TOPページへ    小説トップへ    重たい執着男から逃げる方法

 7.ダンスの最終チェック(※クレスト視点)


「え、や、でも……」
 マリーは困ったように眉を下げて、ちらちらとこちらを伺っている。
 まるで俺のことを誘っているような目つきにしか見えない。やはり、問答無用で寝室へ連れ去ってしまうべきだろうか。
「何を遠慮されることがございましょう。本日クレスト様は仕事があるわけではございませんし、本番さながらの練習をするのに、まさに打って付けではありませんか」
 家令ハールの言葉に「でも、せっかくのお休みですから、クレスト様のご迷惑になるのも」と俺を気遣うマリーに「マリーのことで迷惑などあるわけがない」と断言しておく。
「クレスト様もこうおっしゃっています。さぁ、マリー様」
 気心の知れたメイドのアマリアに促され、おずおずとこちらへ歩み寄るマリーツィア。俺の下心を見抜いているのか、どこか警戒心を持っているようにも見える。だが、その上目遣いは逆にこちらを煽ってくるのだと、そろそろ気づいた方がいい。
「あの……、すみません、クレスト様」
 マリーは、その神秘的な紫水晶の瞳に俺の姿を映してこう言った。
「ダンスの練習にお付き合いいただけませんか?」
―――もちろん、断る理由などなかった。


パン、パン、パン
 響くのはハールの手拍子。
カツン、カツ、カツン
 少し覚束ないマリーのステップは、それに遅れたり追い越したりと忙しない。
 マリーの視線は、残念ながらパートナーの俺ではなく、自らの足元へと向かっている。手拍子を続けるハールが、どこか困ったような視線を俺に向けて来た。
 もう少し、必死にステップを踏もうとするマリーを眺めていたかったが、そろそろ潮時だろうか。
「ひゃっ」
 小さい悲鳴を上げ、マリーの身体がガクン、と傾いた。
 俺は咄嗟に彼女の華奢な身体を支え、ぐい、と腰を引き寄せた。
 本番を想定してのことなのだろう。履きなれないヒールの靴が斜めに接地してしまったようだ。
「大丈夫か、マリー」
「は、はい、すみませ……」
 申し訳なさそうに俺を見上げたマリーの言葉が脈絡なく途切れた。
「く、クレスト様、その……近い、です」
 そう言えば抱き寄せたままだったか。
 だが、彼女の柔らかく温かいぬくもりをすぐに手放してしまうのは惜しい。
「マリー?」
「はい」
「視線は足元ではなくパートナーである俺に向けるように。ステップを間違えても大丈夫だ。君の足が俺の足に乗ったところで、天使の羽根が触れるようなものだし、もし体勢を崩しそうになっても、俺が絶対に守る」
「は……い」
 目を瞬いたマリーがかろうじて、といった風情で返事をすると、徐々にその首筋が赤く色づいてきた。
「そ、その、すみませんっ!」
 マリーツィアの細腕が、俺の胸をぐいっと突っ張るように押しのける。まるで子猫が抵抗するような可愛らしさに、俺はむしろ彼女を抱き込んでしまいたい衝動をぐっと堪える。
 ハールやアマリアの目が警戒心を露わにしているのが視界の端に入っていた。どうもこの二人は、俺がマリーに不埒な思いを抱いているのではないかと疑っているようだ。
 ……まぁ、「ない」と言い切れるかと指摘されれば、それは別の話だ。
 仕方なく手を放せば、俺から一歩下がったマリーツィアが「アレはお世辞。アレはお世辞」と小さく呟いて深呼吸をした。俺がマリーに世辞など使うはずもないのに。いったいいつになったら理解するのか。
「もう一度だ。マリー」
「は、はいっ」
 ちらり、とハールに視線を流せば、再び手拍子でリズムを取り始める。
「マリー、俺を見ろ」
「でも……」
「パートナーを信じろ。ステップなど間違えても構わない」
「え……」
「いくぞ、1、2、3」
 すい、と足を動かせば、マリーの足が同じタイミングで追いつく。
 ロアー、ダウン、ライズ。ロアー、ダウン、ライズ。
 昔は自分もステップの度に頭で確認していたものだが、今は完全に体に染みついてしまっている。仕事半分、顔つなぎ半分の夜会では、無駄に整った顔のせいで、やたらとダンスをすることになってしまい辟易していたものだったが、こうしてマリーと踊るための布石だったのだと思えば、あの面倒な記憶すら大切に思えるから不思議なものだ。
「マリー、視線が下がっている」
「で、でも……」
「俺を見ていろ。心配するな」
 あぁ、こうして踊っている間は、マリーのひたむきな視線が俺に留められているのを実感する。その何と幸福なことか。
「あっ」
 小さく声を挙げて体勢を崩しかけたマリーを、ホールドした俺の腕がサポートする。
「大丈夫だろう?」
 俺の言葉に、小さく「ありがとうございます」と囁くマリーの声が胸に沁みる。いっそこの時間がいつまでも続けばいいのに。
 だが、残念なことに、始まりがあれば終わりがある。
 ハールの手拍子が止まり、マリーの足も止まる。
「やはり、お二人の息が合っていらっしゃいますね。これなら本番も問題ございませんでしょう」
「で、でも、それはクレスト様がお上手だから、ですよね? 他の方とだと、やっぱり―――」
 瞬間、息が止まる。
 次いで湧いたのは、炎のような激情だった。
「マリーツィア」
「は、はいっ」
「俺以外の人間と、踊るつもりか?」
「え……」
 俺を見上げたマリーの目が見開かれた。深い輝きのアメジストが零れ落ちてしまうのではないか、というほどに。
「でも、その……ああいった場所では、色々な方と踊るものなのでは―――」
「君は『婚約者』である俺とだけ踊ればいい」
「……そうなのですか?」
 マリーの質問は、控えているハールに向けられた。
 どうして俺の言葉を信じない?
「そういう方もいらっしゃいます。特に無理をなさって他の方と踊る必要はございません」
「でも、カルル……にいさまから、お誘いが―――」
「断って構わない」
「え、その」
「断れ」
 あいつ、騎士団にいる内に一度徹底的に『手合せ』をした方がいいな。
 義兄という立場が、俺にとって如何に無用なものか理解させても良いだろう。
「失礼いたしますっ」
 急いた様子のノックとともに入室したのは、イザベッタというメイドだ。ワゴンには、果実水が乗せられている。
「マリー、少し休憩しよう」
「あ、はい」
 腰に手を回したままソファに促すと、少しは疲れを覚えていたのだろう。従順に俺の隣に腰を落ちつける。
 こくり、こくりと喉を鳴らして甘露を飲み込むマリーを見つめていると、視界の端でアマリアとイザベッタが何かを話しているのが見えた。騎士団で叩き込まれた尾行術――尾行対象を視界の中心に置かず、あえて外すテクニック――は、身近なところでも役に立っている。
 アマリアが部屋を出ると、イザベッタは、部屋の隅に立てかけてあった四角い鞄からクラヴィコードを引っ張り出していた。
 俺の視界の中央にいるマリーツィアは、ようやく一息ついたのか、小首を傾げて俺を見上げて来た。
「クレスト様。何か上達のコツはあるんでしょうか?」
「コツ? 練習を繰り返して身体に覚え込ませるのが一番の近道だろう。だが……、相手を見なければ息を合わせて踊ることはできない。ステップが気になるのも分かるが、きちんとパートナーを見る必要がある」
 別に嘘を言っているわけではないが、後半は何故か後ろめたい思いでアドバイスを告げる。だが、マリーツィアは素直に「なるほど」と頷いていた。俺の言葉を疑わないのか。それとも、嘘ではないと判断したのか。
ピィーン
 弦を弾く澄んだ音に、マリーの瞳が俺から逸らされた。
 彼女の視線の先では、イザベッタがクラヴィコードの調子を確かめるべく、いくつか鍵盤を押していた。
 そして、隣で見ていたハールに許可を取ると、ワルツを演奏し始める。
 なるほど。
 性格に浅薄なところはあるものの、その技能は多岐に渡ると聞いていたが、こういうことだったか、と納得した。
 隣のマリーは「イザベッタさん、すごいです!」と称賛の拍手をこっそり送っていた。愛らしいことだが、あまり他の人間を褒めるのは苛立たしい。
 だが、あのイザベッタというメイドは、あの年頃の女にしては珍しく俺に見惚れる様子は少ない。むしろ、俺とマリーツィアが一緒に居るのを眺めている方が多い。ハールやアマリアが俺に対して警戒線を張るのとは異なり、むしろマリーツィアを俺の方に押し出そうとする気配さえある。
(数少ない味方を貶める必要はない)
 俺は、そっと隣の愛しい人の手を取った。
「今度はきちんと伴奏があるようだな」
「あ、なるほど。そういうことなんですね」
 素直なマリーツィアを再び中央へ誘うと、目を合わせてステップのタイミングを計る。俺の左足とマリーの右足がほぼ同時に動き、3拍子の伴奏に合わせてステップを続ける。
 マリーツィアの眼差しを受け、俺の頬が緩む。先ほどの手拍子での練習の際に上手く踊れたのを覚えていたおかげか、マリーツィアは俺のリードに従順に体を預けてくれていた。あぁ、なんという―――
「っ」
 マリーツィアの足が乱れた。足がもつれて転びそうになったところを、寸での所で抱き寄せる。
 伴奏の音が乱れたのだ。せっかく良い雰囲気でステップを踏んでいたのに、と演者に視線を走らせれば、ハールが小声で叱責していた。俺の耳は、伴奏が乱れた原因を拾い上げる。なんてくだらない理由。
(幸せそうに踊る二人に見惚れて……だと?)
「クレスト様?」
「なんだ?」
「……なんだか、嬉しそうですね。ダンス、お好きなんですか?」
 油断していた。思わず口元が緩んでいたらしい。いや、そもそもマリーツィアに俺の感情を隠し通せるはずもない。尾行や観察など、騎士団で学んだ小技など太刀打ちできないほどにマリーの瞳は特別製なのだ。こと、俺の感情を見抜く点においては。
「そうだな。君と踊るのは楽しい」
 俺の言葉に、慌てて彼女が目を逸らした。なぜ、と問うまでもなかった。耳のあたりが少し赤い。熟れたリンゴのように染まる頬が俺を落ちつかなくさせる。ここで押し倒すのはさすがに不味いだろうから、やはりどうにか俺の部屋に―――
「クレスト様?」
「なんだ?」
「伴奏役、というのはずっと同じテンポで弾き続けなくてはならないから、大変ですよね」
「……マリーは優しいな」
 俺は、マリーに貴族の屋敷では一人二人楽器のできる人間がいて、こういった時にその能力を発揮させるのだと教える。もちろん、そういった人間を雇えない家もあるが、その場合は手拍子で身体に動きを叩きこむ。
「……なるほど」
 マリーは口元を手で押さえ、じっと何かを思い詰める。その瞳はこの世界から切り離された思考の海に沈み、紫の輝きが深みを帯びた。
 知っている。こんなマリーがあの「魔術」のことを考えているのだと。
 魔術というものは、とてつもない試行錯誤の果てに為されるものらしく、ひとたびマリーが新しい効能の陣について考え始めると、目の前の俺の存在すら忘れてしまうから腹立たしい。
「失礼いたしました。クレスト様、マリー様」
 ハールの声に、ハッと戻って来たマリーは、伴奏を再び始めようとするイザベッタを見る。だが、ハールが広げた布で、イザベッタの姿は隠されていた。どうやら、伴奏に専念させるために、咄嗟にイザベッタが踊る俺たちを見ないようにした策らしい。
「マリー」
「はい」
 再び爪弾かれる弦の音に導かれて、俺はマリーの腰に手を添える。
 示し合わせたようにステップは始まり、俺のリードに逆らうことなく、マリーは足を動かす。いつの間に練習したのかは知らないが、基本のステップはしっかりと身体に刻み込まれているようだった。
「音そのものを保存することは? そもそも音ってどういうものかって解析から始めると……」
 俺に視線を向けながら、心がここにないマリーツィア。
 考えがいつの間にか口に出ていることに気づかないのだろう。それでも、足は正確なステップを踏んでいるから大したものだ。逆にステップを意識しない方が踊れるのではないだろうか。
 ……ただ。
「伴奏……。楽器本体に動きを記憶させる? でもそれだと―――」
 俺にしか聞こえていないのだろう。この声。
 ターンも促されるがままに決め、本人が心配していたように、足を踏むようなこともない。
 ……ただ、これは問題だ。
「各鍵盤に1音1音が対応しているなら、上に動きを覚えさせた板の組み合わせで―――」
 俺の胃の底が、ぐっと冷え込んだ。
 憤りを低い声に纏わせ、耳元に囁きを落とす。
「俺を見ないなら、君と一緒に暗闇に閉じこもってみようか」
「ゃっ!」
 驚いたマリーツィアが自分の足を踏んで体勢を崩す。俺は意図的にそれを支えきらず、彼女の身体が俺の上に来るように背中から倒れ込んだ。
「クレスト様、マリー様!」
 ハールの慌てた声が聞こえ、イザベッタの伴奏が止まる。
「マリー?」
「きゃっ、クレスト様、すみませ―――ん?」
 仰向けに倒れた俺の上に寝そべるような体勢になったマリーが慌てて起き上ろうとするのを妨げ、ぐっと抱きしめる。
「マリーツィア。それは何に対する謝罪だ?」
「その、転んで、クレスト様を巻き込んでしまったこと―――にぃっ」
 抱きしめた背中を撫でれば、俺の怒気にようやく気付いたのか、瞳を小さく震わせた。
「マリー。俺は君に『パートナーを見る』ようにと言ったな」
「……はい」
「見ていなかったな?」
「……は、い」
 申し訳ありません、と謝るマリーの語尾がより小さく響く。
 少し強張った頬をそっと撫で付ければ、その顔が恥ずかしそうに赤らむ。
「俺といる時は、俺のことだけ考えるんだ。そうでなければ――――」
「そうでなければ?」
 俺の心に仄暗い炎が灯る。
「君に二度と光を見せないことになる」
 どの部屋を使えばいいだろうか。それとも、離れを新しく建ててやろうか。彼女が俺のことしか考えられないようにするには、そこで毎晩――――
「く、クレスト様っ」
 慌てたように撥ねた声が、俺の思考を遮った。
「その、せっかくのお休みのところ練習にお付き合いいただいたのに、すみませんでした。ちゃんとダンスにもパートナーにも集中しないといけませんよね」
 ……まぁ、分かったのならいい。
 でも、マリーツィア。覚えておいて欲しい。
 君のためなら犯罪者になるのも厭わない俺だからこそ、全ては君次第なんだということを。
 好きで監禁したいわけじゃない。ただ、我慢できなくなるだけなんだ。
「マリーツィア」
「さ、さぁ、クレスト様! 続きをお願いしますっ!」
 少し慌てて起き上がったマリーが、まだ床に寝そべる俺に手を差し出した。
 彼女から差し出される手を拒むなんて有り得ない。
 俺はその手を掴み、立ち上がると、そのまま愛らしい彼女の手の甲に唇を押し付けた。
「二度はない」
「は、はい……」
 ちゃんとクレスト様のことを見てステップ踏みますから!と真っ直ぐに俺を見つめるマリーに、「そうじゃない」という言葉を飲み込んだ。
 慌てて俺の機嫌を取ろうとするマリーを、少し狡いと思うものの、それでもそんなマリーを可愛いと思ってしまう自分は。
(恋は惚れた方が負けるんだよ)
 悪友のしたり顔が浮かぶ。
 可愛いマリーが見られるならば、負けるのも悪くないと思ってしまう俺は、きっとこの先も負け続けることになるのだろう。
 それをちっとも悔しいと思わない時点で、俺は負けているのだから。

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