TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 5.悪夢(※クレスト視点)


「やめて! いたいよ! あにうえ!」
 必死で泣き、叫び、喚いても、一回りも二回りも大きい二人は、振り上げた棒切れを何度も振り下ろすのを止めなかった。
 まるで牧羊犬に追い立てられる羊のように、先回りされ、道を塞がれ、俺は視線の先に見つけた納屋に逃げ込んだ。
 だが、それこそが二人の狙いだったのだ。
 慌てて扉を閉め、開けられないように必死で押さえた。
 しばらくは「そんなところに逃げ込みやがって」「開けろよ」などと罵る声が聞こえてきた。ドンドンと二人が手にした棒で叩く振動が響き、身を竦ませた。
 だが、そんな乱暴な音も止み、どうやら飽きてくれたらしい、とホッと息をついた直後、ガチャリと聞こえた金属音にぞっとした。
「へっ、ざまぁ」
「せいぜい喚いてみろよ」
 遠ざかる足音に、俺はそっと扉を押す。
―――開かない。
 閉じ込められたと気付くまでには、大した時間はかからなかった。
「やだっ! あにうえ! 出して!」
埃っぽいその場所は、しばらく使われていないのか、空気も淀んでいた。
 内側からドンドンと扉を叩き、声を嗄らしても、二人がもうそこにいないことは分かっている。
 それでも、暗くて埃っぽいこの場所で、一人でいることは耐えられそうになかった。
 無造作に積み重ねられた砂袋、立てかけられたシャベル、錆付いた鎌。暗さに慣れると、壁の隙間から僅かに洩れる光で中の様子が見えて来た。
「ぐすっ」
 自分の鼻を啜る音が、いやに大きく聞こえる。
 いつ頃からか分からないけど、長兄と次兄は俺のことを逃げ惑うオモチャのように認識しているらしく、あれやこれやと嫌がらせしてくるようになった。
―――オンナみたいな顔して
―――すぐ逃げやがって
―――末っ子だから
―――泣き虫め!
 最初は真っ向から立ち向かっていたけれど、体格の違う兄二人に敵うわけもなくて、いつからか逃げることを覚えた。
 父親に何度か相談したけれど、何度か兄二人を注意したぐらいで、忙しいあの人のいない隙を狙って仕返しをされるだけだった。終いには「亡き妻にそっくりのお前を見るのがつらい」と顔を合わせることさえ少なくなった。
 どうして、こうなったんだろう。
 砂袋に腰掛け、誰かが通りがかるのを待つ間、そんなことを考えた。
「かあさまが、いきててくれれば、よかったのかな……」
 肖像画でしか知らないその人は、柔らかく微笑んでいるだけで慰めの言葉一つかけてはくれない。
 ずきん、と胸が痛んだ。
「胸……?」
 違う、痛いのは肩と腕だ。棒で叩かれた場所は、きっと青くアザになっているに違いないから。
 この前は、足だった。
 ネズミの死体を棒の先に突き刺して、俺に触らせようとした兄から逃げた先には枯れ井戸があって、そこに落っこちたときに足を捻った。あれは痛かった。一晩中ずきんずきんと痛むそこを、泣きながら耐えたのは記憶に新しい。
 さく、さくと枯れ葉を踏む音に、俺は勢いよく立ち上がった。誰か来てくれたんだ!と救出の喜びに顔も明るくなる。
「ほぉら、坊ちゃん方、気をつけなされよ」
 その声に聞き覚えがあった。老齢の庭師だ。
「はーい」
 良い返事で答えたのは、おそらく次兄。
 扉を叩こうと振り上げた手を力なく下ろした。
 これは、まだ、いつものからかいの手口だ。耳の遠い老齢の庭師の耳には、自分の声はきっと届かないだろう。届いても、次兄がごまかしてしまうに違いない。
 それなら、と再び砂袋の上に座り込んだ。
「なぁ、ヒュルゲ爺、あの小屋ってなんなんだ?」
 白々しい。知ってて閉じ込めたくせに。
「あそこの納屋ですかな? あそこはもう使われておりませんが、昔使っていた道具が少々乱雑に置いてありますゆえ、いたずらをしてはなりませんぞ」
「はい、ヒュルゲ爺」
 あぁ、長兄もいるのか。やっぱりこれは、さっきの続きなんだと確信した。おそらく、入ってはいけない場所に入ったんだと俺を叱らせるために。
 焦って助けを呼んだら思う壺だ、と自分を諌めて、じっと座り込む。助けを呼ぶなら、兄二人のいない時にしないと、と。
 だが、外から聞こえて来たパチパチという音を、自分の耳はイヤでも拾ってしまった。
「枯れ葉ってよく燃えるんだなぁ」
「あ、すげぇ、掻き回すと火の粉が舞うんだー」
「これこれ、ヨソに燃え移ってしまっては大変なことになりますぞ。おやめなされ」
 庭師の声に、背筋が凍りついた。
「燃え移るったって、そこの小屋ぐらいだろ? 使ってないならいいじゃん」
 次兄の声に、硬く握り締めた拳がぶるぶると震える。
「あの小屋じめじめしてそうだし、燃えずに煙が立つぐらいで終わるんじゃないのかな? 試しにやってみようか」
 長兄の声が突き刺さる。庭師の制止の声は、もう自分の耳には届かない。
 ゲラゲラと声を上げて笑う兄の声が、耳にわんわんと反響していた。
 まさか、いや、そんな、と冷や汗が吹き出て、寒くもないのにガタガタ身体が震える。
「ほら、この枝そっちに投げたら燃えるかな」
「やめろよ。本当に燃えるかもしれないだろ」
「でも、いらないものしか入ってないんだからいいじゃん」
「万が一、ネズミとか住み着いてたらかわいそうだろ」
 再び上がる笑い声。
 笑い声よりも大きな、自分の心臓の音がバクバクドクドクとうるさく響いて――――


「……っ!」
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
 柔らかな寝台。手触りのよい毛布。
 心臓だけが相変わらずうるさくて、首筋を伝う汗が気持ち悪い。
 二度、三度と深呼吸を繰り返し、ようやくあれが夢だったのだと自分を納得させた。
 忌々しい。
 夕方に、マリーツィアとあの家のことを少し話しただけなのに、こうやって過去の悪夢に襲われる自分の心の弱さが厭わしかった。
 とても寝直すような気分になれず、浴室ですっかり冷たくなった湯に手巾を浸し、汗を拭った。
 さっぱりとしたものの、心臓の辺りに冷たい塊があるような不快な感覚は拭い取ることはできなかった。
 躊躇うこと数秒。俺は足音を殺して部屋を出た。
 目的の部屋の前に到着すると、音を立てないように気をつけて扉を開く。耳を澄ませば、穏やかな寝息が聞こえてきて、胸の中に安堵のぬくもりが広がった。
 そろり、と目的の寝台に近づけば、半月より少し太った月が部屋の主の寝顔を照らし上げていた。
(あの夢と同じ薄暗さでも、ここまで違うとは)
 思わず口元が緩む。胸にあった氷塊はすっかり溶けていた。
 シーツに乱れ広がる黒髪を、いけないとは思いつつ掬い取る。指をすり抜けるやわらかな感触に、白い頬を撫でたくなる衝動を堪えた。
「……んむぅ?」
 しまった。起こしてしまったか。
 瞼が震え、俺を魅了してやまない瞳が姿を見せる。明るい場所では紫苑色に輝く瞳は、光源の少ないここでは暁闇の色にしか見えない。
「……ぇぅ、どした、の?」
 たどたどしく甘い声音に、俺の胸がさっきとは別の意味で高鳴った。
「かなし……? うぅん、こわかった、の?」
 いつもは丁寧な口調を崩さない彼女が、俺にそんな風に語りかけてくることなんて初めてで、ゆるりと差し出された手を、つい縋るように両手で握ってしまう。
「こわかった……の、ゆめ? こわい、ゆめ……みてた?」
 どこか幼い口調で語りかける彼女に、俺は思わず頷いてしまった。どうして、彼女はこんなにも俺のことを理解してくれるのだろう。共に過ごした時間は、決して長くないはずなのに。
 そんな俺の様子をどう思ってか、彼女は身体を捩って俺から離れるように寝台の端に移動する。どうして逃げるのか、と思わず引き止めようとする前に、ふわりと毛布を持ち上げて見せた。
「さむいから、はやく……ね?」
 まさか、悪夢の反動で自分に都合の良い夢を見ているのかと疑ったが、それでも彼女が招き入れるのを拒む理由はない。
 俺は彼女に寒い思いをさせないよう、素早く自分の身体を彼女の隣に滑り込ませた。
「んぅっ……、つめた……」
 冷たいと口にしながら、彼女は俺の頭の下に自分の腕を差し入れて、ぎゅっと抱きしめるように引き寄せてくれた。額が柔らかな胸に当たり、トクリトクリと鳴る心音に身体の力が抜ける。
 まるで心音に合わせるように、ぽん、ぽんと背中を軽く叩かれると、何故か安心感に目が潤みそうになった。
「ねーんね、こ、よいこ……、しずかーに、ねむれ……」
 甘い柔らかな声音が、俺の胸に沁み入る
「みかづきの……こぶねで、ゆめ、のなか、に」
 寝直せないと思っていたはずなのに、俺の瞼が重みを増した。冷えた身体もいつの間にか温まっている。これも、彼女の使う魔術の一つか。
 俺の意識が眠りの淵に沈もうとしているのが分かったのだろうか。彼女の唇から洩れる子守唄が止まった。
「おやすみなさい。こんど、は、よい夢を見るの……。ね、……ヴェル」
 目の奥がカァっと熱くなった。
 先ほどまで俺を包んでいた睡魔は、裸足で逃げ出したようだ。
 今、誰の名前を呼んだ?
 意識もはっきりしない、夢うつつの中で口にした名前は?
 跳ね起きた俺の身体は無意識のままに動き、気付けば彼女を組み敷いて両手を首に掛けていた。
「ヴェル? まさかヴェルハルトのことか?」
 それは俺をより嫌い抜いていた次兄の名前。
 まさか、マリーツィア。お前すら、あの兄が仕組んだ駒だったとでも言うのか?
 ぐぐ、と力を込めれば、細い腕が苦しげに宙を掻いた。か弱い彼女の抵抗など、俺には意味を持たない。
「か……、はっ」
 喉の奥から乾いた呻きが洩れる。ついさっきまでは妙なる調べを奏でていた唇が震えていた。
 騎士として鍛え上げた俺の力は、ペンより重いものを持つこともない彼女を押さえ込むことなど造作もないことだった。
(騎士として……?)
 俺はハッと我に返った。
 今、俺は、何を?
 マリーツィアを、……殺そうと?
 騎士として、ただ一人マリーツィアを守り抜くと誓ったのに。
 俺の下で、マリーツィアが苦しげに咳き込み、荒い息を吐いていた。
「……クレスト、様?」
 涙に濡れた瞳が、不思議そうに俺を見上げている。俺に首を絞められていたことを、気付いていないようにも見える。それとも、気付いた上でこの表情か? どちらにしても……無防備なことだ。
「マリーツィア、君は、ヴェルハルトの命令で俺の前に現れたのか?」
「ヴェル、ハルト? ……どちらさま、ですか?」
 ケホン、と咳き込み、俺を見上げるマリーの瞳に嘘の色はない、……と信じたい。
「あの、クレスト様。どうして、ここに? というか、重いのですけど―――」
 俺の下から逃れようともぞもぞ動くマリーの頬を、そっと撫でた。再び冷たくなっていた俺の手に、彼女のぬくもりは一層温かく感じる。
「君の寝顔を見に来たら、君が毛布の中に招き入れてくれた。背中をさすって、抱きしめてくれた。そして、……俺を『ヴェル』と呼んだ」
 ありのままを伝えれば、「そんなこと」と顔を真っ赤にして否定し、ふるふると首を横に振った。可愛らしい。けれど、許せない。
「ヴェルとは誰だ」
 彼女は知らないと首を振り続ける。
「ベッドに引き入れ、子守唄まで歌って……。どこの男だ」
 まだシラを切るつもりなのか。
 俺を裏切り、嘲笑うのか。
 頬を撫でていた俺の手が、ゆっくりと彼女の喉元に向かう。
「まさか……セヴェル?」
 マリーが目を丸くして、俺ではない誰かを見るように、遠くに視線を向けた。
「どこの男だ」
「弟です。……たぶん、三つ、下の」
 彼女自身、非常に驚いた様子で目を何回も瞬きさせた。その拍子に瞳に残っていた涙が零れ落ちる。
「名前も、すっかり……忘れてたのに。どうして―――」
 疑いようもない驚きの声に、俺はゆっくりと彼女の上から退き、項垂れた。
 ヴェルハルトの嫌がらせと勘違いして、危うく彼女を手にかけるところだった。唯一の祈りを手放してしまえば、それこそ、俺には絶望しか残されないというのに。
「すみません、クレスト様。私、何か失礼を―――」
 弟と勘違いしてしまったなら、とんでもないことをしたんじゃないかと慌てて上半身を起こしたマリーを、ぎゅっと抱きしめた。壊さないようにそっと包めば、柔らかな身体の中、トクリトクリとあの心音が響く。さっきに比べ、ずいぶんと速く鐘打っていたが。
「マリーツィア」
 耳元で息を吹き込むように囁けば、「ふぁっ?」と慌てた悲鳴がこぼれた。なんて愛らしい俺のマリーツィア。
「怖い夢を見た」
「え?」
「だから、甘やかせ」
「えぇ?」
「その弟にしていたように」
「ふぇぇ?」
 めくれ上がった毛布を戻しながら、俺は再びマリーツィアの胸に額を押し付けるようにして抱きしめた。
「あっ、あの、クレスト様っ? 弟は、別れた時にはまだ三つで……」
「関係ない」
 ぐりぐりと額を胸に擦りつければ、甘い悲鳴がこぼれる。
「えぇと、でも、ですね……」
「甘やかせ」
 異論は認めないと口にすれば、小さくないため息が俺の髪の毛をくすぐった。
「あとで、こんなの違うって、言わないでくださいね……」
 消え入るような声に、了承の返事をすれば、おずおずと腕が俺の頭の下に差し入れられた。
 ぽん、ぽん、と調子を取るように背中を一定のリズムで撫でられたかと思えば、俺が締めかけた喉から、柔らかい子守唄が紡がれる。
 優しい声に耳を傾けながら、俺は今度こそ、眠りの海へと沈んで行った。

 また、あのまとわりつくような暗闇に落ちたとしても、君という光があれば、きっと満天の星空に変わるだろう。
 愛しい俺のマリーツィア。

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