。
 油断をさせるための作戦を嘲笑うかのように、彼は標的を殺してのけたのだ。
由良(ゆら)ちゃん……」
 摩耶は、今はもう中学生になっているだろう、その娘の名前を呼んだ。
「すごい図だな」
 予想外の声に、摩耶は即座に全身を緊張させた。だが、声の主を知るとすぐに力を抜く。
「起きて大丈夫? 気分はどう?」
「大丈夫なわけないだろう。胃も痛いし頭もぼぉっとしてる。……それより、その図面はなんだ? 家の見取り図のようだけど」
 ベッドから上半身を起こして尋ねる悟を、摩耶は再び押し戻して寝かせた。
「病人は寝てなさい」
「『ゆらちゃん』が、娘の名前なのか?」
 さらに問いかけられ、摩耶は沈黙した。一瞬、心を読まれたのかとぎくりとした。
「違うのか? 僕と同じ年の娘がいるんだろ?」
「――それは『由佳里(ゆかり)』。羽谷さんから聞いたの? まぁ、そんなことはいいから、とにかく寝なさい。あなたに必要なのはそんな情報じゃなくて休息だわ」
 いかにも「めっ」と子供を相手にするように軽く叱った摩耶に、ベッドに身体を横たえたままで少年は「ムカツク女」と毒づくと、布団を頭からすっぽりとかぶってしまった。
(……何ですって?)
 相手が護衛対象とは言っても、子供でしかも病人でさえなければ、きっと彼女はその頭をしばいていた。というか、しばきたくてたまらなかった。

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