6.お師さまに報告山道は雪こそ降っていないものの、姿をすっかり冬のものに変えていた。2年前までは毎日見ていた景色のはずなのに、今の私には妙に新鮮に映る。 ひたすらに足を動かし、懐かしい工房の佇まいに安堵のため息が洩れた。 コン、コン 「こんにちは。……あれ、『マリー』さんだけ?」 玄関に出て来たアッシュブロンドの少年は、不思議そうに首を傾げた。 「久しぶり、アイク。お師さまはいますか?」 「あ、うん。どうぞ」 アイクの指摘通り、今工房に来ているのは『マリー』改め『クリス』一人だけだった。理由はもちろんあるけれど、それを話すのは一回だけでいいと思う。 「やぁ、久しぶり、マリー」 「お師さま。お久しぶりです」 お師さまに勧められた木のイスに腰掛けると、思わず自分の口から息が洩れる。人形を操る時は、立っているだけでも微調整が必要になるのだ。色々と。 「随分と遠くから操っているようだね。それで、今日は?」 「はい。―――でも、本題に入る前に、いくつか前置きだけさせてください」 私は、お師さまの言う通りに遠くから『クリス』を操っていること、もし魔力切れを起こして『クリス』の動きが止まってしまった場合は、耳を飾っているイヤリングを胸の中にあるものと交換して欲しいこと、万が一の時のために『クリス』の運び手がウォルドストウの宿屋にいることを説明した。 「それと、……すみません、ここでの会話が、私と、私の隣に居る人にも聞こえています」 「マリー、それが本題に繋がるのかな?」 「はい……」 私は自分の身体を預けている彼に、ちらり、と視線を向けた。 音を届ける魔術陣はテーブルの上に広げられている。そして、ソファに腰掛けたクレスト様が、何故かその膝の上に私を乗せている。 「お師さま。私、結婚することにしました」 『クリス』の口から伝えれば、何故かお師さまは目を細めて、大きなため息をついた。 「それは、おめでとうございます。マリーさん! ……師匠、どうしてそんな顔してるんだよ」 「いや、あー……、少し深読みし過ぎて、かな」 「深読みですか?」 結婚報告に深読みも何もないんじゃないだろうか。 「マリー、覚えてるかな。結婚前に報告したら、いつでもぶち壊せるって僕が言ったの」 その言葉に、私の本体を抱きしめるクレスト様の腕に力がぐっとこもった。 「え、えぇと、そんな会話もありましたね。でも、『娘』の幸せを願う『お父様』はそんなことしませんよ、ね?」 「まぁ、マリーが幸せならね。相手は、あの家のお坊ちゃんかな。ついでに、今も君の隣にいる?」 さすがお師さま。結婚相手もすぐに予想できたみたい。 私は、ちらり、とクレスト様の顔を見上げた。残念ながら今の表情から読み取れるものは少ない。せいぜい、お師さまに対する負の感情が渦巻いている、ぐらいしか分からなかった。 「はい、そうです。……あの、お師さま。できればそんな怖い顔をせずに祝福してくださるとありがたいんですけど」 「そうだよ、師匠。結婚て、多少の打算はあるかもしれないけど、好きな人同士がするもんだろ?」 アイクが絶妙な援護射撃をしてくれる。 そういえば、農村の出身だと言っていたっけ。まぁ、貴族でなければ、結婚観なんてそんなものだろう。 「アイクには後で身分による結婚観の違いを教えるから。―――で、その結婚相手は、育ての父に挨拶もナシかい?」 「あの、すみません。仕事上、王都を離れられないんです」 私が慌てて弁解を口にすると、何故かお師さまの顔が翳る。 あれ、そんなに変なことを口にしただろうか? お師さまの黒い瞳がスッと細められた。 「マリー。君の左のポケットにある陣を出しなさい」 珍しい命令口調に、『クリス』ではなく私の身体が震えた。それを察知したクレスト様が、何故かぎゅうぎゅうと身体を締め付ける。少し苦しい。 それにしても、どうして分かったんだろう。お師さまの黒い瞳は特別製なんだろうか。 そんなことを考えながら、私は『クリス』のポケットから魔術陣を刺し込んだチーフを取り出した。チーフに包まれた魔力源の水晶を落とさないように丁寧にテーブルの上に広げる。 「相変わらず、仕事が細かいね、マリー」 「はぁ……」 曖昧に返事をすると、「アイク、黒い糸を持っておいで」と陣を覗き込んでいた弟子に指示が飛ぶ。 糸、あるんだ。 そういえば、繕い物とか、今は誰がやっているんだろう。お師さまが……うん、やるわけはないから、アイクだろうか。 「これでいいの、師匠?」 「えぇ」 アイクから受け取った糸を、お師さまはブツブツと何か呟きながらチーフに落とす。糸はクネクネとミミズのように蠢いて、私の魔術陣に新たな意味を書き加えた。 「マリー、君の手元の魔術陣にも同じものを加えて」 「は、はいっ!」 私は慌てて立ち上が―――ろうとしたところを、あっさり阻まれた。 「すみません、クレスト様。糸を取りに行きたいので」 「何をするつもりだ」 腰に回された手は、ピクリとも動かない。 「―――魔術陣を書き換えます。お師さまは、クレスト様と直に話したいみたいですので、今は一方向にしか送っていない音を双方向にするんです」 正直、一目で魔術陣を看破した上で、新たな意味を付け加えることのできるお師さまをスゴイとも思うし、怖いとも思う。 魔術陣は、複雑であればあるほど一つ一つの記号の意味が交錯して読み解くのに時間がかかる。例えて言うなら、何本もの色糸がもつれているようなものだ。決して織物のように整然と並んでいるわけではない。 (かなわない、なぁ) 相変わらず年齢不詳だし、相変わらずものぐさだし、相変わらず鋭い。 「直接、な」 心の中でお師さま礼賛をしていた私を、何故かクレスト様は冷たい視線で突き刺し、そのまま立ち上がった。 「ふゃっ?」 何故か抱き上げられたまま部屋の隅に置いてあった裁縫箱の方へ向かう私。ゆさゆさと数歩の距離を揺られ、促されるままに手を伸ばして裁縫箱を抱えると、またゆさゆさと数歩の距離をソファまで戻る。 そこまでして、私から手を離したくないんですかっ! 考えてみれば、この『クリス』の里帰りだって、実現するまでに随分と苦労させられた。 バルトーヴ子爵、いや、お義父さまの説得は簡単だった。むしろ推奨されたと言っていい。先日報告した「嘘のダイヤ」の開発によって、ある程度の実績を認められていたし、今後の研究のためにも、ついでに山で鉱石を見て来るのもいいだろう、と。 問題は、クレスト様の方だった。 本当は自分自身の口からお師さまに結婚報告をしたかったし、アイクの顔も見たかったのだけど、どう説得しても頷いてはくれなかった。色々と妥協点を探った結果、条件付で許可を貰いはしたけれど…… (私本人ではなく『クリス』に行かせること、それと、お師さまとの会話を全て聞かせること、なんて) おかげで、音を伝える魔術陣を考案するのに一週間近く唸ってしまった。まぁ、新しい魔術陣を考えるのは好きだから、それほど苦ではなかったけれど。 そんなことを考えながら、黒い糸で仮縫いの要領で記号を描き終えると、魔術陣を再度発動させる。工房でもクリスに同じことをさせて同調は難なく終わった。 「お師さま、こちらの声が聞こえますか?」 お師さまに呼びかけながら、自分の声が『クリス』の耳に届いていることを確認すると、私は小さく頷いてクレスト様に視線を向けた。 「えぇ、届いていますよ。―――そちらにも僕の声は聞こえているかい、クレスト・アルージェ?」 「あぁ、届いている」 初めてクレスト様の声を耳にしたアイクが、何故か身体を震わせた。 うん、気持ちは分かる。少し低めの声で、抑揚が少ないから怖く聞こえるんだよね。 「5年前は随分とやってくれたね。おかげで出稼ぎがしにくくなって迷惑だったよ」 「あれはマリーを探すためにしたことだ。そもそもマリーを勝手に連れ出したのはそっちだろう」 ちょ、嫁姑戦争ならぬ、婿舅戦争が勃発してる――? 「まったく、君の執着度合いは変わらないね。マリー、本当にこんな相手でいいのかい?」 「え?」 傍観気分だった私は、いきなり水を向けられて間抜けな声を上げてしまった。すると、耳元で不機嫌そうに「マリー」と囁かれる。なんだ、この拷問。 「マリーが望まない結婚なら、いくらでもぶち壊すよ?」 「いや、あの、大丈夫です。って、お師さま。この会話、さっきもしましたよね?」 私の声に、お師さまはニコリと笑った。どうしてその笑みに黒いものを感じるのかは、あまり考えたくない。 「マリーがそう言うなら仕方ないか。……ねぇ、クレスト・アルージェ。君は本当にマリーツィアを愛しているのかい?」 「当たり前だ」 ちょ、本人の前で何を言っていますか、この婿&舅! やめて、アイクがキラキラした目で『クリス』を見てるから! 恥ずかしいから! もう、耳まで真っ赤になっている自覚はある。でも、クレスト様にがっちり確保されていて逃げる隙はなかった。 「確かにマリーは君を癒すだろう。でも、君はどうだい? 君はきちんとマリーの孤独を癒しているかい?」 「マリーの手を離したお前が言うことか? 俺はマリーを手放すつもりはない。誰に邪魔されようともな」 ……どうしよう。すごい、泣きそう。 クレスト様のセリフが恥ずかしいのもあるけど、お師さまの言葉が――― 「マリー?」 「……お師さま、気付いてたんですか?」 「君の屈託は知っていたよ。残念ながら僕はどうすることもできなかったけどね。かけがえのない親友でも見つけてくれれば、と思ってはいたけど、一足飛びに伴侶を見つけてくるなんてね」 いつにない優しい声音に、思わず目元が潤む。 いけないいけない、と目を瞬いた拍子に、ぽろりと涙がこぼれた。 「マリー、大丈夫だ」 クレスト様の顔が寄せられるのを、私はそのまま受け入れる。流れる涙はすべて、彼の唇に吸い取られてしまった。 「お師、さま。私、本当に幸せなんです。祝福して、くださいますか?」 「―――はぁ、父親もつらいものだね。マリー、君は元々自由なんだよ」 何故かガックリと項垂れたお師さまの肩を、アイクが軽く叩いた。2年前までは私の立ち位置だったその場所に今はアイクがいる。それを苦しく感じたこともあったけど、今は何故か安堵した。お師さまも一人ではない、と。 「それで、もうお披露目はしたのかい?」 「いえ、一応予定はありますが、まだ―――」 「決まったら、招待状をこちらに送るように。あぁ、アイクの分もね」 「来てくださるんですかっ?」 「もちろんだよ。王都での君の様子も見ておきたいしね」 「ありがとうございます」 あれ、何故かクレスト様の視線が痛い。 でもいいや。見なかったことにしよう。だって、私もお師さまにちゃんと会いたいし。 「招待するのは構わないが、それなら『導師ズナーニエ』の名前を使わせてもらう」 「おや、その名前に辿りついたんだね」 お師さまは否定することもなく、さらりと頷いた。 唯一困惑しているのはアイクだが、「そのうちに教えるよ」とお師さまから切られてしまったので、がっくりと肩を落としていた。 「すみません、お師さま」 「協会の方と何かあったんだろう? かわいい娘のためなら、僕の名前の一つや二つ、いつでも使ってくれて構わないよ」 うぅ、お師さまの優しさが嬉しすぎてまた涙が出そうです。 「これで用件は済んだな。それなら―――」 「あ、だめです。クレスト様」 私は慌てて遮った。余計にクレスト様の機嫌が氷点下になるのは分かったけれど、大事なことがまだ残っている。 「お師さま、デヴェンティオの件で相談したかったんです」 「あぁ、『ニコル』としてやっていた薬屋のことかい?」 そうだ。突然姿を消すような真似をしてしまったのだ。せっかく、受け入れられていたというのに。常連さんの顔を思い浮かべると、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 「今、人形の、『クリス』の方をデヴェンティオに常駐させようと思っているんです」 お義父さまには了承をもらっている。鉱石調達の面でも、それが良いと後押ししてもらっているし。お義母さまの方は、まだ説得中だ。『クリス』という着せ替え人形がお気に入りのようだから。 「魔力供給をどうするかとか、課題はまだ残っているんですけど、でも、あの町には他に薬師はいませんし」 「でも、年も取らない人形じゃ、すぐに不審がられるだろう? 気持ちは分かるけど、どこかで無理が生じるよ」 「それは、そうなんですけど……」 「マリー、何でもかんでも自分で背負おうとしちゃいけないよ。君にもできることとできないことがあるだろ?」 「あ、あのっ!」 口を挟んで来たのはそれまで傍観していたアイクだった。 「もし、よければ、……その、マリーツィアさん、弟子をとるつもりはない?」 「?」 こちらの困惑が伝わったのだろうか、アイクはお師さまと『クリス』に忙しなく視線を移しながら、慌てて言葉を続けた。 「その、自分の出身の村に頭のいい奴がいるんだ。でも、学校に行く金なんてないし。ずっと、誰かの役に立てるような仕事に就きたいって言ってる奴で、えっと、上手く言えないんだけど、薬屋って、そういう職業だろ? だから」 「却下だ」 アイクが固まった。ついでに私も固まった。 発言主は、クレスト様だ。 「弟子だと? マリーとそいつ、二人きりで過ごさせる気か」 「あ、あの、でも、クレスト様、あくまで『クリス』と一緒に……」 「だが、それを動かすのはマリー、君だろう? 弟子に気を取られるのさえ許しがたいのに、ましてや、あの狭い店で一緒に暮らすなど到底許可できない」 あれ、なんだろう、これ。 なんだか、すごく腹が立った。 そもそもデヴェンティオでの薬師生活にピリオドを打つ原因は、クレスト様自身なのに、この言い草。 「―――クレスト様」 「なんだ」 「確か、カルルさんに向かって、『クリス』には価値がないと言い切りましたよね?」 「……」 自分の言動を覚えているのか、クレスト様は無言でこちらを見つめ返して来た。 「そもそも、お客さんの引き継ぎもできずにデヴェンティオを去ることになったのも、クレスト様のせいですよね?」 「あれはマリーが―――」 「私はただ、不義理をしてしまった常連の皆さんに償いをしたいと思っただけなのに、それすらも許さないって言うんですか!」 「マリー……」 そんな眉を少しだけハの字にして見せたってダメだ。私にだって引きたくない時はあるんだから! 「……っ、ははははっ!」 割り込んで来たのは、何故かお腹を抱えて震えるお師さまの笑い声だった。 「はははは……。いや、ごめんごめん。うん、その様子だと大丈夫そうだね、マリー」 「お師さま……」 そこまで爆笑するほどのことだっただろうか。 「マリーはそっちの説得に専念していいよ。アイクの知り合いについては、こっちで調整するから。それと、一冬ぐらいなら、僕が薬師の代わりをしたっていい」 「あ、ありがとうございます。できればお願いしたいと思って、そっちに常連さんのことをまとめたものを持って行ってるんです。あと、細かい帳簿なんかは店の方に残っていますから」 「あぁ、几帳面なマリーのことだから、心配はしていないよ」 うぅ、本当に助かります。お師さま。 これで、ずっと懸念事項だった問題も解決の糸口が見えたと、私は大きく息をついた。 「あぁ、そうだ。人形の方をずっとデヴェンティオに置いておくなら、丁度いいものがある。僕としては失敗作なんだけど、マリーなら上手く使ってくれるかな」 「……失敗作、ですか?」 正直、お師さまの失敗作には良い思い出がない。 毎日決まった時間に起きるための目覚まし代わりの術式は半日呻き続ける人形に成り下がり、オノに自動で薪割りさせる魔術陣は近くの木だけでなく木製家具までぶった切る破壊道具へと変貌した。 「説明つきで、こっちの人形に持たせるよ。使えそうだったら使ってみて」 「はぁ、ありがとうございます」 ![]() 後日、『クリス』によって届けられたのは、拳が丸々入りそうな小箱が二つと、何も書かれていない石盤だった。 心配症のクレスト様の命令で、取り上げられていたけれど、次の非番の日にようやく確認することができた。 「で、何なんだ?」 「えぇと、少し待ってください」 私は石版を手に取ると、微量の魔力を送り込んだ。この石版はお師さまが実験記録に使っているもので、手に持っている人間の魔力に反応して記録された文書が浮かび上がるという仕組みになっている。どこがどうなってこんな石版ができるのか、未だに私はよく分からない。 「小箱の中身をもう片方に転送させることができるみたいです。……あ、すごい、使う魔力量が少ないんですね。これなら負担にならないです。でも、どんな欠陥が―――あぁ」 私は欠陥についての記述を見つけると、思わず声を上げてしまった。 お師さま、どうしたらこんな謎なものができるんですか? 「どうした?」 「あ、すみません。ちょっとびっくりしてしまって……」 びっくりしただけなんだから、そんなにぎゅうぎゅうと抱きしめないで欲しい。 添い寝を頑なに断ってからというもの、クレスト様はやたらと私を抱きしめる。正直、身体の自由が奪われて鬱陶しいのだけど、これまで拒否してしまうと別な方向に何かを仕出かしそうで怖かった。 「転送することで、対象の時間が歪んでしまうそうです。早送りか巻き戻しか結果はまちまちで、ナマモノには使えないようですね」 いくつか実験結果も添付されているけど、リンゴが若芽になっていたり、木片が粘土状の何かになっていたりしているようだ。鉱石は変化がないようで、魔力を込めた水晶も問題なく転送できるらしい。 あれ、鉄釘が鉄片になってる。お師さま、時間だけでなく熱まで加わってませんか? それとも溶けたのではなく釘に加工される前に戻ったのかな。 「これなら、私がデヴェンティオに行かなくても『クリス』の魔力供給には困りませんね」 「……そうか」 あれ、クレスト様の今の間はなんだろう。 『クリス』のデヴェンティオ行きに拍車がかかることを忌々しく思っているのか、それとも私がデヴェンティオに向かわないことに安堵しているのか。 「クレスト様?」 「何だ」 私は腰に回された手に、そっと自分の手を重ねた。 「もう逃げたりはしませんから、安心してくださいね」 ……たぶん。 続けたかったその言葉は、ぐっと飲み込んだ。 まだ見慣れることのできない美貌をそっと見上げれば、何故か視線を逸らされてしまった。 まさか「たぶん」が気付かれているとか? いやいやまさかそんな。 クレスト様にそっぽを向かれる行動が、照れによるものだと私が知るのはまだ先のことだった。 | |
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